2008年5月31日土曜日

水木怜「不器用な愛しさ」(照葉樹5号)

 妙な言い方になってしまうが、小説というものが、人間という主体性のあるような無いような寄る辺無い存在の、悲しみや苦しみや喜びや不合理を描き出すものだと仮定すれば、この「不器用な愛しさ」は十分に小説たり得ている。
 主人公はひとりではなく、病院経営者一族の「私」であったり「母」であったり、「佳子叔母ちゃん」であったり、その夫「源三」であったり、「潤一郎叔父」であったり、その妻「志津代叔母ちゃん」であったりする。

 いわばこの一族全体が主人公なのだが、この枚数でよく誰に重きを置きすぎるのでもなく平均に、それでいてそれぞれの人間性を上手に描出したものだと感心した。

 この作品は明白な虚構作品として書かれているのではなく、現実世界をそっくり反射する鏡のようなリアリズムによって支えられている。
 それは、あるいは作者自身の現実から再構築されて形成された世界なのかもしれないが、それでも佳子なり源三なり、潤一郎なり志津代なりに、「こういう人間いるよな」というような強い実在感が感じられた。
 それはおそらく作者がそれだけ素材を客観化できた証しであろう。
 これまで読ませていただいた水木さんの作品のなかではいちばんの出来だと思います。

理不尽

 今朝は5:30頃菜園へ行き、私によって理不尽にも山から移植され、畑ワサビに変身中の彼らの周囲の草退治。
 敷き藁をした間から草が生えているので、いったん敷き藁を取り除いてから草を抜いた。
 すると、枯れて消えてしまったかと思っていた株もまだ生きていて、辛うじて小さな葉を展開してるのが判った。感激である。すっかり草を退治してからまた敷き藁を寄せた。ダイオネットで遮光もしたし、来年の春にはたくさんの茎が収穫できるかもしれない。
 私は、ずいぶんと植物に救われているのだな。
 でもワサビたちは言うのかもしれない。
 「なぜ、私たちはあんたなんかに食べられなきゃいけないの? なんか、理不尽!」
 そうだね、あの清水が流れる静かな沢からこんな殺伐として乾いた場所に拉致されて、やがては食べられてしまうなんて、理不尽だよね。(ワサビたちの声が女性らしい、のが笑えます)

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 午前中、T中さんが業務のため来たついでに、1日にそのRhubarbを収穫してコンテナに入れておくようにとの指令。期待していなかったんですが、今年もジャム製造会社に納入するんですか? おお、製粉機を買う足しにはなりますな。予定していたより上級の機種に手が届きそう。


文学から遠ざけられて

 一年中同じ気持ちで脳天気に暮らしており、滅多に落ち込まない私だが、今日はちょっと。
 先日、同人誌を送ったなかのおひとりから手紙が届いて、久しぶりなのですぐに開封したら、もう送らないでと。だいぶ前からメンタル系の症状に苦しんでいるらしくて、小説など読める状況ではないらしい。今は療養のため案外近いところに生活していて、どこかで会っても声をかけないで欲しいとも書かれていた。
 でもね、顔を合わせたら反射的に声をかけてしまいそうで、自信ありません。知らん顔をして通り過ぎるのは至難のわざでしょう。
 それにしても、かなり大切だった物書き仲間が、そんな風に文学から遠ざけられているのを知るのはつらい。これで、もう、何人めだろう。少なくとも3~4人はいる。長く生きているうちにこういうことに耐える方策は身についた。すっかり脳天気になって、SobaだWasabiだRhubarbだとストレス解消しすぎて、テンションが下がりっ放しである。
 君ィ、もう少し禁欲的になってテンション上げたらどう? (と自分で自分に言い聞かせ......)。

 今夜はパソコンの電源を落とそうと思ったが、iTuneのインターネット・ラジオのなかのBluesのジャンルにradioio Bluesという局があり、そこでBluesを流しっぱなしになして、小説を一作読もう。

2008年5月30日金曜日

電動製粉機を検索していたらセリーヌ

 久々にYou Tubeに入り浸り。
 J・Prévertがらみのシャンソンを聴く。それからゲンズブールの唄を聴きながら、電動製粉機の検索をする。
 結構お値頃な製粉機があるではないか。
 T屋さんが、昨年われわれがソバを製粉した製粉所について「中国産を混ぜているという噂を聞いた」と言ったが、まさかそれはないだろう。販売しているソバ粉については安い価格帯の物は中国産が混ぜられているだろうが、玄ソバを出して製粉を依頼したものに中国産を混ぜたら詐欺であろう。
 それで製粉機を探しているのではなく、種まきからソバ打ちまでの一貫作業だがどうしても製粉だけが他力になるので、製粉も自分でしたら完璧に一貫する、そう考えてのこと。

 お、妙なページに迷い込んでしまったと思ったら、セリーヌのドキュメンタリーを分割アップロードしているのに遭遇。



 ほかにLouis Ferdinand Céline - Interview なんてのもある。
 フランス語はまったく聞き取れないが、とにかく見てみよう。




2008年5月29日木曜日

「冬女夏草」よこい隆(「木曜日」No,24)

 「木曜日」No,24がお手元に無い方は、デジタル文学館に「冬女夏草」がアップロードされていますので、そちらでお読み下さい。PDF版はA5縦書き二段組で、よこいさんからデータを提供していただきましたので、「木曜日」No,24のレイアウトそのままです。縦書きでお読みになられたい場合、印刷してお読みになられる場合などにご利用下さい。

 先ずは題名であるが、今年2月頃によこいさんのブログ『読書雑記』で、手塚治虫、戸川純、田中恭吉などの名前が飛び交いながらこの題名に決まってゆく過程を、同時進行で戸川純が唄う映像まで交えて拝見していたので、とても感慨深いものがあります。
 振り返ってみれば、この時期から3月末まで(私は締め切りすぎてもなお......)、よこいさんとkairouさんと私とは、お互いに何ごとかを反射しあいながら小説を書こうとしていたのだった。(と考えれば、稀有な創作体験ではありました)

 さて、この小説、書き出しの4行からして不思議な文章である。
 ひとしれず過ぎた風に鳴る江戸風鈴の冴えた音に似て、凛と立つおまえの眼が、冴えを映して冷めたままわたしを見るから、週間予報によれば、その日は雨になりそうだと言って、パソコンの画面に視線を逃がした。

 ん? おまえの眼が冷めたままわたしを見るから、週間天気予報によれば、その日は雨になりそうだと言って、パソコンの画面に視線を逃がした? 
 何?!
 似た感触は他の文章にもあって、たとえば129ページ上段後ろから2行目からの
 また立ち上がり、ショットを呷りかけるから、いい加減にしろという代わりに、腕を払うつもりが、真紅のチャイナドレスのシルクをパンと鳴らしただけで、おまえは、気にとめずにひと息に干した。蛍光灯の光が跳ねるシルクには、黒い曼珠沙華。

 うーむ、言葉の関節を外した挙句のかっこ良すぎる体言止めが、あまりに素敵。
 とか、次の段落
 そして男が、「土曜日な」とおまえに言い、お前は視線を泳がせながらも、かすかな笑みを浮かべ、同じ言葉をくり返す男に、「わかりました、おねがいします」と、やはり視線は泳いだまま、誰の顔も見ずに答えたその土曜日に、雨が降るだろうと天気予報は言う。

 よこいさんがお好きな野坂昭如の、あちこち関節が外れながら言葉が延々と繋がって行く文体に似ているような、似ていないような。似ているといったら野坂にもよこいさんにも失礼なので、やはり、似ていない。
 この作品の概ねはもう少し短いセンテンスでてきぱき書かれていて関節が外れてはいないのだが、ところどころで関節が外れそうな場所があって、むしろそれが新鮮に感じられたのは、だいたい小説というのはお行儀の良い文体で書かれていて、お行儀が良いゆえに没個性的にならざるを得ないのだが、こういう関節外れの文章は意外と個性を発揮するのである。

 もうひとつ気にかかるのはこの小説が「おまえ」という二人称に乗って書き進められている点で、思わずM・ビュトールの「心変わり」を想起したが、私はこの二人称小説を読んでいないので「冬女夏草」と「心変わり」における二人称の扱いが、どう共通していてどう違っているのかを比較できないのが、実に残念でならない。
 ただし、「冬女夏草」で「おまえ」の言動を物語っているのは「わたし」である。「わたし」もこの作品に登場しているのである。
 つまり「わたし」が「おまえ」の言動を語っているのがこの『冬女夏草』という作品なのである。「おまえ」は歌舞伎町で働く中国人女性であるが、ではこの作品で二人称を借りて物語っているらしい「わたし」は誰なのか? 作者「よこい隆」なのか、そうではなくて作者「よこい隆」が「おまえ」を主人公とする物語を書くために仮構した一人称にすぎないのか?


