2007年7月22日日曜日

わたしたちの夢祭り(8)

 姉がわたしを呼んでいる。
 そう感じたが、わたしの衰弱した体は容易に動きそうもなかった。第一、わたしたちはもうお互いに動かないという約束をしていた。死を待つ、それだけがわたしたちの唯一の目的なのだ。
「あなたは生きていていいのよ」
 姉はそう言ったが、わたしはとうてい生き続ける気持ちは持てそうになかった。
 また姉は初めわたしに遺書を書くように言ったが、わたしには書けなかった。毎日のように図書館に通っていたのだから、姉は、わたしが自ら死んでゆくふたりの思いのすべてを書けるのだろうと思ったらしい。でも、わたしには何も書けなかった。何を、誰に向けて書けば艮かったのだろう。また、仮にわたしが姉の望むような遺書をしたためたとしても、誰が読んでくれるのだろう。警察官か、新聞記者か。彼らが何を理解するだろう。彼らは、せいぜいわたしたちが死んだ理由をその職務に合わせて解釈し、報告し、調書や記事にするだけなのだ。そうでなくて、たとえば彼らのうちの誰かひとりでも、わたしたちの死の真の意味らしいものを発見したり思い当たったりしたとしても、彼はそれを胸の内に隠してしまい、決して公けにはしない。それはそれで構わないとわたしは思う。わたしが未だに両親の死を理解できないように、生者は死者を余り深く理解してはいけないのだ。
「わたしたちは死にます」
 わたしが期待に反してついに遺書を書かなかったので、部屋の入口の冷たい鉄製のドアの内側に、姉は口紅でそう書きなぐった。ほんとうは、わたしも書くことは書いたのだった。わたしたちにはあえて生き続ける意味も理由もありません、と。それだけで止めておけば良かったものを、あなた方だってそうなのです、などと余計なことを書いてしまって、わたしはあわてて便せんを破いてしまった。姉のなぐり書きの方がずっと単純明快で、遺書として価値があると思われたし、黙って死んでゆくことが、勝手に死んでゆく人間にできる唯一最善の礼節だとも思われた。
 だが、わたしはほんとうに死ねるのだろうか。
 食べ物が無くなった日から、姉とわたしは水さえも一滴も口にしていない。それから四、五日しかたっていないのか、一週間か十日くらい経過しているのか、わたしには見当もつかない。暗闇のなかで、日の出も日没も見ることなく、ただ目覚めては何ごとか考え続け、疲れては眠るだけの植物人間めいた生きざまには、時間に対する感覚も消滅してしまうみたいだ。それでいて時は機械的に刻まれていて、わたしは間違うことなく死の瞬間に一秒、二秒、三秒と確実に近づいている。
 約束を破ることになってしまうが、わたしはもう一度姉の顔を見たくなった。姉だって無用なハーブ・キャンディを持ってわたしの様子を見に来たのだ。わたしがどの程度死に近づいているかを確認するために。だが、わたしより気の強い姉だから、そう何度もわたしの部屋へ来ないだろう。
 ふたりが別の部屋に寝て死んでゆこうと言ったのはわたしだった。姉は初めひとつの部屋で並んで眠るつもりだったらしいが、わたしは反対した。いくら姉妹でもよほど運が良くなければ、同時に息を止めるなどといことはありえない。どちらかが衰弱したり、死に瀕した時に残るひとりがどんな行動を取るが。ぎりぎりのところで気持ちを翻したり、助けを求めたりしないとも限らない。ことに姉が先に死に臨んだ場合はわたしが、わたしが先に死に臨んだ場合は姉が、お互いを死なせまいとして行動することは十分に考えられた。確実に死ぬためには、姉は姉、わたしはわたし、自分ひとりの力で死んでゆくしかなかった。さんざん姉の厄介になり、こうして死んで行かなくてはならない直接の原因もわたしにあるというのに、わたしはそう言ってひとつ部屋で共に死にたかったであろう姉を突き離してしまった。
 情の薄い妹だ。
 心中というか、死を初めに口にしたのはわたしではなく姉だった。姉は多分、怒りとか憤怒のような感情によって決意し、わたしに打ち明けたのだと思う。わたしはあっさりうなづいた。わたしが嫌だと言って抵抗したり説得すれば、あるいは姉の気持ちは変ったかも知れなかった。
借金などどれだけあっても死なないで済む方法はいくらでも考えられた。早い話がふたりでどこか地方へうまいこと気づかれずに蒸発してしまえば、彼らが地の果てまで追って来る訳もなし、何も死ぬことはないのだ。それでいて死ぬことに反対しなかったのは、やはりわたし自身が死にたかったのだとしか言いようがない。
 図書館で、ニーチェというひとの『悲劇の誕生』という本をひと月もかけて読むともなくながめていた時に、「存在と世界とは美的現象としてのみ是認される」という部分が目にとびこんで来て、わたしの脳に一瞬のうちに焼きついてしまったことがあった。真とか善とか美とか、そういったものに人間は価値を見出す。確かなことだと思う。つまらないたとえになるけれど、不美人より美人が好まれる。お金は無いよりあった方がいい。自分を認めない相手より自分を認めてくれる人間の方がいい。自分に冷たい人間には冷たく応対するし、優しくしてくれる相手には自分も優しくする。それが人間なんだと思う。でも、それでは真も善も美も持ちあわせていない人間はどうしたらいいのだろう。
 やっぱり、是認されない存在として存在することをやめるしかない、わたしはそう思っていたのだ。わたしは初め、やたらに失神し卒倒する自分の病気を、是認されないはずの存在が敢えて存在していなければならないことへの抗議のしるしだと思って納得していた。だけど違うのだ。それではあまりに格好つけすぎる。単にうまく生きられない、それだけなのだった、実際は。皮肉なことだが、存在と世界とはやはり美的現象としてだけ認められるのだ。
 失神の予兆である偏頭痛があまりに激しく、苦し紛れに自分の首を両手で思いきり締めてみたことがあった。ほんの十秒もしないうちに、わたしは目の前が暗くなり意識が薄れるのがわかった。だけど、自分の首を締めている腕の力も同じように弱くなった。それでわたしはじきに元に還ってしまった。死ぬ瞬間なんてあんなものだろうと思う。両親が排気ガスを吸って死んでいった時も、あんな風に気を失って、そしてそのまま意識が戻らなかっただけなのだ。

                                     

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