ベッドの上で体を起こそうとしたがおなかに力が入らなかった。仕方なく横向きになってベッドの端へ寄り、それから体ごと転び落ちた。体を起こしてベッドに手をついて立とうとした。膝が折れてしまい立っていられない。何とか立ってみたが、部屋がぐらぐら揺れているような、自分の体が傾いているような、とにかく真っ直ぐ立っている気がしなかった。わたしは何度もよろめいて両手をついた。諦めて這ってゆくことにしたが、一メートルも進まないうちに両手の二の腕と両足の大腿に力が入らなくなった。わたしはうつ伏せになったまましばらく休んで、それから更に姉の部屋とを仕切る襖に向かって這った。あと十センチほどのところで、急に右足のふくらはぎが強い痙攣を起こした。筋肉がねじれ、ちぎれてしまいそうな痛みだった。
休んでばかりだったがようやく襖を開けて姉の部屋に入りこんだ。声を出して呼んでみたが返事はなかった。枕元まで近寄ってもう一度呼んでみたが、姉は黙ったままだった。顔に触れてみた。冷たかった。姉は死んでいた。わたしは獣のようなうめき声をあげそうになったが、喉が締めつけられて声は出なかった。姉の顔から引いた手が懐中電灯に触れた。わたしはそれを握ってスイッチを押した。もう電池が残り少ないのか今にも消えそうなくらいの明りだったが、それでも姉の顔は見えた。痩せ衰えて頬骨ばかりが目立っていた。皮膚には紫色の斑点が浮いていて、それがひどくグロテスクだった。
それに何という匂いだろう。わたしはなぜ今まで部屋中に充満するこの悪臭に気づかなかったのだろう。わたしはひどい嘔吐感に襲われた。胃がもみあげられ、ねじられて、わたしはその場で口を大きく開けたが、何も出ては来ないままに更にわたしの胃は痩撃を続けた。目から涙が、鼻からは鼻水が流れた。
ずいぶん長いことわたしは休んでいた。
わたしは姉の顔や体を拭いてお化粧してやろうと思った。もしも立場が逆だったとしても、姉はわたしにそうしてくれただろう。わたしは立ちあがって壁にへばりつきながら台所まで行った。懐中電灯のかすかな明りに照らし出される足元には、インスタント・ラーメンの空っぽの袋や鍋、布巾や汚れたタオル、そして様々なインスタント食品が包装されていた紙やポリ袋などが散乱していた。わたしはやかんを持って流し台の前に寄りかかった。蛇口を回すと水が出た。やかんを流し台のなかに置いた。やかんから溢れ出た水を少し捨てて、ガス・レンジにのせた。点火スイッチをひねる。火がつかなかった。何度回してみても同じだった。わたしはやかんを取ってガス・コンロに鼻を近づけてみた。何の匂いもしなかった。元栓など止めてはなかった。ガスは止められていたのだ、料金滞納で。わたしはお湯で姉を拭くことを断念した。
ポリ・バケツと洗面器に水を入れて、わたしは姉の枕元までしっかりと歩いた。押入れからタオルを何枚も引っ張り出して、先ず姉の顔を拭いた。それからピンク色のパジャマと肌着を脱がし、ブラジャーをはずして上半身を丁寧に拭った。パンティを引っ張って両足からはずす。何という匂いだろう。それは死臭に違いなかった。わたしは嘔吐をこらえて姉の下半身を拭き始めた。初めは性器だった。性の器とはよく言ったものだった。
わたしは姉のそれを清めながら、彼女が少なくとも二回妊娠し、二回中絶手術したことがあるのを思い出していた。朝食を食べられずに洗面所へ行って吐く日が続いたことがあって、わたしが心配して病院へ行くように言うと、姉はあっさり妊娠しているのだと言い、そして一週間か十日もたたないうちに、元気のない声で中絶手術をして来たと言った。もう一度同じことがあった。まだあったかも知れないがわたしが知っているのは二回だけだった。
