締め切りまであと三日。
なのに堂々と、
ラテンアメリカ短編集「遠い女」のなかのフリオ・コルタサルの短編を再読して驚愕していたりして、この、何という絶望的ふてぶてしさ。
私がひとつのことに集中できないのはほとんど病気で、さしづめ、ブヴァールとペキュシェ症候群とでも命名いたしましょうか。
だって、小学生の頃、明日夏休みが終わりというのに、まだたくさん残っている宿題があればなおさら、自転車のペダルを踏んで洞窟の探検やら、化石の採集やカブト虫採りに行きたくなりませんでした?
たとえ、それが宿題をしたくないという単純な回避行動であったにしてもです、胸がわくわくしたじゃありませんか。まじめに宿題だけしている人生なんて面白くもありません。誰にだって「スタンド・バイ・ミー」な時代があった。そうじゃありません?
��うーん、原稿を書けずに余計なことばかりしている今の状況にぴったりシンクロナイズしてます。これは、ただの言い訳に過ぎません、よ、ね)
コルタサルの「遠い女」、「乗り合いバス」、「偏頭痛」、「キルケ」、「天国の門」、五編みんないいです。
こういう感じの小説一つも書けずに、撤退出来ないよね。
ということは、ひとつでも書けたら撤退してもいい?
「天国の門」という題名から残雪の「天国の対話」を思い出しました。
「夕べ、夜来香の匂いがした......」というあの作品ですよ。
近藤直子さん訳の残雪の小説と、木村榮一さん訳のコルタサルの小説は、文体が作家と訳者が一体化しているという点では相当いいのではないかと、ひとり合点しているのです。
たとえば、M上春樹氏が翻訳したアメリカの作家の小説が、M上春樹によるM上春樹の文体での書き換えに過ぎないのに比べれば、このふたりの訳業がいかに作家と異化せずに一体化しているか、一目瞭然です。
夜来香の匂いか、沈丁花の匂いか?
イメージがひたすら拡散して、ますます書けなくなるではありませんか。
あれかこれか、一つを選べと言われるとほんとうに腹が立って来るんです。
あれもこれもどれも、捨てることが出来ないくらい大事なのです。
何ひとつ、捨てていいものはない。
温和なはずの私が(嘘々!!)、怒ってその場から居なくなってしまうのは、カラオケ歌えと言われるのと、どれか一つを選べと言われるのと、このふたつの状況だけなのです。
あ、コルタサルが亡くなったのは、あのJ・オゥエルの
1984年、しかも白血病だったのですか。