 そう、もう一点注目すべきは、作者はこの作品で、つい、物語ってしまっているのでした。

(物語るのはエンタテインメント作家に任せて、われわれはひたすら描写すべき宿命にあるのではないでしょうか) 130頁上段、後ろから7行目からの3行。
 今の話となんの関係があるのか、と、おまえが問うようで、降りしきる雨に、暗渠になった蟹川が溢れだすのだ、と物語を続ける。花道通りに、薄く雨の膜が張る。

 そう、「わたし」が「おまえ」の物語を物語ってしまったのでした。
 奇しくも、5月8日の『読書雑記』で聡明な作者自身が誰に言われるまでもなく先回りして自己批評してしまったように。
なんのための二人称なんだ! なぜあんな書き方をしたのか?!
「おまえ」が語り出さなきゃいけなかった。それでこそ、あの時間の使い方も活きたはずだ。
そうすれば、一人称と二人称が相対化されて、書き手と語り手を乖離できたはずだし、物語も膨らんだだろう。
ちゃんと、「おまえ」に語らせるべきだった。


 激しく同感いたしました。
 そう、「わたし」が物語るのではなく、もっと「おまえ」にも語らせるべきだったと、私も強く深く、思ったのでした。


 (と、ここまで書いて睡魔に襲われてどうにもなりませんので、もう一点、「ここ、いいよね」という個所については、また後で追記いたします、  ) 




追記

 以下に私が「ここ、いいよね」と思った、いかにもよこいさんらしい描写をいくつか引用いたします。
 ほんとうに、背筋がぞくっとする個所があるよね。

 おまえは、外階段から、歌舞伎町の景色を眺めたことがあるか? 女のタガログ語、酔客の声、女声の片言の日本語、どこからと行方もしれず声が届く。ビルの屋上に、プレハブが長屋みたいに建っている。西新宿の高層ビルが、宇宙を区切っている。詰め込まれた小さな宇宙だ。開いたドアから、臙脂の天鷲絨の椅子が覗く。タガログ語はそこから聞こえてくるらしい。見下ろす四角い屋上の群れには、プレハブにさえ光がなくて、ビルの隙間から洩れるように光彩が立ち昇る。道を歩いていれば、光は降るように、あたりを埋め尽くすのに、上から見下ろすと、意外に暗い。ここではときに、自分の羽も、フェアリーダストも信じていない女が飛ぶ。

 店の片隅には、黙ったまま、見えもせず、視線だけの女が、そっと店内をうかがっている。

 背の低いビルの屋上は暗く、その暗がりには、見えない女たちが揺蕩っている。ときに、スッと、空へ昇るものもいる。かと思えば、昇りきれずに、暗がりの宙に靉靆く。靉靆いて、ビルの隙間から立ち昇る灯りに、陽炎う。

 またひとり、見えない女がユラユラと屋上をゆくと、やがて飛んだが、その女は空へ向かわず、光る谷底へ吸い込まれた。谷底で、最初に悲鳴と怒声が聞こえ、そのままザワザワと落ち着かない。屋上に揺蕩う女たちも、宙に靉靆く女たちも、ざわめいた。気がつけば、わたしと肩をならべて、見えない女がコンクリートの手すりに肘をついて新宿の街を見ている。眼が合うと、誘うように、悲しそうに、躊躇うように、笑った。


 そして終わりの部分。
 パソコンの画面は開いたまま、黙すおまえのまえに立った。おまえからユラユラと立ち昇る陽炎のような透明の影は、ココナツのように甘く、だけどサラサラに乾いた香りがする。ユラユラと動くのは、おまえを取り巻くなにかで、おまえは、表情ひとつも変わらない。と思うと、おまえが眼球だけで見上げて、口角を優しくあげた。おまえの匂いが強まる。花粉を撒き散らしながら、真っ赤な花弁がメイズのように入り組む一輪の大きな花が、おまえのなかに咲いているから、そっと抱こうとしたのに。
 冬が終われば、きっとおまえは濃緑の丸いケシ坊主に姿を変えて、やがて細粒のケシ粒を風に乗せるだろう。


2008年5月27日火曜日

何とも非文学的

 早朝、果菜苗の植え付け第2弾。
 接木千両ナス6本、接木くろわしナス1本、接木庄屋大長ナス1本、接木丸ナス1本、京みどりピーマン3本、通称・軽井沢なんばん(本名・甘とう美人)3本、沖縄中長ゴーヤ4本、沖縄願寿ゴーヤ1本、薩摩大長れいし(ゴーヤ)1本、桃太郎T93・8本、アイコ(プラム型ミニトマト)2本、パプリカ赤、黄それぞれ2本、オクラ8本、バナナなんばん4本、中辛なんばん・福耳4本、げきから4本。姫冬瓜は昨年同様キュウリのパイプ支柱のいちばん端に植えようとしたが、昨年猛烈に枝葉を伸ばしてキュウリの場所に攻めて来たのを記憶していた母親に反対されて断念。植える場所が決まらないので、今日は植えずに持ち帰り。仕方ないから自分のOyamabokuchi畑の方で地這い栽培にしてみようかと思う。
 それからOyamabokuchi畑に移動してチコリを一列40本を二通り。こちらの畑はこれでもう姫冬瓜以外は何も播きも植えもせず、残っている場所にはソバを播く予定。身近な場所に播いて、遠い畑のソバの生育状況を類推するためと、チコリの花とともにご近所の皆様の目の保養のため。(あ、まだルート・パセリが残っている)
 そういえば、Hさん、Nさんも「げきから」、植えるまでに育ったでしょうか。


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 それから、本日は午前10時~12時過ぎまで、わがやの自家用米水田の田植え。
 例年通り、T屋さんにお願いして自分は畦にいて苗の箱を手渡すだけ。苗が良かったので欠株はまったく無く、田植え機でうまく植えられない四隅を少し手植えしただけで終了。少しくらい手で植えないとね。

2008年5月25日日曜日

感想・「中有の樹」(「照葉樹」5号)

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垂水 薫さん「中有の樹」(「照葉樹」5号・福岡市)

 よくぞこんな題名をと感心し、また「中有」という言葉から穏兪され、あるいはイメージされるものの大きさと深さを想像し背中がぞくぞくしました。
 さらに、書き出しの一頁で主人公がブナの樹にぶら下がっている首吊り死体であることを知り、ひょっとするとこの小説は傑作であるのかもしれない、と、大いなる期待を抱きつつ読み始めました。

 しかし、先へ先へと読み進むにつれて違和感が大きくなっていきました。
 なぜ?
 読了してから一週間くらいの時間をおいて初めて、判りました。

 三十八歳になって首吊り自殺をした私と、同じく自らの命を絶った八十歳のブナの樹の先住者との対話、あるいは結末近くで描かれている無数のブナの葉たちのかつての人生の不満や不都合などが、よく言えばあまりに典型的、悪く言えばあまりにステロタイプなのです。
 典型的であることで多くの読者に理解されやすいのは事実ですが、そのことと引き換えに文学性は損なわれてしまう、そういう物書きには痛烈に皮肉な背理(パラドックス)に堕してしまっている。