姉には昨年の十一月まで、三年越しに交際していた恋人がいた。会社に出入りしていた事務機メーカーの営業マンだった。中絶した胎児の父親は間違いなく彼だとわたしは思う。恋人がいることがわたしに知れると、姉はいつか紹介するからねと言ったきりいつまでも会わせてくれなかった。だが、別れる前の月、十月の土曜の夜に、ひとりでは立っていられないほど泥酔した姉を送って来てくれた彼と、わたしはついに顔を合わせた。姉を抱きかかえて部屋に入って来た彼は、外見も振舞いも無骨で、姉よりも七つ年上だった。姉はろれつの回らない口調で、わたしはこのひとと結婚するのよ、ねえ、そうよねと同じことを繰り返し言ったが、彼はただ困ったような顔をするだけで応えなかった。わたしには姉の勝手な思いこみとしか思えなかった。姉を欺くような男ではなさそうだったが、もう姉から気持ちが離れはじめている、そんな感じを受けた。
どんなに拭いても部屋中にたちこめる死臭は消えなかった。わたしは姉の鏡台の引き出しのなかをかき回して、香水の瓶を見つけた。そして姉の張りのない胸やおなか、性器、両足に少しずつ振りかけては手で撫でて広げた。タンスに首を突っ込んで新しい下着を探したが無かった。考えてみればわたしだってそうだが、初めのうちは洗濯もせずにある下着を着替えていたので、もう着替えはないのだ。部屋の隅に着たままの汚れた下着が山になっていた。仕方なく奥の部屋に戻って、わたしは自分の下着を出した。新品ではないが、洗ってある。横着なわたしの方がまだ少しは残っていた。パジャマはなかったので、姉のお下がりの浴衣を着せることにした。それは死ぬ前に母が姉に作ってくれたものだった。
姉の着替えを済ますと、わたしは疲れきってまったく動けなかった。壁にもたれかかったまま、わたしの脳細胞は海辺の波のように、気が遠くなったり、また近づいて冴え渡ったりを反復していた。早く自分のベッドに戻りたかったが、まだ当分動けそうになかった。このまま眠って死んでしまってもいいと思った。死体になってしまえば、ベッドのなかでなくても、どこに転がっていても構わない。ただまだ生きているのでひどく寒くて、わたしの体は止めようもなく震えだし、震えがどんどん大きくなって壁に寄りかかっていられなかった。
姉に最後の化粧をしてやらなくてはならなかった。わたしは体を伸ばして鏡台の引出しごと引き抜き、手元に置いた。化粧水で顔の汚れを落とす。紫斑がくっきりと現われた。クリームを塗り、更にファンデーションを何回も重ねて、何とか紫斑が気にならない程度になった。唇には数本あるうちのいちばん赤味の強い口紅をひいた。
懐中電灯で姉の顔の中央を照らした。きれいにはなったが、どう化粧してもそれは死んだ顔だった。
わたしはエゴン・シーレの絵に描かれた人物の顔を思い出した。そして彼の絵のなかの人物がことごとく姉と同じ表情をしていたのに気づいた。わたしはふと体をよじり、鏡台を見た。にじり寄って鏡のなかをのぞきこんでみた。懐中電灯の光を自分の顔に当てる。姉やシーレの人物たちと同じ生気のない顔だった。死相というのだろうか。シーレは生きている人間に死相をみていたのだ、きっと。わたしも今わたし自身の顔に死相を見出した。それは今に始まったのではなく、ずっと以前からわたしの顔の表情として存在していたような気もした。
わたしはもう一度姉の顔をのぞきこみ、さようならをしてベッドに戻ることにした。わたしももうじき姉のように死ねるのだ。
静かだ。やはり夜なのだ。
姉はすでに死体として浮遊している。
わたしはベッドにもぐりこんでからまた悪寒に震えている。手足ばかりか、体全体に熱が感じられなかった。もう、自分の体を冷たい水で拭く余裕もなかった。お化粧して死んでゆく気にもなれなかった。部屋のなかのゴミや下着や茶碗や箸、ラーメンを作ったまま洗ってもない鍋などが乱雑に畳の上を覆い、部屋全体が半ば腐りかけているような悪臭に包まれているのに、こうして平然と寝ていられるわたしはもう半ば人間ではなくなっているのだ。
