2008年12月31日水曜日

そば粉の不思議

 長男が元日から4日に勤務ということなってしまい、年末に帰省、31日には東京へ戻る予定で帰って来たので、28日に早速蕎麦打ちをした。お箸が使えない頃から手で蕎麦を食べていただけあって、さすがに食べる。2人前平らげて平然としている(ひそかにニコニコ)。
 自家栽培自家製粉のやや粗めが混じったそば粉で二八蕎麦を、Y田さんいいただいたむきみを挽いたらしい粒子の細かいそば粉で十割蕎麦を打ってみた。
 その十割蕎麦の残りが翌日茹でても切れずにつながっているのには驚いた。
 やはり粒子が細かいそば粉を使えば十割蕎麦もちっとも難しくはないのだ。ただし、風味はやはり、無くなる訳ではないが上品にふんわり感じるようになる。挽きぐるみのそば粉のようにダイレクトな風味ではないが、これはこれでいいだろう。
 ということで、状況に応じて十割蕎麦、二八蕎麦と打ち分けることが可能。
 残る課題は、もう少し細く、きれいに切ること。これは数をこなさないとなかなか......。

2008年12月30日火曜日

重すぎるFirefox

 いつからか(この一ヶ月くらい)、ブラウザのFirefoxが起動するにも時間がかかり、サイトを表示するのにも時間がかかるようになってしまったので、検索すると早くする方法があちこちで書かれているが、ちょっとめんどうで自信がない。
 仕方なく、いったんアンインストールして、新たに入れ直してみたら、その直後は軽いが、次回からはまた以前の動作の鈍いFirefoxに戻っている。
 Firefoxを捨てたくはないのだけど、今のままではどうも。
 SleipnirのHeadline-Readerが猛烈に早くて軽いので最近はこちらでRSSの更新を確認していますが。

2008年12月29日月曜日

超鈍足編集発行人大奮闘於歳末

 先ほど、ようやくにして自分の所属する先月20日が発行日の同人誌の感想を書き終え、アップロードを終えた。作品は書かないわ、感想もなかなか書かないわで、皆さんが走られるその最後尾をのろのろ走る自分の様が目に浮かんで、情けないったらありませんが、ようやく気合いを入れて責務を果たしました(ぜいぜい、はあはあ)。
 実はまだ年内に感想を書きたい作品が2~3作あるので、これでのんびりというわけにもいきません。

 昨年末から今年にかけてシイタケなどの原木を生まれて初めて切らせていただいた山へ、昼過ぎにちょこっと行ってみた。事情があって持ち主が死亡してしまったのでここを譲渡してくれるという話も立ち消えになってしまい、またチェーンソーを持って入れるかどうかは不明だが、葉を落とした楢の林に入ってみると、まさに森閑。振り仰ぐ木々の一本一本が空に向かって伸びているその形態が妙に魅力的で、木や石が羨ましく感じられるが、あれ、誰か、道路沿いの山桜の木を切って、そのすべてを持ち帰らずに根元の1mほどだけを持ち去って残りは放置していったようだ。ナメコを打ち込むのだったらもう少し幹全体を持ち帰るだろうが、彫刻とか版画とかに使うのだろうか? 今、里山はあまり手入れに入る人もいないので、結構、堂々と他人の山の木を切る者がいるようです。

2008年12月28日日曜日

激しく集中、出来る?

 ようやく仕事もかたづき、今日は山へ松を取りに行き、しめ縄を作る準備をした。ただしかなりの寒風なのでしめ縄作り自体は明日に延期し、家のなかで紙垂作りをする。明日は餅搗きもするらしいが、餅つき機なのでひと臼一時間くらいかかるだけでその合間にしめ縄を作っていればいい。
 しめ縄も昨年初めて作ってみたら何とか形になったのでその気になって、まだこれで二年目。

 昨夜から、今年中に感想を書かなければならない作品を読み直し、感想を書く作業を開始。5本の指では足りず10本で少し余るだけの作品を読み直して感想を書けるかどうか、とにかく大晦日まで激しく集中しよう。
(結局、今夜は3作の感想をアップしておしまい。その間ずっと、フォーレの夜想曲1~11番を流し放し。ピアノ曲は音が滴のように聞こえるのがいちばん。)
 
 これまでずっとWordを使い続けてきて、漢字変換ソフトは当然マイクロソフトのIMEだったのだが、もっぱら一太郎を使うようになってからも漢字変換ソフトは敢えてIMEを使い続けてきた。
 それをふと思い立ってATOKに切り替えてみたのだけれど、当初は変換がスムーズに行かなくて閉口。
 でも、ここでIMEに戻してはいけないので、もう少し我慢してATOKで続けてみよう。

 RSSリーダーとして使ってきたFirefoxがこの頃なぜかむやみに重いので、Sleipnir内蔵のHeadline-Readerにしてみたらこれの更新動作が実に軽くて早いので、この頃はウェブもブログチェックももっぱらSleipnirに。