 また、もう一点。主人公がブナの木にぶら下がっている自殺体であるという、いわばリアリズム的設定に縛られてブナの木からあまり離れられない不自由さが、この小説を八十歳の先住者との対話に多くを頼るようにしてしまった。
 ブナの木にぶら下がっているからといって、この作品の時空をそこに固定しなければならない理由はない。むしろ、死んだ主人公の意識は自由自在に時空を移動して構わないのである。小学校の鉄棒の場面だけではもったいない。もっとさまざまな時空に主人公が移動して、「描写」を繰り返してはまたブナの木に戻ってくる。そういう柔軟な話法が欲しかった。

 私はこの作品を書こうとした作者のこころざしをある程度は感得した上で、さらに欲目で物を言っているのです。

 できれば、垂水さんには安易に判りやすさに傾かないでほしい。
 むしろ、この作者、垂水薫さんの文学的威力はひたすら描写のすごさにあるのであって、だからこそ、安易な解りやすさやステロタイプな人間表現は止めてほしいと声を大にして叫ばずにはいられないのです。
 前作の鶏肉の描写、あるいはその前の水に流れる私の描写、その前の光の描写。
 垂水さんの文学的武器はああいう描写にあるのです。
�� って、実は誉めるの九割、苦言一割なのですが)
 でもこの苦言九割は垂水さんの才能に期待してこそなので、こんな因業オヤジの苦言などにめげず腐らず、笑って前へお進み下さい。
 人間、誉められたらお終い、苦言を呈されてこそ認められているのですから、何クソと思って次作をお書き下さい。

さて

 そろそろ、静かな読み書き生活に戻りたいものです。
 疲れがひどくてまだ残雪が読めません。途中で、眠くなるというより気が遠くなるんです。死ぬときもああいう風に意識が薄れるだけだったらいいですね。
 先ずは感想文を2つ書いて、もう一作読んで感想を書いて、それからです。





  配偶者が詩集と詩論集を2冊同時に刊行するというあまりに過激な作業に熱中していたが、ようやく印刷から製本の段階へ。だが、あまりに凝ったためか、歯痛を起こしてご機嫌斜め。触らぬ神に祟り無し、わしゃ知らん~。

遅寝早起きから早寝早起きへ

  今朝は5:30頃畑へ。ズッキーニ、4種類、緑色で長いダナー2本、黄色で長いオーラム2本、丸くて緑縞のグリーン・エッグ4本、丸くて黄色いゴールディ3本、計11本。落花生のポットに育苗したもの58本。沖縄中長ゴーヤ4本と薩摩大長れいし2本。坊ちゃんカボチャ2本、ほっこり133を3本。
 ナス、トマト、ピーマン、とうがらし類は後日。


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 (クリックで拡大表示)
 
これは南側の竹薮とアカシアの薮の手前。右側の敷き藁をしてあるのがワサビ、左奥の羊歯の葉みたいなのがコゴミ(クサソテツ)、その手前のアスパラガスを載せられている大きめの葉が最初に植えたルーバーブ、ヴィクトリア。
 ワサビもだいぶ消えてしまったように見えるが、実は小さな芽や葉が出始めていて、増えそうな気配。ただし、そろそろダイオネットで日除けをした方がよさそうなので、竹薮の竹を切って南側にダイオネットを張ろうと考えている。
 この写真の向こう側から、昨年は狸たちが現れてスィートコーンを皆食べられてしまいました。竹薮に入ってみると、幅10センチくらいの狭いけもの道が続いていました。ですから今年はここには作らず、自宅から車で1分のOyamabokuchi畑の隅っこにスィートコーンを播きました。


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 こちらは今年Oyamabokuchi専用として借りた畑に植えた、Hさんから種をいただいたワイルド・ルッコラ(セルバチコ)。もう葉を摘んで食べられるくらい大きくなって来ました。
 雨が上がったらこの隣にチコリを植えようと思っています。あの青い花が咲くでしょうか。

 しかし、早朝作業のせいで夜、眠い。


2008年5月23日金曜日

われながら、小人

 ようやく発送準備作業終了。会で送付する分、個人で送付する分、ほぼすべて。
 数が多いのでどうしてもメール便に頼らざるを得ないが、料金が安くなった分、配達日数が1~2日余計にかかるのが難点。しかもネットで配達されたかどうか確認する必要もある。
 今回は雑誌の厚みが1cmあるので1部入れて80円、2部入れて160円だが、県内同人誌には5部送る規約があるので、それに苦心する。1冊で230gなので5冊だと1kgを超える。ゆうメール(旧冊子小包)だと1kgまで340円だが1kgを超えると450円である。
 同人数7人で月額1500円の同人誌でまかなっている零細雑誌なので、送料も出来るだけ安くしたい。
 そこでメール便のA4サイズ2cmまで160円に注目。今回はポリ袋を使ってしまったが、できれば伸びないセロファン系のA4よりやや大きいサイズの袋に、A5の雑誌を横に2冊ずつ並べ、できるだけきゅっと締めて緩みがないようにセロテープで張って、4冊を一体化する。それをA4サイズでやや余裕のある角型2号のクラフト封筒に入れて封をする。これで160円で4冊を送り、残る1冊をA5用封筒に入れ、A4・1cm・80円のメール便で別に送る。これで5冊が240円で送れてしまう。同じ宛先のシールが2枚必要になるが、それはパソコンの仕事なので1枚印刷を2枚に指定するだけなので、苦にはならない。
 (そういうつまらないことに腐心、夢中になりながら作業終了。こういうつまらないことにだけは天才的に柔軟な考えが閃いて、ふっ、われながら、小人ですな)

 次号は9月末締め切りで11月発行になるので、多分、送るのはこれで最後になるであろうあの同人雑誌評にも3部発送。ウァーン・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )ナクナョ!!

 さあ、これでようやく読む生活に戻れる? 仕事も6月に入れば落ち着くだろうし、送っていただいた同人誌の残る1作を読み、残雪の「亜娥」を読む。ちなみにわが配偶者は残雪よりふたつ年下(意味不明)。
 そういえば「中国現代文学1」は表紙にPP加工してありますね。PP加工って、あの、印刷された紙に接着剤を塗布してフィルム(Poly-Propylene Film)を圧着させてつるつるぴかぴかしているあの加工のことですが、むやみに反射するのが嫌ですが、汚れなくていいですね。で、わが印刷会社のPP加工料金を調べたら、300部まで8400円。さて、安いような高いような、高いような安いような......。 


2008年5月22日木曜日

今夜はひたすら

 発送業務。もちろん、iPodで好きな音楽を聴きながらでありますが。
 とりあえずは、同人へ送る分と、ネット上で知己を得た大切な物書き仲間の皆様にお送りする分を優先し、明日発送できるまでになりました。部数が20部という同人数名を除いて、皆、メール便なので、到着は3~4日後となりますが。
 県内各誌へ送る5部は姑息な秘策を弄してメール便で発送することに。
 何せ、1冊でほぼ1cmありますので部数が複数の送り先は苦しいのです。

 あとは追悼文を書いた林さんの奥様とご子息に1冊お送りし、なおかつ「デジタル文学館」へ私が推薦者となって一作転載する、そのお許しを得るために手紙を書いて、今夜はおしまいにしよう。

 同人のY本さんが耐水MP3プレーヤーというものを購入したらしい。むむ、浴室で音楽? なるほど。

2008年5月21日水曜日

編集人の暴挙

 午前10時前、宅急便でダンボール箱3つが配達された。ほんとうに20日に届いた。印刷会社の作業日程を計算して発行日を20日にしたら、ピタリ。
 すごい。

 
o42hyoushi.jpg(画像をクリックすれば拡大表示されます)

 予算を倹約して表紙の画像を2色刷りできなかった以外はまあまあイメージ通り。が、やはり表紙のモノクロはさびしい。しかし、2色刷りでビビルくらいならいっそ思い切ってフルカラーなんてどう?
 それにしても、指定した本文用紙が思いのほか厚く、40号の166頁より42号の144頁の方がずっと雑誌が厚いのには参った。メール便で1部送るのは変わらないが、郵送で5部ずつ送るのが難題。

