2011年1月29日土曜日

豊かな散文としての小説

 とうとう、あと三日で原稿締め切り。
 多くの言葉がdeleteキーかBackspaceキーにかき消されてしまい、一向に前へ進めない。これでは、短編というより掌編になってしまうのではないか。筒井康隆氏の、あの、ごくごく短いショートショートが思い出される。
 その先の言語芸術は短歌俳句しかないではありませんか。
 でも、そんな風に痩せてはいけなません。
 多くの言葉を費やしてこそ、豊かな散文としての小説は形作られる。
 小説は、言葉を倹約したり、制限してはいけない。多くの言葉で、微に入り細にわたって存在と現象を描き出さねばならない。

2011年1月25日火曜日

記事削除のお知らせ

 父の命日だが、平日なので母親を墓参りに連れてゆく。お墓のあるお寺まで十分ほどなので、花を買って墓参して、それでも一時間はかからない。
 砕石のうえに落ち葉がさっぱり見当たらず、だれか掃除したのだろうか。それとも風がどこかへ運んで行った?




 このブログはレンタル・ブログではなく、レンタル・サーバーを借りて自前で設置したブログなのですが、とても安価なレンタル・サーバーを借りているので、書き込んだ際や再構築する際に動きが重くなりすぎましたので、過去記事をばっさり削除しようと考えています。
 自分が書いたものですので、一応、削除する前に記事をエクスポートしてバックアップは取りますが、ブログ上では記事は消えます。多分、今月末に、とりあえずは2008年以前の記事を削除いたします。

2011年1月22日土曜日

希望の火

 ウォールナットオイル、到着。
 早速、麺棒に塗ってみる。かなり滑りが良くなりそう。
 自作した駒板の下面にも塗ってみた。
 また、蕎麦を打ってみたくなった。
 一度、ねずみ大根を使って越前の「おろし蕎麦」の真似してみたいし。日曜日に家人が出かけるらしいので、M君を呼んでいっしょに食べようかな。

 もう一冊、蕎麦がらみの本を検索した。新本もあるが12600円。古書で結構と思って探したが、本職の蕎麦打ち職人のバイブルのような本なので、古本屋に売り払うような不心得者はいないようで、一冊しかヒットせず。
 その一冊、値段は安いがかなり状態が悪い。悪いが活字が読めない訳でもなさそうなので思い切ってオーダー。




 書き出していた小説、ほぼ難破。
 私のような極めつけのネガティブは小説など書かない方がいいのかもしれない。
 誰もが希望の火を見たくて小説を読むのであって、絶望の火など目にしたくもないに決まっている。
 小説が希望という光を提示するものであると規定するならば、私などが小説を書く余地などまったく無いことになってしまう。








 そうか、ベッシー・スミスとジャニス・ジョプリンの「Careless Love Blues 」を聴き比べて初めて、苦手だったジャニス・ジョプリンやビリー・ホリディが解ったような気がする。



2011年1月19日水曜日

あった、あった!

 どこにも見つからず、いつか削除してしまったのだと思い込んでいたムンクの「αとΩ」のノルウェイ語原文に英訳が対訳の形で掲載されていたウェブページのファイルが見つかった。フォルダの中にフォルダがあり、さらにその中にフォルダがあってといった感じでファイルが奥深いところに潜んでいたので判らなかっただけなのだった。
 あって良かった。ネットでさんざん検索してもこの文章の原文と英訳がなかなか見つからなかった。宝物である。
 以前同人誌に掲載した時の印刷は満足できるものではなかったので、出来るだけきれいな印刷で自分用の冊子を1冊、手作りしようと思っている。

 創作、まったく進まず、蒼くなる。
 「小説書きかけ」というフォルダの中にあるはずの書き出し十行ほどのファイルも行方不明だったが、ようやく見つかった。またどこぞのフォルダに入れては危ないので、ファイル単独でデスクトップに置いておこう。
 というか、いくつかの書き出しを皆ダメにしてしまったので、これで押してゆくほかないのです。主人公の名前は「出海(いずみ)」。彼女のユリシーズな日々を淡々と書くべし。題名はまだ決まらないが、今回は出来るだけ短くしたい。