2008年12月27日土曜日

ネットは無料が基本

 何やらいう電子書店サイトから、デジタル文学館のメールフォーム経由で「有意義なサイトと思いましたが、デジタルにしては作品を横書き体裁で掲載されております。これらの作品を本格的な電子本体裁にしてはいかがでしょうか。ご支援します。」というメッセージが届いた。
>デジタルにしては作品を横書き体裁で掲載されております.
 はあ? うちも縦書きのPDFファイルも横に置いてあるのだが、気がつかなかったんでしょうか。
 とりあえず相手のURLに行ってみたら、あ、このサイトは以前から知っておりますが、要するになにがしかの金銭を得て小説をウェブ上に掲載している営業サイトなのでした。T-Timeは専用のビューワーを必要とするので敷居が高いし、最近の掲載作は普通のPDFファイルである。これを電子本というのなら、わがPDF版も(体裁は質素ですが)立派な電子本ということになります、よね。
 PDFはかつてはAdobeの高額なソフトがなければ作成できなかったが、今は技術が公開されて有料・無料でPDF作成ソフトが目白押しである。
 売れる売れないにかかわりなく小説を身もだえしながら書いているひとたちから、こういう風に金銭を稼ごうという姿勢に、私は背を向けます。インターネットは貧乏人の表現媒体とかいわれましたが、ネット接続の環境さえあれば、あとは無料が基本でしょう。


2008年12月26日金曜日

言葉の国の在りえぬアリス

 パソコンの電源が入ったら、一日中そのまま終了しないでおいて、今夜はエッセイ2編、詩3編と表紙のレイアウトを終了。
 
 どうもしかし、言葉の国では言葉が絶対専制君主であるべきであろう。
 こういうことはありえないとか、ありうるとか、つべこべ言う余地も無いのが表現としての言語ですよね。




 12月25日の夜ですね。
 今夜、またジョン・レノンのHappy Xmas (War Is Over) をここに置いたら笑われるだろうから、天の邪鬼な私はこれにしました。



 亡命以前に旧ソ連で製作された彼=Tarkovskyの映画はすべてネット上にアップロードされていて、著作権を云々するのもノンセンスなくらい、観ることが出来る。西側に亡命以後の映画の著作権は守られている。何という不合理!!


 

2008年12月25日木曜日

瀕死の機械たち

 パソコンだけでなく、インクジェットプリンタまで調子が悪い。考えてみればカラープリンタなんて一年に一回、年賀状に使うだけなのだから調子がいい訳はない。自動車と同じで、毎日使っている方が調子がいい。
 
 いずれにしても、パソコンの電源がまったく機能しなくなる前に、ひとつボランティアな編集作業を終えてしまおう。正月休み明けと思っていたが、年内に仕上げてデータCDを焼いたり、出力見本も出して、発送するだけにしてしまおう。1月半ばに発行したいなんて、ムチャ言わんで。
 それからだったらこのパソコンが動かなくてもしばらくはパソコン無し生活でも構わない。もっとも98のデスクトップがまだ普通に動いてくれるので、普通にウェブやブログの更新は出来る。
 冬の寒ささえなければデスクトップの方が安定していていいのだが、この地の真冬は寒くてね......。
 あ、念のために一太郎もデスクトップにインストールしておかなければ。
 さて一太郎で編集作業開始。そういえば、まだ掲載順が不確定だし、ひとり追加原稿があるのでした。しかし、今回はすごいメンバー。

2008年12月24日水曜日

ありがとうございました

 今日は、私と文芸同人誌でのお付き合いがもっとも長い方(前に所属していた同人誌から25年くらい)のご主人が21日に亡くなられ、今日の葬儀に参列し、お焼香、ご冥福を祈らせていただいた。ご主人には、同人誌の表紙の絵をずっと描いていただいていた時期があり、お礼もせずにお世話になりっ放しでした。ありがとうございました。
Requiem(やすらかに)





 今日も午後になってパソコンの電源が入りにくくなった。何とか電源が入るまで苦心しているのだが、やがてまったく電源が入らない日が到来するのだろうか。
 一応、後継機を何にするか検索を始めたが、購入してこれで二度目のトラブルなので、とりあえずこのパソコンのメーカーは排除。配偶者のパソコンがこれより古いのに一回もトラブルなく動いているのに注目。検索すると、結構評価が高い。



2008年12月22日月曜日

Wordとオヤマボクチの......弱点

 またちょっとした編集作業が始まるので、到着した原稿をテンプレートに流し込んでみているが、Word原稿は出来ればいったんテキストファイルにして余計な書式は払い落として裸にしてしまいたいのだけど、図がつかってあったり、ルビが振ってあったり、他にもWord独自の機能などを使われていると、簡単にテキスト・ファイル化出来ない場合がある。今回もそういうWord原稿があって、泣かせられそう。
 自分がWordを使っている時には当たり前だった機能が、一太郎に乗り換えてからは鬱陶しくてたまらない。

 昨日打ったオヤマボクチをつなぎにした蕎麦を夕食時にゆでて食べてみた。硬くて風味が無くてとイメージが悪かったオヤマボクチ蕎麦だが、初めて、硬すぎず風味もまあまあの仕上がりとなっていた。オヤマボクチの量を減らし、加水を多くし、あまり執拗にこねないようにしてみたら、食べられる蕎麦になった。大根おろしと刻み海苔とワサビでおいしくいただきました。二日間蕎麦ばっかりですが飽きません。これだったら、遠方の友人の皆様にクール宅急便で送って、翌日や翌々日にゆでて食べていただくことが可能ではありませんか。
 二八蕎麦や十割蕎麦だと、打ってすぐにでなく、翌日や翌々日にゆでて食べるなど不可能なのですが、オヤマボクチはそれを可能にしてくれるのです、(^_^)
 若干、加水が多すぎたか、柔らかめにはなったがコシが少し足りなくなったので、加水率を1%か2%くらい少なくした方がいいだろう。それから風味。オヤマボクチをつなぎにする場合は、あまり粒子の細かいソバ粉だけを使わず粗挽きを混ぜ、しかも40分などという法外な時間こね続けるのをやめる。あまりに長い時間こねると、もちもち感が強くなりすぎ、また風味が閉じ込められてしまうような気がする。それからオヤマボクチの使用量も出来るだけ低めに抑える。その量の健久。