 さて、毎号ボケをかましている編集人であるが、今号はどうなのだろう? せめて、自分のところにミスがあればいいのだが、そうじゃないのだなあ。
 今号は、さらに編集人自身の作がトップに来てしまうという暴挙が露わに......(汗)、トップに来た作品が優れているなどという編集観はありませんので念のため。

 20日の日付のうちにWeb版を発行すべく奮闘して先ほどアップロード。今夜はこれでなにもしない、出来ないが、明日から発送作業。

2008年5月20日火曜日

ジリジリ

 一週間ほど前に、ある同人誌掲載作品の感想をテキスト・エディターで書き始めて中断、まだ2行しか書けていない。
 作品の全体像は見えたので書けるはず。良い点はあっさり簡単に書けるのだが、ここが良くないという点を作者自身に納得していただけるように書くのが難しい上に、夕食後はむやみに眠くて気が遠い。遅寝早起きの早朝作業が結構こたえています。
 その上、もう一作読了した作品がドンと控えておられるので焦りますし、もう一作読むつもりなのです。



 ここまで来ると、わが家の自家用水呑農業水田1反5畝の田植えが終わらないうちは無理なのかも。
 (1反5畝で15俵収穫があるとして、昔風に言うと7,5石。下級武士の10人扶持にも及ばないぞ)
 今日、ようやくT屋さんに21日代かき、26日田植えの依頼をする。みんなT屋さんに負んぶだが、そのT屋さんがこの冬は腰痛のため治療院と整形外科に通院していた。近い将来T屋さんが引退する日も想定しておかないと。 
 
 ビリーバンバンの「さよならをするために」と小椋佳の「めまい」、来生たかお「夢の途中」、セルジュ・ゲンスブールの「La chanson de Prevert」、ショパンの「バルカローレ」をiPodに収録。

お、おお

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 茎どころか葉まで赤くなって来て、思わず期待(してまた落胆?)。


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 こちらはルート・パセリ。本葉出初め。見た目は普通のパセリとまったく変わらない。 


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 これは「ぶんたん」の発芽状況。もう少し大きくなったら鉢植えにして冬越しに挑戦。寒地では常緑樹は貴重であります。


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 これはチコリ二人組の何か怪しく笑える姿態。これらがあの美しい天国の青空色の花を咲かせるなんて信じられないので、実際に花を咲かせて根から軟白チコリを製造してみないといけません。
 白い部分が軟白化されて食用となる。根を乾燥させて焙煎すればコーヒーになるらしい。

2008年5月19日月曜日

生きる自分と書く自分と、二つの時間くらいは並行して

 例年、5月の第三土曜日、日曜日は繁忙のピーク。昨夜は読むも書くもまったく意識が働かず、爆睡。

 今夜は多少の余裕。
 J・プレヴェールのシャンソン集から「割れた鏡」(イヴ・モンタン)、「葬式に行くカタツムリの唄」(リス・ゴーティ)、「恋歌 La romance」(ゼット)、「あんたがねてるとき」(エディット・ピアフ)、「私は私、このまんまなの」(ジュリエット・グレコ)をiTuneに登録......何とも豪華な歌手陣......、さらに、動画サイトからボリス・ヴィアンが唄う「脱走兵の唄」とAarnoud de Groen というオルガ二ストが演奏するバッハの "Ich ruf zu Dir, Herr Jesu Christ", BWV 639 、小椋佳の「めまい」、ビリーバンバンの「さよならをするために」などをダウンロードし、そのflvファイルからさらに音声だけを抜き出してMP3に変換してiTuneへドラック、iPodをパソコンに接続してMP3ファイルを移動。

 朝食前に、自家菜園で作業している時にiPodのイヤホンを耳にしていると、実に効率的なのだ。
 野良仕事をする私と、音楽を聴く私と、これこそがB・ヴィアンの並行人生ではないか。
 彼ほど多重な人生を生きることは凡人である私には不可能だが、せめて、生きる自分と書く自分と、二つの時間くらいは並行して生きなければ、生きている甲斐も無いというもの。

 それにしてもほんとうに20日に同人誌42号は届くのだろうか? Lydwineさんの木曜日が10日で出来たのだから、うちの雑誌も20日に出来るのかもしれない。データを送って10日で出来る。すごい時代に生きているのだな、私たちは。


ほろ苦いチコリ

 チコリの稚苗を見ていると、ほとんどレタスの稚苗とほとんど区別がつかなかったが、今日、見ていると少し差が現れてきた。

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         (左がチコリ、右がレタスの稚苗)

 双葉では区別がつかないが、本葉がチコリの方がギザギザがはっきりしている。
 それにしても、このチコリがあの食べてほろ苦いチコリになるのだろうか? この苗をもう少し大きくしてから畑に植え、秋に根を掘り上げて春先に軟化栽培すればあのほろ苦いチコリになるというのだが、苗を見ては信じがたい。と思って検索してみたら、似たようなことを書いているひとがいて笑えた。
 Heavenly Sky Blueな花を見るだけでもいいのだが、それだと160本もの苗は不要だ。
 やはり軟化栽培まで試みるべきか、私の中のブヴァールとペキュシェ君!!

2008年5月17日土曜日

一夜の夢想、あるいは青臭い考えを思いっきり遠くに投げ

 たとえば文學界同人雑誌評が無くなったとしても、われわれは書くことや同人誌を発行することをやめないであろうけど、私は書くことだけを大事にしている訳ではない。
 これまでにも繰り返し書いているが、書くこと(創作)と読むこと(批評)は右足と左足に相当し、双方がお互いを反映しあってこそ誰も書いたことのない小説にたどり着くことが出来るのだと私は信じている。自分で書いて、自分で読んで、考えて、感じて、さらに書いて読んで、そうしてこそ誰かが書いたものの再生産でない小説が書けるのだ。

 そんな青臭い考えを、半ば自棄になって思い切り遠くに投げ飛ばしながら、今夜はちょっとした夢想をした。
 ひわきゆりこさんの「文芸同人誌案内」によって全国の文芸同人誌の動向が見えるようになって来たし、私が司書となっている「デジタル文学館」に、今後アーカイブされる作品が多くなれば、発行部数が数百部で入手困難な同人誌に掲載された秀作も自宅に居ながら読めるようになる。

 でもまだ、何かが足りない。
 それは「批評」だ。
 商業誌の末尾に申し訳程度に置かれた、おためごかしな、読者獲得のためのシステムとしての同人雑誌評や、何事かの目的や打算や他意がある寸評や印象批評では断じてなく、純粋に作品を読んで感じ、考え、解釈し、書くという、創作をバックアップする純粋な「批評」が決定的に欠けているのだ。
 批評の不在は創作の低迷を招き、創作の低迷は批評の不在を招く。
 (何か利いた風な言い方で済みませんが、ほんとうにそうなのだと思います)
 
 そこで考えられるのは、同人誌の書き手だけで相互批評をする会員制の場を設けることである。場所は無論、ネット上であるが、状況に応じてその相互批評を印刷された会報を作ることなど造作もない。アナログとデジタルの双方を有機的に生かしてこそ会員の資格は、みずからが小説を書き、また自分以外の書き手の小説を読んできちんと文章化、すなわち批評出来ること、それだけが条件である。

 あわわ、これは、眠って目覚めたら記憶にもないであろうはずの、一夜の夢想にすぎません、(ーー;)

あいかわらず

 ネットでわさびの種の採種と播種についての検索を続行。採種から播種までの作業工程は判った。この春に移植した庭先わさびの株では充実した種子は望めない。そこで山で咲いていたわさびの花ならはちきれんばかりに膨らんだ種を生成しているだろうと夢想して、6月になったら山に行こうと思う。

 さらに、ネットでiPod専用スピーカーについて検索。
 イヤフォンとかヘッドフォンとか、頭蓋内で音を響かせるシステムは嫌いだったが、iPod
を入手してからはそうも言っていられなくなった、家の外では付属のイヤフォンが便利である。
 しかし、家のなかでは脳の外の外部スピーカーで響く音が望ましい。そこでiPod専用スピーカを検索した。数千円から数万円まで、結構、選択肢は多いが、なぜか、15,800円という機種がむやみに多いのは、なぜ?