どれくらいか、わたしは眠ったらしかった。
また目覚めてしまって、もう考えることもなくぼんやりしていた。何も考えないでいると、死ぬのがひどく怖くなった。早く死にたいと思っているのに、死ぬのが怖かった。もう死が間近だとわかっているから余計に怖いのだ。
わたしはもう一度ベッドから抜け出して、本棚からチェーホフの本を手に取った。そして畳にしゃがみこんで三万円を挟みこんである頁を開いた。物入れの引出しにお米屋でもらったライターがあるはずだった。壁際に置いたままの片手鍋を引き寄せて、わたしは三枚のお札に火をつけた。眠っていて見る夢よりも更に悪い夢だった、ホテルでのあのわたしの過ちの時間があっという間に燃えつきた。
わたしは右手でライターの火を燃やしながら、左手で畳の上に置いたチェーホフの本をめくった。
「人間の内部に、一切の外的な影響を上回るより高度なもの、より強力なものがなくなると、ただ鼻風邪ひとつひいても心の平衡を失って、あらゆる鳥をふくろうと見あやまり、あらゆる物音を犬の遠吠えと聞きあやまる。そうなると、彼のペシミズムなりオプティミズムなりは、彼の大小さまざまの思想と共に、たんなる病気の徴候になりさがるのである」
この言葉がわたしの頭のなかに住みついてしまって、今でも息をしている。わたし自身が病気の徴候になりさがったいい見本だった。自分のなかをどんなに探しても、一切の外的な影響を上回るより高度なものも、より強力なものも見つからなかった。だから単なる病気の徴候だけを生きて、そして死ぬしかない。
それは、おそらく優生もそうなのだろうと思う。彼が母を殺害したのも、ひとつの徴候の結果であり、またひとつの夢祭りだったのかもしれない。
それが正夢祭りなのか、逆夢祭りなのか、わたしには解らない。
また吐気がしてきた。もう吐くものなど何もありはしないのに、胃が口に向かって押し上げて来る。食物を断たれたことへの腹いせか、胃が胃であることに絶望してもだえているのか、わたしはたまらなくなって片手鍋を握って顔に近づける。だが、姉の死臭によって再び感覚を取り戻した鼻が、鍋にこびりついたインスタント・ラーメンのスープの油脂の匂いや、お札の焦げた匂いを敏感すぎるほど感じとる。隣の部屋の匂いさえ漂って来る。わたしは鍋を放りだして、散乱する衣類のなかから一枚を掴み口に当てた。すえた匂いが充満する。諦めたわたしはよつんばいになり、畳に向かって口を開けた。粘った液体がよだれ程度にしか出なかった。全身が収縮して悪臭を吐き返す。
もうわたしにはベッドに戻る体力も気力もなかった。ベッドに手を伸ばして掛け蒲団を引きずり下ろし、体に巻きつけた。
またどれくらいか眠り、目覚めたわたしはベッドに這い上がった。そして仰向けになり、お行儀良く両手両足を伸ばした姿勢になった。目を閉じる。誰も、わたしを包んでいるこの闇に光を当てることは許されないし、出来もしない。数秒もしないうちに、わたしの体は闇に浮遊し始める。もう、わたし以外の誰も、何ものも存在しない。
(了)
全編のPDF版です
なんだか、悪夢に見てしまいそうです~。
返信削除住所あるなら、生活保護受けられるから、生き返って、いっしょに相談に行きますよ!!でも、生きる《希望》がないと、いくらお金があっても、人間生きていけないんですよね。。。
いろいろ考えてしまうお話でした。。
ほんとうにネガティブなものを読んでいただき、申し訳ない気持ちです。不味い料理を出して不興を買ったヘボ料理人が廃業を決意する心境にそっくりです。
返信削除数日で非公開というか、削除する予定です。
(とだけ書いて、さて、外まわりの仕事にでかけます。)
フフフ・・・。ところが、くるはずのお方がおひとり、PCのトラブルに合われたとか・・・。数日ではすみそうもありませんよぉ~。
返信削除ちなみに、どうでもいいことですが、私もようやく明日(今夜)で、終わります。