 オヤマボクチをつなぎにしながら、いかに風味を生かすか? うーん、むずかしい。小説を書くのも蕎麦を打つのも同じくらいむずかしく、どちらも中途半端......(ーー;)

2008年12月21日日曜日

ふと年賀状のことを思い出して (ーー;)

 仕事は午前中にとっとと済ませてしまって、午後はしばし蕎麦打ち。

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 最初は二八で500gを打ってみたが、やや水が多すぎたようで、コシが無くてぶち切れそうで、ひと様に上げられるような出来栄えではなさそう。責任上、自分が食べることに決定。
 続いて、先日Y田さんにいただいた、「ぬきみ」を製粉したらしく十割蕎麦を打つには最適だが風味が心配な微粉な蕎麦粉と、自分で製粉した際に生じた本来は捨てるべきであろう超粗挽きを、半分ずつ配合したソバ粉250gにオヤマボクチ1gをつなぎにして打ってみた。
 さすがにオヤマボクチである。丁寧に捏ねさえすれば、延しはどんなに乱暴にしてもぐいぐい薄く延びた。30分ほど放置乾燥させてから切った。ざくざくと面白いように切れるが、薄いので幅は広めに切る。
 これもコシと喉越しはまだしも風味が心配なので、責任上、今夜と明日の都合4食は蕎麦責めという異常事態に。発泡スチロールの平箱に入れておき、その都度茹でる。
 今夜は問題の二八。案の定、水が多すぎた二八蕎麦は茹でたらぶち切れて10センチから数センチというみじめなお姿に......(泣)。
 明日の昼は、オヤマボクチ蕎麦の茹で時間の実験であります。
 T屋さんの情報によれば、この地のオヤマボクチ蕎麦の先駆者であるY口さんが「T屋さんだけに教える」と言って口にしたのが「少し、フノリを混ぜる」って、おいおい、へぎ蕎麦ですか? 
 私、蕎麦打ちの第一義を「風味」といたすことにしました。「コシ」よりも「喉越し」よりも、先ずは蕎麦の風味を最優先すること。あ、でも、コシも喉越しもいいに越したことはないのですが......。


 などと道楽三昧な午後の終わりに、ふと、もう一度読んで書かなければならない感想が両手の指を動員しなければならないくらい控えていることを自覚し、さらには年賀状製作をまったく忘れていたことに気がつきました。
 今年もまた、メール・アドレスのある方にはアナログな年賀状は出さずにメールかインターネット上のグリーティング・カードを利用してお年賀させていただきますと、今月初めにメールでご挨拶しようと思っていて、また忘れてしまいました。
 そこで、今夜は自分を含めて家族3名の年賀状を一気に作成&印刷と目論みましたが、結局自分の分だけが明日に持ち越しになってしまいました.....)。




2008年12月19日金曜日

昨夜の検索の続き

HMVにずばりグレン・グールド/ラジオ・ドキュメンタリー集~孤独三部作、ほか)(5CDという5枚組みのCDがあった。Solitude Trilogy3作すべてが収録されているが、3CDでなく5CDなのが不思議。4枚目にはパブロ・カザルス、5枚目にはストコフスキーの名がある。かれらについてのラジオ番組を制作したのかもしれない。

��分ほどの抜粋だがCBC(カナダ放送協会)のデジタル・アーカイブにSolitude Trilogyが収録されている。.

The Idea OF North(北の理念・1967)

The Latecomers(遅れてきた者たち。1969)

The Quiet in the Land(大地の静かな人々・1977)

 この抜粋を聴いただけでも、グールドがポリフォニーのひとだったことがよく解る。


2008年12月18日木曜日

単一の筋は二流である?

 今日のパソコンの電源君はご機嫌斜めで、一押しで電源が入らないこと3度。やはり挙動不審である。いつ突然死するのか考えると怖ろしく、今日も外付けHDDを接続してバックアップを取ってしまいました。

 久しぶりに、youTubeからダウンロードしてあったグレン・グールドの「北の理念」を見た(正確には、聴いた)。
 グレン・グールドがなぜあれほどポリフォニーに執着したか? 
 彼は左利きであったという。いや、左利きではなく両手利きだったのではないか。
 実は、私自身も両手利きである。字を書く、お箸を持つなどの、力は要らないが繊細さを要求される作業は右手で、ボールを投げる、バットを振り回す、鍬をふるう、誰かを殴る、投げるなどは左利きである。昔、柔道をしたが、技を掛けるのはすべて左利きであった。しかしドライバーでネジを締めるとか、そういった仕事は右手である。
 左利きの場合は右脳が指図し、右利きの作業の場合は左脳が指図しているのかどうか。
 蓋し、グールドが製作したラジオ・ドラマ「北の理念」が両手利きの製作になることは、直感的に了解できてしまう。

 アリストテレスが「詩学」で単一の筋は二流であると語っているのを思い出しましたが、まさか、アリストテレスも両手利きだったなんてことはないでしょうね。

 ピアニストのグールドが、なぜラジオ・ドラマを制作したか? しかも「北の理念」だけでなく、「遅れてきた者たち」、「大地の静かな人々」の通称「孤独三部作」を製作している。
 「遅れてきた者たち」、「大地の静かな人々」も聴いてみたいが、さて、インターネット上のどこかにあるだろうか。ネットの海は広い。