 


2008年5月16日金曜日

今夜は

 毎月15日恒例の赤提灯。


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2008年5月15日木曜日

寒いと思ったら

 浅間山に雪です。
 電線や建物が邪魔にならない、いつも場所から。山頂の雲が待っていても消えないので待ちきれずシャッターを押してしまったが、その後はもっと雲が多くなった。

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    (画像をクリックすると拡大表示されます)

 「中国現代文学 1」、7イレブンで引き取ってくる。
 われわれの同人誌とあまり変わらないレイアウトとページ数で2,100円は、Lydwine.さんならずとも号泣したくなる価格設定だが、残雪を読むためなのだから我慢我慢。
 あれ? 印刷製本はわが家から1Kmと離れていない会社ではありませんか。大学などの仕事が多いと聞いていましたが、なるほど。

 「照葉樹」5号、垂水薫さんの『中有の樹』読了。この作品も「木曜日」24号のよこい隆さんの『冬女夏草』と同じくらい評しがたい。というか、評するのに時間がかかりそう。どちらも評文を書く前にもう一度読まないと書けないだろう。どんなにヘボでどんなに歌を忘れたカナリアであっても、ひとの作品を読み、評するためには、2~3行の利いた風な寸評や印象批評(私は大っ嫌い)で済ませるわけにはいかないし、常に、自分の創作と照応させながら書き進める必要がある。そのためには、そう数多くの作品を読んだり評文を書いたり出来ない。これはと思った作品だけに限定して作者と同じくらい必死に書かなければならないだろう。
 青臭いまでの理想論ではありますが......(ーー;)。


 歳にも似合わず購入したiPodに収まった曲たち。

ショパン「幻想曲嬰ハ短調」
HMさんの「ギリシア風ワルツ」、「鎮魂歌」、「Melody」
フォーレ「無言歌17-3」、「夢の後に 作品7-1」、「シシリエンヌ」
パッヘルベル「カノン」
Animals「朝日の当たる家」
バッハ「マタイ受難曲」、BMW639
森田童子「僕たちの失敗」、「みんな夢でありました」、「君は変わちゃったネ」
荒井由美「中央フリーウェイ」
井上陽水「リバーサイド・ホテル」、「いっそセレナーデ」、「少年時代」
ZARD「異邦人」
大橋純子「シルエット・ロマンス」
グレン・グールドが弾くバッハ
クルト・レーデル指揮、ミュンヘン・プロ・アルテ管弦楽団演奏「音楽の捧げ物」



2008年5月14日水曜日

久々の偏愛図書室

 中嶋たかしさんの「21の物語」を紹介するページを復活させることにした。
 版元新○社は倒産してB芸社がそっくり買い取る形になったようなので、版権も移動しているのであろう。中嶋さんご自身とも直接コンタクトする術がないが、隠しページの形で復活すればあるいは検索されて気がつかれるかと期待して。

 以前、やはり小説を書かれるR子さんから、その大切な物書き仲間である中嶋さんのこの本をいただいて、すっかり魅了された。
 どことなく山川方夫の作品を彷彿させるさせるような、しゃれて詩的な掌編が21も並んでいた。 正直言って、S社からの出版では惜しいと思った。
 そこで中嶋さんの了解を得て、数編ずつ立ち読みという形なら版元も了解ということでアップロードしたのだったが、いつまでも立ち読みでもあるまいとリンクを外してしまった。

 その後のR子さんは今も書くことに専念できない現実にあり、中島さんもまた、馘首されていなければ福岡市内の学習塾講師をされながらパチンコをされているか、馘首されていればパチンコ・プロとして生きられているのか......。

 実は、R子さんは福岡市出身、中嶋さんも福岡在住である。
 やはり、福岡は文化・文学の根が強い土地柄であると感嘆せざるを得ない。
 多分、御柱に熱を上げる諏訪湖周辺に同人誌が異様に多いのと同様、血沸き肉踊るような祭りを伝統文化とする地には、文学も深く強い根を張るのである。
 どうしてって? 文学もまた、あのように血が沸き肉踊るようなパッションを必要とするからです。パッションとは、情熱であるとともに受難(受苦)でもあり、それは創作の過程にそっくり当てはまりまるのです。
 生きることにパッション(情熱)の強い人間ほど、パッション(受難・受苦)もまた強く大きく訪れる。ドストエフスキーの主人公たちがそうである。生命力の強い人間ほど自己に対する絶望も強く深い。文学の存在理由は、まさにそこにあるのではないか。
 



 という次第で、このブログを反復して訪れていただいている、両手の指で数えられるほどの希少な皆様だけに、無名だけれども、だからこそかえって私が偏愛する書き手、中嶋たかしさんの本を紹介させていただきます。
 とりあえずは古いままままのHTML版のままのUPですが、いずれ近い将来、全作品をPDF縦書き版でUPしようと思っています。
入り口はこちら
中嶋たかし「21の物語」 



創作MEMO
 
 短編「赤い靴」の着想。童謡の「赤い靴」が背景に流れている。
 主人公、生まれは東京世田谷の高級住宅街だが日本人ではなく、成人して父母の国の親戚の男と結婚、横浜から出国。戦争を挟んで、その結婚生活が破綻して帰国。
 日本人男性と再婚したものの先立たれ、今は特別養護老人ホームで暮らす。
 あれれ? このままだとただのド演歌的リアリズム小説にすぎないではありませんか。もうひとひねり何か必要、or, 没!
 

私たちの通底器

 昨日、今日と東の風が冷たく、これではまるで夏のヤマセそっくりである。夜は家人がストーブに火をつける。

 7&Yより、「14日に『中国現代文学 1』がもよりの7イレブンに入荷」とのメールがようやく着信。7&Yにしてはけっこう日数がかかったが、おそらく零細であろう版元からの納入を待ってという形だから仕方ない。入手できただけで結構。価格、2,100円も致し方ない。

 昨日の記事に多くのコメントをいただいた。ふだん、怪しい種まき記事や菜園がらみのことばかり書いているので園芸ブログかと思われてしまいそうですが、コメントしていただき、ほんとうに感謝です。ネットというのはただ読んで黙って帰られる方がほとんどだと思いますが、そんな中でコメントをいただけると、自分が書いていることに客観性を保障していただいたようで、本当にうれしいです。
 それに、今回の同人雑誌評についての話題では、本気で文学に取り組んでいるひとの考えや感じ方が、思ったよりずっと共通していて、ほっとしました。
 やはり、文学という名の通底器で、われわれはまだ繋がっているのです。
 ということは、文学という共通の価値観がまだ生きている。すなわち文学はまだ死んでいない。
 そういう結論を見出して、もうちょっとがんばろう、そう思いました。
 皆様、ありがとう。
 

2008年5月13日火曜日

同人誌という名の池

 ある方からのメールの返信に以下のように書いて、書いてから自分でもそうだったんだと納得した。 
 文學界同人雑誌評については、無くなるのはショックですが、しかし、もうある時期から文學界同人雑誌評に何も期待しなくなっていたというか、同人誌の編集発行人という立場上、定期購読を続けていただけで、昨年にはそれも止めていたので、むしろこの結果には案外納得出来るのかもしれません。
 逆説的で皮肉な見方になってしまうかもしれませんが、同人雑誌評のああいうあり方が同人誌の書き手をむしろ同人誌のなかに閉じ込めてしまって、逼塞させてきたような気もします。

 同人雑誌評に取り上げられただけで満足してしまう、そういった状況を肯定、安住してきたのではないか。
 いったい、同人雑誌評が真の批評の装置として機能しなくってしまったのはいつ頃からなのか。 同人雑誌評に失望や絶望を感じて読まなくなっていった読者はいなかったのか。
 同人誌の書き手は同人誌という名の池を泳ぎまわるだけでいい。
 そんな風にしてプロとアマチュアの棲む池が分け隔てられた。お互いに自分の世界のことには関心があるが、相手の世界には関心が無い。かくしてどちらの世界からも活気が失われていった。
��あまりに悲観的な、個人的考え)
 同人誌の書き手という枠の中にくくられるのではなく、個として、もっと書くことに意識的、戦闘的にならねば。
 