Lydwineさん、そのようですね。一年ちょっと前の自分のハードディスクの悪夢の物理的クラッシュを思い出してしまいました。
返信削除仕方ないので、今はアナログ生活を楽しまれた方がいいと思いますね。
ということでしたらじきに非公開にして、またパソコンが復活されたら時限公開することにします。それよりテキストデータを直接お送りした方がよさそうです。
ああ、もう旧作公開は二度といたしませぬ。
新作、書けるかなァ、はァ(ため息)。
読ませていただきました。。。
返信削除感想、苦手なのでうまく言えませんが、ラストの数行が特にこころに残りました。
このページで気づいたのですが、
流し台が「施し台」
考えるが「者える」
引き抜きの後の「、」が「、、」
「平衡を失って」が「平衡をって」
となってしまってるようです。
Wha、クロエさんはこんなの読んではいけません。
返信削除でも、読み取りミスのご指摘、ありがとうございます。大雑把な性格である上に、自分のは嫌々するものですから、間違いだらけです。今、訂正いたしました。感謝いたします。
おっと、訂正されるなら、Wordに入れてみて、波線が出て気づいた幾点か・・・。
返信削除「惜しげ」→「情しげ」
「キャベツ」→「キャペツ」
「。」→「、。」
記憶だけを頼りに書いているので、どこだったかわからないのですが・・・。
それから、「うなづく」は「うなずく」かと・・・。
おお、まだありましたね。
返信削除どこか場所がよく判りませんのでまた明日にでも訂正します。
そうだ、「検索と置換」を使えば楽に発見できますね。
スキャナーの場合、画像とテキストを並べて校正するために文字の表示がやや小さくて、カタカナの「ベ」と「ペ」の間違いを見落としやすいですね。キャペツになってしまうんです。
Lydwineさん、それにしてもアホな試みでした。
Word二段組に組み込みましたので、これからじっくりと拝読します。
返信削除私のほうは、あまりにも詰まらなさすぎて、見事なほど、日を追ってアクセスが減り、今や、ほとんど皆無になっていますので、晒しておいても、読まれる心配はない、と、けっこう開き直ってます。
私も『薔薇色の鼠』をWord二段組に流し込みました。(^_^.)
返信削除あれ? 会話のカギカッコが一字下げになってますが……とりあえず読むのには差しつかえないでしょう。
ブログの初期設定時に、考えなしだったため、フォントをMSPゴチック体にしてしまいました。ところが、MSPゴチックの鉤括弧って、行頭にくると詰まって見えるんですよね。それが嫌で、引用のときなども、ある時期からあえて一字空きにしているんですよ。
返信削除とはいえ、あんなナルシスで退屈な小説は素通りして、もっと面白い小説を読みましょう。時間の無駄ですよぉ~。
なお、ココログただいまメンテナンス中ゆえ、しばらく更新できません。
一字下げはそういう訳でしたか。納得です。
返信削除面白いか、面白くないかは、読んでみないと分かりませんぞ。(^_^;) 昨夜は途中までで、あとは眠りましたが。
そういえば、「千草」が「干草」になっている場所がありましたね。形が似ているからOCRも人間も気づかずに通り抜けてしまったんですね。まあ、スキャナーでの読み取りには必ずあることなので仕方ないですが。
何ヶ所あるか、「検索」、「置換」で探してみたら、11ヶ所ありました。
11箇所・・・ですか・・・。それも干(し)草・・・。それは千草ちゃんが悲しみます。頑張って直します。
返信削除頑張らなくても、Wordの「編集」、「置換」で、「干草」を検索、「千草」を「置換」に入力して、「すべてを置換」すれば一発で訂正終了です。
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