2008年12月17日水曜日

インター・ネット・ワーク

 デジタル文学館に、
��5作目として真銅孝さんの「ロバート・プリン氏の動物園」(「樹林」520号・大阪市)、
��6作目として光野公彦さんの「日々の泡」(「てくる」4号・大阪市)の2作をアップロードできた。

 デジタル文学館ではまだ空白地帯であった関西から2作連続なのがうれしい。
 こうしてインターネットのネットワークのようなものが少しずつ広がってゆき、、まだ掲載に偏りのある作品分布が全国に広がればうれしい。
 36作まで来たので100作も夢ではない視野に入って来た。
 無論、ネットは文学そのものであるはずもなく、印刷された雑誌というアナログ媒体の限界を補完し、別の形で作品を伝播するための新しい手段に過ぎない。
 作品第一。ネットを過信してはいけない。




 今朝の午前3時頃、目が覚めてしばらく眠れないでいたところ、ふと妙な考えが浮かんだ。
 「同人誌交換しませんか」というページ作成である。
 要するにわが誌のように同人数が少ない同人誌は残部が多い。そういう雑誌同士で交換しませんかという呼びかけのページがあったら、少しは反応があるだろうか? 反応が無くても痛くもなく、何の損失も無いので作ってみようかな。
 無論、誌代は無料、送料もメール便で80円で発送することにして送る方の負担ということで、発行部数すべてを配ってしまいませんか、という企画。
 (あまり乗ってくる雑誌はないよね、夢々)



2008年12月14日日曜日

自分のパソコンでは分らないこと

 昨日の記事ふたつを非公開扱いにした。読み返してみたら、どうも分からず屋の隠居みたいに頑迷なことを書いているので恥ずかしくなった。原理的にはそうだが、その通りにはならないのが世の常、あまり言い張っても仕方ない。(都合でひとつ復活させました)

 デジタル文学館の新作をアップしたところ、推薦者から縦書きPDFファイルの文字がぎざぎざに表示されていておかしいという指摘をいただいた。
 実は所有しているAcrobatは5.0と古く、新しいPDF書き出しソフトをインストールしてあるのだが、Acrobatの方がファイルサイズが小さいので5.0で書き出ししたのだった。それを7.0とか、8.0とか、新しいヴァージョンのAcrobatで見るとぎざぎざに表示されるらしい。5.0やAdobe Readerで見ている分には普通に表示されているので、私自身は気がつかない。PDFを開くのをAdobe ReaderでなくAcrobat7.0以上に設定してあるパソコンで見るととぎざぎざになる。6.0以前と以降で違いがあるらしい。
 Acrobatではない、最近購入したほかのPDF書き出しソフトで作り直したファイルをアップしたら、普通に表示されていると連絡をいただいた。ありがとうございました。
 ということはこれまでのPDFファイルも見直ししないといけないことになるが、それは年を越してからにしよう。 

 パソコンの電源は二日ほどまったく異常が無く、以前と同じように普通に電源が入るようになった。しばらく前のあの不具合は何だったのだろう?

 

2008年12月13日土曜日

物書きが「権威」に寄りかかるのは

 どうも物書きの癖に妙に権威を有難がるひとがいて閉口する。
 たとえば、十年も二十年も前に文學界同人雑誌評でベスト5に入って転載されたことを、いまだに口にしたり書いたりしているひとがいたり、たとえば、ベスト5に入って転載されたことでほんとうの自分の姿を見失って、人生の歯車が狂ってしまったひとがいたり、それらを実際に見聞している身としては、物書きが自己の目で判断するすることを放擲してしまい、その筋の権威が言ったこと、書いたことを、ものぐさ坊主の胡散臭いお経のように有難がっていて、そんなことで文学という究極の自己表現が成り立つものかどうかと、ひとこと言っておきたい。

 私は、むやみにプロ作家の名を振りかざすような物書きの言動には、必ず眉に唾を塗ることにしている。
 自分の意見ではなく、プロ作家の誰それがこういった、ああいったなどと言ったり書いたりするのは、彼が自分の考え・意見を持たないことの逆説的証明に過ぎなくなってしまいます。

 どんなに拙くても、自分自身で考えたこと、感じたこと、生きたこと、そして書こうとしたこと。それこそが大事なんだけど......。


ソバ製粉の難しさ

 しばらく前に仕事でお世話になっているY田さんのお宅を訪ねた時に、蕎麦の話になってオヤマボクチとそのタネが欲しいというので、今日、その方面へ行ったついでにお届けしたら、お返しにそば粉を1袋いただいたが、当初は色が白い粉なので小麦粉の地粉かと思った。帰宅して念のため少し指先に付けてなめてみたら、小麦粉ではなくソバ粉だった。
 どうやら、皮ごと挽いた「挽きぐるみ」ではなく、皮を剥いた「むきみ」を製粉したものらしい。皮が混じらないから色白なのだ。
 色白できめの細かい粉であるのは結構だが、どうも風味が薄いような気がしたので、少し「そばがき」にしてみたら、ふう、思った通り風味が薄い。細かく挽きすぎではないか。粒子が細かいと十割蕎麦を打つのは簡単かもしれないが、味が心配なので、自家製粉で篩い残った粗挽きばかりの粉と、混ぜて打ってみよう。
 

2008年12月12日金曜日

たったひとりでも

 昨日公開した「小説・書くひと=読むひと・ネット」の絡みで、ある方から早速コメントをいただき、さらに「デジタル文学館」へ一作推薦をいただいた。
 たったひとりでも、こういう方が居られることが判っただけで十分。
 私がネット上に発見したいのは、このように、自己と他者を相対化できる鏡を持っているひと。たったひとりでもいいんです。
 
 鏡よ鏡、この世でいちばん美しいのはだあれ? などといううぬぼれ鏡だけを覗き込んでいる書き手のことなど眼中にありません。
 私が探しているのは、今ここに現前している存在と世界の、ポジティブとネガティブすべての様相を映し出す「言語の鏡」を持っているひと。あなたですよ。




 本日もパソコンの電源君、ご機嫌。
 明日もよろしく!