 
 今朝の早朝作業でoyamabokuchiの定植作業は6通り、ほぼ150株となり、これで終了とする。まだ苗は残っているが、時間に余裕があれば山に生育適地を探して植えて来たいと考えている。6月になれば山に行く余裕もあるだろう。
 まだ半分ほど余地があるが、チコリやルート・パセリなどを植え、まだ残っていたらそこにも蕎麦を播こう。なんだか怪しい畑だが、チコリやら蕎麦やら、花だけでもひとを楽しませるだろう。
 そういえば、生前、ご自身も花ゲリラだったらしい黒沢さんを思い出した。かつて所属した同人誌で仲間だったが、癌で亡くなられた。胃を取ってもなお飲兵衛で、楽しい酒をご一緒したことがある。
 ちょいと検索してみたら、今でも花ゲリラ活動は続いているらしく、ブログやmixiのコミュが存在する。なるほど、ありえない場所にきれいに花が咲いていたりするのは、彼らの仕業か?





 iPod、絶好調。好きなバッハやフォーレの曲やお気に入りの歌を入れまくり、どっぷり。そして今夜はなぜか、桂銀淑の曲ばっかりをダウンロード。(彼女、逮捕されてどうなったんでしょう)
 もうひとつ欲しいのは、高性能な双眼鏡。山歩きする時に向こうの沢に何が生えているか、確認するのに必要。デジカメのズームくらいでは見えないのだ。沢を下って上って徒労だった時の落胆。運動をしているのだと思えばそれもいいのだが、歳の所為か、息、ハアハア、ゼイゼイです。ちょいと価格.comとヤフオクで検索。  

2008年5月12日月曜日

iPodなるもの

 この歳で手にすることはあるまいと思いつつ、昨年来ひそかに入手したいと考えていたものだが、ようやく手元に。
 早速、フリーのダウンロード・ソフトでダウンロードしたflvファイルから、これまた別のフリーソフトでmp3だけを抜き出し、それをiTuneに登録。それからiPodをパソコンに接続し、同期すれば曲がたちまちiPodの方に移っている。パソコンはブラック・ボックスであるが、マジック・ボックスでもある。ネット上から、CDからさまざまな音楽がこんな小さな機械の中に納まってしまう。ご機嫌である。4GBで何曲くらい入るのだろうか。クルト・レーデル指揮のバッハの「音楽の捧げ物」のなかの「無限カノン」と「各種のカノン」を取り込む。


今朝はまた5時過ぎに目が覚め、oyamabokuchiの5通りめを植えようかと思ったが雨が降っていた。いったん家のなかに戻ったが、また眠るわけにもいかないので、屋根のある場所で本葉が出始めたチコリの仮植をすることにした。見た目はレタスの稚苗に似ている。7,5cmの黒丸ポリポットに82本、12×6のセルトレイに1枚(72本)、合計で154本。これも多すぎる。
 oyamabokuchi farmで、154株の天国の空の青が咲き乱れたりして......(^_^;)
 
 
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 これはWasabiの種の写真2回目。だいぶ、莢の形が明確になってきて、そのなかに種がありそうな雰囲気。
 今年はこの株は植え替えられて種が充実したものになるかどうか判らないが、なるほど、これで種の採取も不可能ではなくなって来た。発芽させる方法もoyamabokuchiで試したのに近い方法で出来そうな気がする。
 

 読書、昨夜は中頃で睡魔に引き込まれて中断。今夜は最後までいけるか? 

2008年5月11日日曜日

ドジで間抜けな

 午前中、家を空けていて帰宅すると留守番電話にまた印刷会社から電話が入っており、折り返し電話をして欲しいと言っている。土曜日だが仕事をしているようだ。送ったデータに何か問題があるのか、すぐに電話をかけてみた。すると、女性社員の声で、表紙のファイルを開いてみると、表紙ではなく本文のどれかの20ページ分が入っています、と。
 CD-Rに焼く前に中身を確認したはずだが、さて? 自分のパソコンのなかのフォルダから、問題の表紙ファイルを開いてみると、なるほど確かに本文20ページ分が入っていて、表紙などどこにもないではありませんか、ガーン (@_@) 。
 一太郎ファイルを中間ファイルであるプリンタ・ファイルに変換する際、違うファイルを表紙ファイルに上書き保存してしまったようだ。
 大ポカである。さてどうしましょう。メールに添付ファイルはセキュリティの関係で受付しないことになっているらしい。CDに焼いて郵送するか、宅ふぁいる便のどちらかというので、後者で送ることにして、さっそく宅ふぁいる便にメンバー登録し、宛先の名とアドレスと入力、送信するファイルを選択してボタンを押すと宅ふぁいる便のサーバーへ。昼食後にパソコンを起動したら、相手方がファイルを開いてダウンロードしたというメールが着信していた。やれやれ、相変わらずドジで間抜けな編集人でありますな。
 
 
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 今朝、雨がぱらついていたが、目が覚めたのででかけて、いちばん左側、4通りめの定植作業をし、さらに5通りめにマルチを張り、6通りめの畝を作ってマルチを張るまでにしておく。雨の水分を滲みこませてから張った方がよろしいかと。
 しかし、4通りで100本を超えた。常人の域を超えて、まさにネクタリオ君か、ブヴァールとペキュシェである。6通り植えると150本になるからも、うやめよう。まだプラグトレイに植えた苗がそっくり余っている。
 
 
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 こちらはRhubarbの種をネットで購入した時におまけで付いて来た紫バジル、ダーク・オパール。もう植え頃に育った。5×5の連結ポットに仮植してしまったので、これ以上は置けない。これも珍品ばかりのoyamabokuchifarmへ植えておこう。
 しかし、以前、緑のバジルを植えたらはびこってしまって未だに絶えないので、ちょっと怖気づいている。何か、蔓延しそうな予感がして。でも夏にトマトなど獲れるようになったら使い道があるだろうから、5本か10本くらい植えておこう。

 そういえば、ワイルド・ルッコラの葉っぱを一枚摘んで、生のままかじってみたら、ふわっとゴマの味がし、それからピリピリっとした。味が二段変速なのが面白い。


 歳にも似合わないiPodなるものを入手することにした。明日、宅配便で到着する。
 となれば、アンインストールしたiTuneをまたダウンロード、インストールしなければならない。 iTuneがあればいろいろ編集できて都合がいい。昨日のErbarme dichもMP3に変換したのでiPodに入れて聴くことが出来る。

 よこいさんの「冬女夏草」の感想を書かねばならないのだが、照葉樹の垂水さんの「中有の樹」を読み始める。
 読んですぐに感想を書けばいいのだろうし、その方が簡単だし楽なのだが、それでは印象批評に陥りやすいので、すぐには書かずに溜めておく。溜めておくとだんだん書きにくくなるのだけれど。
 わ、「中有の樹」は首吊り死体である私が主人公? 丸山健二の死者が主人公の小説を思い出しましたが、まさか......。

2008年5月10日土曜日

遅寝早起きの弊害

 今朝も5時半より7時までOyamabokuchi専用畑へ。
 今月いっぱい、日中は忙しくて行けないので、早朝か夕方、少しずつ作業するほかなし。
 もう一通り黒マルチを張り、雨が降るらしいのでもう一通りはマルチを張るばかりに畝を作っておいた。雨が降ったら黒マルチを張る。
 また今年度のRhubarb2種類はこれまでのものと交配しなようにこちらの畑に植えることにし、いちばん北側に南欧産を7本、その南にカナダ産を13本植え、コンバインのカッターで切られてロールになった稲藁を、乾燥防止と草の発芽防止のために周囲に敷いた。このロールになった稲藁、T屋さんにいただいたものだが、もっといただいておこう。
 他のRhubarbのほとんどはT中さんに上げ、7~8本をT屋さんが欲しいというのであげて、それでおしまい。T中さんは畑一枚すべてRhubarbになってしまったらしい。どうする気なのだろう?ジャムの製造でも始める?

 それにしても遅寝早起きな日々が続くと、眠いこと眠いこと。パソコンのモニター画面を見ているだけで後ろへ卒倒しそうです。

 

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 午後、仕事で旧開拓地にあるお宅を訪ねた帰り道。憎まれっ子の西洋タンポポもここまで賑やかだと憎みきれない。
 車を止めて、ここに仰向けにひっくり返って寝ていたら、ジャック・プレヴェールの詩、『砕かれた鏡』に出て来る小人がぞろぞろと現れそう。
 星をちりばめたきみの笑いのガラスの破片が七つ?
 
 印刷会社より、宅配便が届いて現在CDと出力見本を照合、確認中とのメール着信。その後、留守中に電話があったらしい。何か問題があるのだろうか。印刷発注書に、固定電話でなく携帯電話の番号を書いておくべきであった。

 忙しくて、書店に行って文○界を立ち読みする時間も無い。

 夜は久しぶりにYou Tubeに入り浸り。
 TarkovskyのThe Sacrifice のなかで流れていたマタイ受難曲のErbarme dichをダウンロードした。 誰? こんなのを違法にアップロードしてしまうのは(。
 Tarkovskyのような亡命者はどの国家も、誰も、著作権など保護してくれないんですね。The Sacrifice 以外の映画はすべてネット上にアップされていて見ることもダウンロードすることも出来る。限りなく悲しくて、けれど、だからこそ彼の映画を居ながらにして見ることが出来る至福。われわれは常に、そんな風に引き裂かれている。
 Julia Hamari のErbarme dichも捨てがたいんですが、このTarkovskyの映画のタイトルバックに流れる音源はオリジナルなのだろうか。誰が演奏し、誰が歌っているのだろう。
 「神よ、我を憐れみたまえ」というユダの悲痛な声。
 この後にユダは首を吊って自殺したのだというが、それがどうも腑に落ちない。 

今年も

 咲いた「かぐや姫」
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と名前不明
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2008年5月9日金曜日

天国の空の青

 発芽したチコリが双葉の間から本葉を出し始めたので、携帯電話のカメラで撮っておいて今パソコンに取り込んだらピンボケで使い物にならず。
 先日アップしたチコリの花の画像。

chicory.jpg 

これは何ブルーと言うのだろう。朝顔に「Heavenly Blue」という品種があるが、あれよりも美しいスカイ・ブルー。いうなれば、「Heavenly Sky Blue」。花を見るだけでよろしい。
 Oyamabokuchi専用に借りた畑だが、まさか全面をOyamabokuchiで埋め尽くす訳にもいかず(そんなに要らない)、2種のRhubarb、ワイルド・ルッコラ、チコリ、ルート・パセリなどもここに植えてしまおう。見たこともないものばかり並んでいる奇妙な畑で、ご近所、通行人、さぞや煩かろう。名前を教えても家に帰ったら忘れてしまうくせに、何回でも訊くのである。
 「秘密」とか言って、まじめに教えるのはやめておこう。

2008年5月8日木曜日

やれやれ

 午前中の早めの時刻に印刷会社に料金で不明なものについて問い合わせをしたが、返信が遅くて料金払い込みが午後3時を過ぎて出来ないと諦めかけたが、郵便局のATMでペイジーを使えるので、それで確認した料金を振り込み、データを焼いたCD-RとA5用紙への出力見本を封入した封筒を宅配便で発送。これで雑誌になって帰って来るのを待つのみ。
 当初は表紙を前号、前々号同様に2色刷りする予定だったが、見積もりの結果2色刷りと1色ではただそれだけの差で18,360円の違いが生じたので、今回は2色刷りをやめて1色にしてみた。
 
 デジタル文学館に一作アップ。
 「木曜日」24号(日本ジャーナリストセンター・上野ゼミ)から、よこい隆さんの『冬女夏草』
  印刷された雑誌を送ってもらえないひとでも、遠くはなれて在っても、海外にいてさえも、アップロードしてある小説が読める不思議と感嘆。

 同じ文学をする者であっても、パソコンを使う人と使わない人、ネットに繋がっている人と繋がっていない人の間にはすごい溝がある。来月、少しスピーチしなければならないかもしれない(時間切れでしなくてもよくなるかもしれない)が、その際に話す予定のテーマも源をたどってゆけば、手書きのアナログ言語とコンピュータによるデジタル言語の埋めがたい差異だ。そのことを話したところで文学の何かが変わる訳でもない。まったくの非文学的話題。
 

人間なんかよりずっとまし

 早朝に自家菜園に行くとコゴミが顔を出していて、写真を撮るために伏せると、まるでコゴミの森林の中。ねえ、きみたち、そんなに巻いた顔を突き合わせて、何をしゃべっているんだい?

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 畑の隅へ植えなおしたらずいぶん増えて、スーパーのレジ袋(中型)にいっぱい。ほかにも独活、アスパラガス、茗荷竹などを収穫。
帰宅後、朝食の席で配偶者曰く、
「この頃わたしたち、虫みたいに草の芽ばっかり食べていない?」
「多年生の草の芽を食べると新陳代謝を活発にするそうですよ。いいじゃないですか、虫で。人間なんかよりずっとましです」
「???」

 また畑わさびとして植えた山のわさびも根付いたものはこんな感じです。

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 そろそろダイオネットで日除けをしてあげた方がいいかもしれません。

2008年5月7日水曜日

いよいよ出稿

 いよいよ連休明けの明日、電話で印刷会社の二三の確認をしておいてから、宅配便でCD-Rと出力見本を発送する。印刷代前金なのだが、初めてなので計算に自信がない。だからいったん送付して内容を確認してもらってから印刷代金を振り込もうと考えている。
 次回からは周知の作業になるが、何にしても、初めてというのはどこか不明であったり、自信が無かったりするものである。
 一応5月20日を発行日にしてあるが、ちょっときついか。でも「木曜日」さんも10日くらいで出来上がったはず......。

 「デジタル文学館」28作目の推薦をいただいた。個人が物好きに始めた仮想図書館だが、一作ずつ仮想書棚が埋まってゆくのがうれしい。
 「デジタル文学館」は、よほどの人で無い限り眼が曇ってしまう自薦方式を避けての他薦方式である。他薦が唯一の枷で、あとは一人で何作でも推薦できるし、また同じ書き手の作品が複数推薦されても掲載する。
 批評は、作者が創作する行為の中で展開され、また、読者が読む行為の中でもう一度展開される。
 誉められるのでなく、認められるのでもなく、でもだれかひとりでもふたりでも、そういう創作と批評の二重の作業が一つになる瞬間を共有してくれれば。
 

十字花植物、その3

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 昨年秋に畑の地主に2本いただいたねずみ大根を土に埋め、冬の間保温しておいたものから芽が出て茎が伸びて、ついに花が咲きました。大根の花は白かと思っていましたが、ねずみ大根はしろに薄い紫の縁取りがあり、昨日はきれいでしたが、今日はやや縁が萎れて来ています。
 さて、これも種になるでしょうか。
 この2本のねずみ大根、形状が私が昨秋作ったものよりもねずみ大根の特徴がよく出ていて、それで花を咲かせてみようと思ったのでした。
 ちなみに、大根もまた見たとおり花弁が4枚十字に開く十字花植物なのでした。

2008年5月6日火曜日

自分のなかで反応するもの

 昨夜、Lydwineさんの小説を読み始めて、4頁進んだところで睡魔に引きずりこまれて気を失った。決して作品が面白くなくて眠ってしまったのではなく、睡眠不足と過労気味のせいであります。

 それにしても、私は本を読むときに書き込みなどしないのだけれど、今、先へ進もうとして開いて唖然とした。
 鉛筆ではあるけれど、あちこちに傍線が引かれ、判読不能すれすれの文字の書きこみさえあり、なんとも汚い。でも、それだけ自分のなかで反応するものがあったということで、Lydwineさん、読み終えて、感想を書き終えたら消しゴムできれいに消しますので、悪く思わないで下さい。



 備忘:
 午後、帰省中の長男、自転車で直進走行中に左差点左側から右折してきた自動車に当てられる。さいわい上腕部の打撲だけで怪我は無し。ただし自転車はギヤがひんまがり使えない状態に。あれ、確か10万円くらいの自転車だったような......。本人無事をよしとすべし。

十字花とのおつきあい

 いつの間にか、ワイルド・ルッコラに蕾が出来ていて、花が開いているじゃありませんか。あれ、ワイルド・ルッコラも十字花の仲間でアブラナ科なんですね。ワサビもアブラナ科で、十字花。去年はタデ科とお付き合いし、今年はアブラナ科?