創作メモ

 窓の向こうの銀杏の樹の葉が一斉に舗道へ墜ちてしまった朝、私は円筒形のガラス容器に満たされたホルマリン溶液の、上に浮いているでもなく、下に沈んでいるのでもなく、微妙に中間な位置に浮遊しているあなたの、多分右目であったと記憶している眼球が、じっと私の挙動を監視しているのを意識しながら、パジャマや下着を脱ぎ捨て、バスルームへ向かう。


 何、これ?  怪しすぎ。

妙なものを混ぜてはいけませんってば

 今日は、ある人物に付き添って病院へ。
 ここも医師不足か、病院滞在時間何と4時間。
 途中放擲して唯一未読だった「喜劇・レオンツェとレーナ」(「ゲオルク・ビューヒネル作品全集」青木重孝訳、白水社、昭和16年)をあっという間に読んでしまい、以後は「レンツ」のあちこちをめくりながら持参したiPodのなかの曲をずっと聴いていた。先日のPASTORALを繰り返し聴いてご機嫌。結石で苦しんでいる者がいるというのに、どこまでも脳天気である。

 親しくしていただいているT屋さんの玄ソバ35kgの製粉を頼まれていたが、まとまった時間が取れないので、夕食後に少しずつ作業をし、三晩かかってようやく真空パック詰め作業まで終了(ほんとうは一気に挽いて篩い分けした方がいいに決まっているが)。
 35Kgで歩留まり70%なら1kg入りで24,5袋のはずだが26袋と50gあった。丁寧に挽いたせいか? しかし、篩い分けが粉だらけになってタイヘンである。よほど親しい人以外は引き受けない方が良さそうだ。
 それに粒子の細かい粉がいいのか、荒挽きがいいのか、きちんと明確に言える人でないと自家製粉の意味も価値もない。
 それにしても、そういう余計なことに首を突っ込んでいるので、かんじんの蕎麦打ちの腕がまったく上達しない。
 余計なことに首を突っ込んで、肝心の小説が書けないのとまったく同じで、これは生まれもった性格であります。
 
 そういえば、昨日、葬式に行く時刻までと断りながら、どぶろく風に怪しく発泡する酒を手土産にわが家に寄った「髯面で長髪ちょんまげ風作務衣姿」のM君が、O原君と富倉へオヤマボクチ蕎麦を食べに行って来た、とか。
 ふん。
 次回は「へぎ蕎麦」を食べに行く予定だが行くか? と。
 すっかりへそが曲がってしまった私は、行かない、と返答。
 蕎麦は二八か十割に限る。妙なものを混ぜてはいけません。(ーー;)

2008年12月11日木曜日

「小説・書くひと=読むひと・ネット」開設

 ようやく、開設となりました。
 文學界同人雑誌評も終了となり、これで商業誌での本格的な同人雑誌評は無くなりましたが、雑誌を発行して同人雑誌評に送っておしまいではなく、むしろ同じ立場で小説を書く者がお互いの作品を読みあい、感想、批評を伝える場所があってもいいではないか、そういう思いから、当初4名のライターでスタートすることになりました。

多くの方の閲覧、参加をお待ちしています。






そういえば、このブログはあまり多くのアクセスを望まないのでping送信は一ヶ所にもしていないのだけど、「小説・書くひと=読むひと・ネット」の方は、そうはいかないだろう。もう少し記事が蓄積されてきたら、ping送信を開始しよう。

それにしても、そろそろ自分の同人誌の掲載作の感想を書き始めないと。ほかにも、書こうと思ってまだの作品が複数あるし、「小説・書くひと=読むひと・ネット」へも書こうと思っているし......神様、もっと血の巡りのいい頭を下さい、

今日はなぜかパソコン君はその都度一回で電源がONになって、拍子抜け。
君ってほんとうにお天気屋?
明日が、怖いです。



2008年12月10日水曜日

お天気屋なパソコン

 パソコンの電源は相変わらずお天気屋さんである。さっと電源が入る時もあれば、押し続けてもさっぱり反応しない時もある。サポートセンターとあれこれやりとりして、電源そのものに原因がありそうという結論になった。
 工場へ送っての修理を提案されたが、1~2週間かかるという。
 師走にパソコンが無いと困るので、修理を依頼するとしても年が明けてからということにした。だが、予想される修理代を考えると、新しいものにした方が賢明かもしれない。
 とにかくいつ突然死されても困らないように、データのバックアップだけはまめに行なうほかないだろう。
 



 RSSリーダーに登録している、ある脅威的読書青年のブログが今日更新されていて、帷子耀(かたびらあき)について書かれていたので、ふと彼の詩が掲載されていた時代を思い出してしまった。
 その彼の、唯一の詩集を検索したがまったくの空振り。入手困難だし市や県の図書館にだって無いだろう。
 

2008年12月9日火曜日

Mechacchaな翻訳遊び

 このパソコンには3つのブラウザとひとつのRSSリーダーが入っている。
 そのうちの、ふだんもっとも使っているSleipnirというタブ・ブラウザにのツールバーに日英翻訳と英日翻訳のアイコンがついている。
 たまたまこれで遊ぶ。このブログを表示している時に、日英翻訳アイコンをクリックすると、英語表記になるのである。といっても中身は、Powered by BizLingoのExcite翻訳なのでどうということはないのだが、自分の文章が一瞬で英文らしくなっているのが面白い。無論、機械翻訳なので妙なところはたくさんある。昔、英語も出来ないくせにアメリカ、オーストラリア、フィリピンの女の子たちにメチャクチャな手紙を書いたのを思い出した。今なら、もう少しましな手紙が書けるかもしれない。


以下がその翻訳結果そのまま。
Translation play
This personal computer has 3 browsers and one RSS readers.
It attaches in the tab browser named the our Sleipnir used, and it drinks and the icon of a Japanese-English translation and a English-Japanese translation is attached to the toolbar.
It plays by this by chance. If the Japanese-English translation icon is clicked when this blog is displayed, it becomes an English mark. However, it is interesting that my sentences seem to be English momentarily though there very because contents are the Excite of Powered by BizLingo translations. Of course..machine translation..strange..dust..Mr....Mechaccha.. letter was recalled to girls in the United States, Australia, and the Philippines though it was not able to speak English in old times and it was recalled to have written. A better a little more letter might be able to be written now.


 わ、メチャクチャがMechacchaと表示されていますyo。


2008年12月8日月曜日

空という名の、もうひとつの海

 いよいよ師走なので、今日は日曜にも関わらず少し仕事で走り回る。ふと遥か西の彼方に目をやると、おお、ふだんはあまり見えない日本アルプスが結構はっきり見えるではありませんか。
 ここは長野県でも東のはずれになりますので、美ヶ原などの山地に阻まれてアルプスはほとんど見えないのですが、天候が良いとアルプスの連なりが少し見えるのです。

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    (画像をクリックすると拡大表示されます)

 それから、相変わらずの浅間山。
081207asama2.jpg

 それにしても、少しの山のほかにはほとんど青い空しか見えないこんな高地に生息していると、昔からそういう感覚が染み付いているのですが、空がもうひとつの海で、自分はその海の底に住んでいる生物のような気がしてなりません。
 ほんとうの海よりもずっと希薄な海です。




2008年12月7日日曜日

ネット共有財産?

 どうやらパソコン買い替えの危機からは脱したようなので、今夜はまたSerge Gainsbourgの唄を聴きまくり。

 そのうちに、それとは別にジャズのある一曲を思い出して検索。



 昔、同じ題名のLPレコードを買って耳に胼胝ができるほど聴いたが、今となってはプレイヤーが無いので聴くことができない。あのレコードは処分した覚えがないのでまだどこかにあるはずですが、曲の方は検索したら、ありました。
 懐かしい。
 インターネットってほんとアナーキーですね。国境を越え、法律を越え、言語風習をも越え、何でもネット共有財産になってしまう。
 (レコード盤の方が良かったような気がするのは、気のせい?)

2008年12月6日土曜日

今日も

 電源が入らなかったり、たまたま気まぐれに起動したり。
 起動したままずっと終了させず、Windows XP SP3をアンインストールし、 SP2を再インストールしてみたが、それでも電源が入らない現象が消滅しないところをみると、SP3は無関係と判明。
 電源の接触が悪いのか。電源ユニットを替えればいいのか、サポートセンターにメールで質問を出した。




 夜になって、恐る恐るパソコンを終了し、また電源を入れるというのを何回か繰り返してみたら、一度も起動しないということがなく電源が入った。
 5回試して5回OK。
 あれ???
 ということはやはりSP3の影響???
 まさか!!!
 (サポートセンターへ、回復した旨、お礼のメールを入れておこう)

 自分のノートパソコンが起動しない間、妻のパソコンと古いがまだ現役で動くデスクトップの98Meを久々に使っていろいろ情報を検索していたのだが、たまたまそのふたつのパソコンでこのブログを見てみたら、ありゃ、レイアウトが崩れて右サイドバーが左サイドバーの下の方に移動しているではありませんか。
 いつだったかLydwine.さんにレイアウトの崩れを教えていただき、修正したはずだったがMovable Typeのヴァージョンアップをした時に、また崩れたようです。
 自分のパソコンでは崩れず表示されていて、違うパソコンでは崩れているというのでは困ったものです。
 横幅のピクセル数を少しいじってみましたが、さて、今度はどうでしょう。800ピクセルのデスクトップで確認してみます。


2008年12月5日金曜日

冷汗

 今夜、なぜか、いきなりパソコンの電源が入らなくなった。
 コンセント、ACアダプター、異常なし。
 何度パワーボタンを押しても起動しないので、数年前のハード・ディスク・クラッシュの悪夢が甦る。安物のパソコンを買った報いである。また再びのハード・ディスク・クラッシュかとすっかり諦め、データ消滅も覚悟し、腹をくくって入浴。
 物はいつか壊れ、生物はいつか死ぬなどと、現状を認識肯定するために不景気なことを考えながら、体を洗い、ブラック&ホワイトな髪をシャンプーではなくボデイ・ソープで洗髪した。
  それからパジャマに着替え、何を考えたかノートパソコンを裏返してバッテリーを抜き、もう一度電源ボタンを押したら、あれ? 緑色のLEDが光ったではありませんか。ただバッテリーが死んだだけだった? ヤッホー!
 この頃すっかりバックアップを怠っていたので、速攻で外付けハード・ディスクを接続し、仕事で使っている販売管理ソフトと会計ソフトのデータのバックアップと、My Document全体のバックアップを敢行。これで、万一、HDがクラッシュしても何とか別のパソコンで生きてゆけますw。
 しかし、どうも不気味。
 万一、更新が三日途絶えたら、パソコンが壊れたのだと思って、しばらくお待ち下さい。
 それにしても神経が疲れました。
 埴谷さんみたいにワインをがぶがぶ飲みたい気分です。