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 そういえば、庭先ワサビの一株にも蕾が出来、花が咲いて、見れば種の莢のようなものが見えます。

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 菜種のように莢のなかに複数の種が出来るようです。
 移植されたばかりなので、満足に実が入るかどうか判りませんが、しばらく写真撮影と観察をつづけてみることにします。



2008年5月5日月曜日

面白かったらシャキーン

 編集作業から解放されたので、いよいよ読書に戻りたい。
 単行本のほかに最近送っていただいた同人誌が最優先。文字を追っていると気が遠くなるので困るんですが、面白かったらシャキーンと正気になるかもしれません。

 先に帰省していた長男につづいて、昨夜遅くに二男も帰省。今日になって「蕎麦を食べたい」という。しかし、今夜は友達と温泉へ出かけるとか。明日には帰京するというのに無理ではないかと思ったら、夕食を食べてから遅い新幹線で帰るという。しかし、明日は昼間や夕方のんきに蕎麦など打ってはいられない。
 ということで、先ほど蕎麦打ちを開始。二八蕎麦で、800g。こね鉢が小さくて5合用なのでちょっとやりにくい。一升用もあるが、これは塗りがかかっていない木のムクのこね鉢なので、木に水分を吸われてしまって固くなりがちなので、最近は使っていない。とにかくなんとか捏ね、打ち延し、切って完了。ほぼ40分。まだ遅い。それにまだ切る幅が広い。
 これをポリ袋3つに分けて入れ、ポリ密封機で封をして冷蔵庫に入れておき、明日の夕方茹でて食べてみる。
 これ、実は遠方に宅配便で送って食べていただけるかどうかの実験でもある。
 挽き立て、打ち立て、茹で立てを食べるのが理想ではあるけれど、こういう試行も必要です。実際にはoyamabokuchiをつなぎにしての十割をめざしていますが、ちょっとまだ蕎麦が固いので水分の調整が必要だがまだ把握できない。

 そういえば、oyamabokuchiが種の時に紫がかったものがあって、面白がって別に播種してみたのだったが、今になって葉先が尖っていて明らかにOyamabokuchiとは違うようなので、Googleの画像検索でハバヤマボクチを検索してみたら、やはり葉が剣先のように尖っている。葉も枯れてボロボロの晩秋種を採取したので、区別が付かず採種、混入したらしい。これは一応、選別して植えないでおこう。


 今朝、またひと通り植えたので、これで合計75本。もうひと通り植えそうな気配。そんなに植えてどうする?
 発芽したチコリの芽は大きくなりだしているが、ルート・パセリはまだ発芽の気配なし。そういえば普通のパセリも発芽までに結構時間がかかる。
 ポリポットにびっしり播いた「ぶんたん」の種が、覆土を持ち上げ始めた。発芽開始である。
��もうほとんど「種まきブログ」と化しておりますw、(-_-;))

2008年5月4日日曜日

気が遠くなる

 夜更かししておいて早起きというのが何日も続いているので、眠いというより気が遠くなる感じで本が読めない。今夜あたりは少し早寝しよう。
 といいながら、近藤直子さんのウェブサイトにいつの間にかアップロードされていた「長発の夢」を、横書きでは読みにくいのでダウンロードしてテキストファイルに変換、さらに一太郎のA4見開き2段組レイアウトに貼り付け、さらにPDFファイルに変換。

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 今朝も早朝に、昨日張った黒のポリマルチにoyamabokuchiの定植作業。株間60cmで植えていったら一通りに25本、二通りで50本植えられた。ということは、4列で100本!
 時間が少々あったので、ポリマルチをもう一列張った。

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 庭のwasabiも枝垂れモミジの葉が伸びてきたのでご機嫌で成長している。ただ、やや葉色がかなり薄緑になってきているのが気にかかる。畑に植えたものも、活着したものと枯死したものと、半々に分かれた。株分けして、根の量が極端に少なかったものは根付けなかったようだが、活着したものはまた子ができて増えるだろう。




 夕食後、Lydwine.さんのブログにお邪魔して5月1日の記事へのコメントを読んで、心臓が破裂するほどの強い衝撃を受けた。
 自分の青春の終わりを告げられたような気がした。やはり今は21世紀なのだと実感。
 ずいぶん遠くまで来てしまったような、文学もなにものかに呑みこまれてしまったような......。
 なにものかって?
 資本の論理? いや......。
 日本の文学は終わるのだろうか、終わることによって新しく始められるのだろうか? 限りなく前者のような気がして仕方ない。
 なぜか、「北斗の拳」の主人公の、あの決め台詞が甦ってきてしまう。
 「おまえはもう死んでいる」
 憤りと哀しみと、ほんのちょっぴりの頷き。

2008年5月3日土曜日

朝飯前と夕食後に

 今朝は6時前に例のoyamabokuchi専用畑に行き、黒のポリマルチを2通り張った。いわゆる朝飯前の仕事である。このところ、oyamabokuchiの苗がぐんぐん大きくなっているので焦っている。発芽生育が不揃いなので、大きくなったものから順に植えてゆけばいいのだが、今朝の2通りで何本植えられるだろう。
 石や砂が多く、宅地としてはともかく農地としては最低ランクであるが、家から近いのだけが取り得。案外排水も良くないので高畝にしたつもりだが、黒マルチを張って土で覆うとそんなに高畝になっていなくてがっかり。朝から気温が高めなので、一時間ほどで汗びっしょり。

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 面積はどれくらいあるのだろう。余ったらソバを播けばいいのでちっとも困りませんyo。




 モノクロ・レーザー・プリンタのトナー・カートリッジが配達されたので、夕食後、早速交換した。
 同人誌の出力見本があまりにきれいじゃないので、本文と表紙、すべてを印刷し直すことにして作業開始。ついでにあとがきも少し修正してしまったので、結局すでに焼いてあったCD-Rももう一度焼き直し。
 これで印刷発注書とデジタル出力依頼書を書いて包装、連休明けの7日に印刷会社に配達されるよう発送すれば作業終了。一応、5月20日発行を希望しておきました。
 やれやれ、印刷所を変更するのはタイヘンであります。


2008年5月2日金曜日

忙しい

 とにかく忙しい。

 林さんのお名前や著作名での検索で文学サイトへ新聞社のサーバーからアクセスが複数あったので、逆にたどってみたらこの記事にたどり着いた。脳梗塞だったのだ。

 28日に播種したチコリが早くも発芽を開始。早い。
 また、ちっとも発芽する気配のなかった文旦の種が発芽を始めた模様。秋までの命にしても、柑橘系のあの照りがあって厚く濃い緑の葉が展開するのを見るのは楽しいだろう。
 そういえば、去年10月14日の山葡萄の種を2月22日に播き、これだけ成長した。柔らかい、いい緑色をしている。

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 どうする? どこかの山へ返して、黙って植えて来よう。


「ジャン・メリエ遺言書 すべての神々と宗教は虚妄なることの証明」
 法政大学出版局、平18、定価30000円+税
 古書検索して最安値が20000円。10000円だったら買うけど......、それはムチャか。






時事ドットコム:作家の林俊さん死去=著書に「人虫記」「寺の音」
林 俊さん(はやし・しゅん=作家)4月25日午後0時17分、脳こうそくのため長野県飯田市馬場町2の584の1の自宅で死去、94歳。長野県飯田市出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男一平(いっぺい)さん。 著書に「人虫記」「寺の音」など。 ...