 

2008年12月3日水曜日

定番撮影スポットから

081202asama2.jpg

遠くまで見通せて気持ちがいいのでつい、シャッターを。
こんな寒々とした場所に、住んでいる。

      (画像をクリックすると拡大表示されます)




 以前、Strange Fruitで気に入ったIndia Arieの曲を5曲、CDからiTuneへ。

2008年12月2日火曜日

素朴な思い

FC2小説というオンライン小説サービスが始まった。横書きHTMLではあるけれど、自分が書いたテキストを簡単にアップロードできて便利そうである。ただし、今後相当数がアップされるだろうから、このなかから読める作品、いい作品を探し出すのは相当の根気が必要になるが、たまたまのぞいてみようと思う。
 こういう場所に、同人誌には入ってこないけれどもひとりでひっそりと小説を書こうとする若いひとたちがたくさん居ることを見過ごしてはいけない。どんなに稚拙であれ、小説という辛気臭い言語表現形式に向かおうとするひとがいるのなら、どんな作品が書かれるのか注視していてもいいだろう。直接、メールで感想を伝えたくなるような、そういう作品にネット上で出会える日があることを信じて。
 そういう意味では「デジタル文学館」のように読んだ方の推薦でアップロードされるという方式も悪くはないと思える。
 私はアナログ(印刷媒体)とデジタル(インターネット)双方に分化し、分け隔てられてしまった書き手の双方に目を向けていたいのです。
 その書き手である彼または彼女が、プロであるとかアマチュアであるとか、そういった些細な差異にはまったく無関係に、誰もが、一個の表現者であることに変わりないではないか、という素朴な思いから。


過去に書いたものの再録で恐縮

「果物が題名の小説」

 芝居の世界では小道具と呼ばれていて、たいていはリアリテイを保証するためにさりげなくそこに置かれているだけでさしたる関心も寄せられないことが多いのだが、これまで読んだ小説に登場した果物の幾つかが、小道具の範疇を超えていまだに強い印象で存在しつづけているので、そのことについて考えてみた。

 『蜜柑』といえば芥川龍之介の短編だが、井上光晴が「文學界」の昭和五十六年四月号から五十九年十二月号まで連載した掌編四十編をまとめた「だれかの関係」(昭和六十年文藝春秋刊)にも、『林檎』と『ナイヤガラ』が登場する。
 芥川の『蜜柑』と井上の『林檎』には、作品の場の設定という点で明らかな類似がある。それは、どちらも舞台が列車の中であるという点である。
 『蜜柑』では、芥川と等身大とおぼしきインテリが、列車で乗り合わせた田舎くさい娘が窓から弟らしき少年に向かって蜜柑を投げる場面に奇妙に感動するというか、衝撃を受けた詳細が描かれている。
 井上光晴の『林檎』はどんな作品かというと、若い男とその同行者である少女が列車の座席に並んで座っている。列車が急停車する。跳び込み自殺があったらしい。ふたりの向かいの座席に座っている男が、横に置いたズック鞄から林檎を取り出し、器用に手でふたつに割って若い男にその半分を差し出す。彼はそれを断る。男は半分を食べ、残る半分を自分に話し掛けた少女に差し出す。若い男の頭は、少女が林檎を咀嚼する音と甘酸っぱい匂いでずきずきする。彼は今朝少女に出会って、「ねえ、何処かへ連れて行ってくれない」と声をかけられただけでドライブ・インで定食をいっしょに食べ、その二階で彼女を抱き、そしてあてもなくふたりで列車に乗ったのだった。
 やがて事故処理の済んだ列車が動き出す。ふと彼は、あの女のことを考えはじめる。自分よりかなり年上の、二十七、八の女の部屋に彼は七ヶ月の間通ったのだったが、二週間前に「もうこないで」と言われた。その翌日、さらに三日おいて訪ねてみたが、女の部屋の明かりは消えたままだった。昨夜行ってみると、彼があきらめたものと安心したのか電気がついていた。
「ままごとはおしまい。そんなこと位わかるでしょう」
 そう女に言われた彼が、彼女の首を絞めたらしいことが分かる。殺人という人間的か非人間的かよく分からない行為をさりげなく済まし、女の部屋を出たその足で彼は少女を拾い、列車に乗ったのだった。
 そして『林檎』は次のように終わる。
...
.三分間停車、というアナウンスがひびいた。かなりの客が降り、旅行鞄や土産物を下げた客がホームを動き回りながら列車に吸い込まれた。
「ああ、この温泉知ってる」少女はいった。

「姉さんがきたことあるのよ。会社の旅行でね。温泉饅頭貰ったからおぼえているんだ」
「姉さんがいるのか」彼はいった。
「本当は違うんだけどね。ただの親戚だけど、姉さんといってたの」
 列車が動きだすと、少女はポケットから小さな櫛を出して髪を梳いた......


 芥川の『蜜柑』では、インテリが無知蒙昧そうな田舎娘に自分にはない何かを発見して視点が変わるという、まさに近代インテリのアキレス腱のようなものが見てとれて、それはそれで興味深いのだが、井上の『林檎』にはそういった作家自身の感動の類いは一切表出されていない。

 作家井上はむしろそういう情動には身を置かず、ひたすら記述するだけである。芥川同様に、列車の中というシチュエイションと、果物という同じ小道具を用いながら、井上は芥川と同じような小説は書かなかった。芥川のように解釈を挟むこともない。現代人であった彼はひたすら記述した。フランス語でエクリチュールなどといわれると何のことか分からずにどぎまぎしてしまうが、要するに記述か叙述のことだろう。その意味では井上は立派な記述者、すなわち作家であったと思われる。
 『ナイヤガラ』は、洋服ブラシの訪問販売をしていていた十七歳の少年庫治と訪問先の四十四歳の人妻牧子が、その後も週に一度か二度、外で会うようになり、食事をしては港の岸壁で時を過ごしている。そのほんのわずかな時間が描かれているのだが、庫治が以前勤めていた常陽楼という中華料理店の話から、親子ほどに年齢の離れているふたりの痴話や心の駆け引きに至り、会話がもつれて途切れた途端に、庫治は物も言わずに駆け出して岸壁から姿を消してしまう。三十分ほどして牧子が「まさか、ああいうやり方でさよならはすまい、という疑いに捉われ始めた時」、紙袋を抱えた庫治が戻って来る。袋の中身は会津若松産のナイヤガラである。どこかで洗って来たらしく水気の滴る青い葡萄をつまみながら、会話が再開される。

牧子が明後日の金曜日に会いたいというと、庫治は都合が悪いという。すると牧子は来週はわたしの方に都合があって会えないという。紹介出来ないので残念だが、会話が言葉の字数以上に豊富な情報や心理をはらんでいて、それを読み取るのが楽しくなる。
 『蜜柑』、『林檎』、『ナイヤガラ』、いずれもそのまま短編映画になってしまいそうな小品だが、ぼくの頭のなかではすでにワン・シーン、ワン・ショットが映像化されていて、そこに会話のひとつひとつが生きた肉声で響くのである。

 私も、林檎が題名に含まれる「死海の林檎」という題名だけ虚仮脅しな小説を書くには書いたが、がっかりするほどの駄作であった。
 果物ひとつ、物ひとつで傑作が書ける作家はやはり偉い。



2008年12月1日月曜日

不可能性の文学の可能性?

yumenokakera.jpg 購入したことは覚えていても本が見つからないことが多いのは、多少乱雑なのも災いしているが、本を平積みにしているのがいちばんの原因。
 ひょんな場所からこの本が出てきたので、昨夜、少し開いて、読んだ。
 残雪の「かつて描かれたことのない境地」と、アナトーリイ・キムの「コサック・ダヴレート」。
 いつだったか、読書雑記でLydwine.さんがこの岩波の「世界文学のフロンティア」シリーズ6巻の作品について度々書かれていたが、私は残雪の名を見てこの第3巻を買っただけで、しかもずっとどこかに仕舞ったままにしていた。
 「かつて描かれたことのない境地」は今の私が読むと、ここに書かれている記述者が自分のことのように思えて暗澹たる気分に陥りそうではなはだよろしくないのだけど、いわゆる不可能性の文学という範疇で括られたメタフィクションとして読むと実に面白い。
 「コサック・ダヴレート」は、なにかひょいひょいと身軽に人物の肩から肩へと乗り移るような塩梅で視点が移り変わってゆくのがそんなに不自然でなく、固定焦点レンズや三脚を固定したカメラで撮影されたような視点を固定した小説を胡散臭く感じている者には新鮮だった。実際、人間社会は人称の迷宮なのだろうし、あまりに理路整然とした捌き方より、こういう小説のような怪しい構造の小説に親近感を感じてしまう。

 ちょっとこのシリーズを古書検索してみよう。


越後の笹飴と、わが家の豆餅

 越後の笹飴といえば、漱石の「坊ちゃん」のなかの
「清が越後の笹飴を食べたいと言った」
「うとうとしたら清(きよ)の夢を見た。清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。」

 といったくだりを否応なく思い出してしまう。
 越後の笹飴は、確か小学校6年の修学旅行先の直江津だか鯨波で買った土産物のひとつであったが、あの笹飴の笹を剥かずに笹ぐるみむしゃむしゃ食っているという描写が実にリアルに感じられた。あの笹飴を一度でも食べたことのあるひとなら解っていただけるだろうが、あの笹がキャラメルやキャンディの包み紙を剥ぐようには簡単に剥けないのです。剥けないからイライラして笹ごとむしゃむしゃ食べざるを得ない。
 うーん、そのあたりをもきちんと心得て書いたと思える漱石はやはりすごいし、漱石自身もおそらく一度は越後の笹飴の笹が簡単には剥けないことを実体験していたのであろう、な。

 ところで、わが家のばあさん(母親)は今月10日過ぎからしきりに「豆餅が食べたい、豆餅を搗きたい」と繰り返しぶつぶつつぶやいておりました。(ちなみにこの地では11月10日を『十日夜(とうかんや)』と称して収穫祝いの餅を搗く風習があり、だから餅、餅と煩いのでありました)
 あまりにうるさいので返事もせずに居たら、昨日ばあさんがついに強制執行に及んで、もち米を2升ずつふた口に分けて洗って浸水吸水させ、青豆まで用意しているではありませんか。
 ばあさんは電機餅つき機の扱いは苦手らしく、私がセットしてあげないとダメなのです。
 仕方なく、今朝、朝食後に、何も入れないプレーンなお餅を一回、青豆をまぜた豆餅を一回、搗いてあげました。
 ああ、清が笹飴をむしゃむしゃ食べるみたいに、この豆餅をわが家のばあさんがむしゃむしゃ食べる場面が実にリアルに迫って来ます、yo。