 ここ何年かソバを共同栽培したTさんが入院している。しばらく前に簡単な手術のために入院したのだが、麻酔が効きすぎたのか血圧が下がりすぎて(最高血圧が58!)、手術は中止になってしまい、明日、また手術なのだという。奥さんはアルツハイマー症候群で介護施設に入所してしまったし、ふたりのこどもは都会で暮らしているし、入院するのも自分ひとりで車を運転して入院するのだし、タイヘンである。
 そのTさん、ほかに腰と右足に痛みがあり、今年から水田の耕作を大幅に減らすことになった。借りて作っていた水田を地主に変換するので、天日干しのためのハゼ棒を入れてある小屋を片付けてほしいと頼まれていたので、今日決行した。午前だけでは終わらず、午後3時までかかった。
 今年はソバの共同栽培もできるかどうか。


 私の好きなEden Brent姉さんのThe Making of "Ain't Got No Troubles" という動画がyouTubeにアップされていた。新アルバム「Ain't Got No Troubles」を出したYellowDogRecords がアップロードしているので、宣伝用動画である。
 そうそう、私はこのYellowDogRecords のウェブから彼女の"Ain't Got No Troubles" をダウンロード販売で購入したのだった。日本でもCDを買えるようになったが、DL販売はとても安かった。
 と思ったら、Amazonに2500円の日本国内発売版のほかにインポート版が1637円、Amazonのダウンロード版が1500円、1曲150円ではありませんか。
 しかも、こんな紹介文が......。

ミシシッピ発、今、全米で最も注目される女性ブルース・ピアニスト&シンガー、エデン・ブレントのニューアルバムが日本リリース!2008年の前作『ミシシッピ・ナンバー・ワン』がブルース・ミュージック・アワードを受賞し、乗りに乗る彼女が、本作の全曲でギターを奏でるコリン・リンデンをプロデューサー(メイヴィス・ステイプル、カサンドラ・ウィルソンなど)に迎え、ご機嫌なローリング・ブギー・ピアノにのせて渋い歌声を聴かせる!他にも、ベースにミーターズのジョージ・ポーターJR、オルガンにジョン・クリアリーなど豪華メンバーが参加。ニューオーリンズで録音された雰囲気も満載の強力作。


 いよいよ、Eden Brent姉さん、ブレイクです。



��分23秒、楽しめます。



 乗りの悪いおじさんだからこそ、陽気で乗りのいいお姉さんのピアノと歌に魅かれるのでした。
 インターネットがあればこそミシシッピー・ローカルだったお姉さんを知ったのでしたが......。

2011年1月18日火曜日

それぞれ、タイヘン

 先日注文しておいたムンクの画文集が届いた。主に「生のフリーズ」が中心なので無いかと思ったが、αとΩの訳文、あった。
 あったが、絵は2枚目のmoonrize一枚だけで、文章は簡単な改行があるだけで3ページにぎっしり組まれていて、拍子抜けした。
 もともとのαとΩは、19枚の絵一枚一枚にそれぞれ文章が付けられて、まさにムンクの絵と言葉が一体化しているものなので、こういう風に文章だけ提示されてもダメ、かといってさる美術館のウェブのように絵だけ並べられていてもダメなのでR。

 今夜は珍しく同人のひとりから電話、もうひとりからメール。ひとりは7日に入院されて今日ようやく退院されたとのこと。
 みんな、それぞれ、タイヘン。 

2011年1月16日日曜日

電子ブック自炊

 昨日は蕎麦会だったが、場所がのん兵衛宅だったので蕎麦前のお酒の時間が長く、今夜はまた15日定例の赤提灯であまりの寒さに熱燗の酒、と珍しく二日連続で日本酒を結構飲んでしまいました。
 飲むと書けない。これが困ります。

 これまでに試作した電子ブックがフォントがきれいでなかったり、パソコンで読み込む場合のフォントの表示が小さすぎて読みにくいのが気にかかって、フォントやら元々のワープロ・ソフトのレイアウトやフォントの設定などをいろいろ変え、かつて同人誌に発表した「アルファとオメガ」の試訳を使って試行してみた。

��epub形式での日本語表示はフォントの表示が今このブログで見るのと同じフォントであり、印刷された本のフォントに比べるとあまりにお粗末すぎる。フォントなどどうでもテキストとして読むことが出来れば十分と言う考えであればいいのだろうが、だったらかつての青空文庫のようにテキストだけ置いておけば済むことである。日本語表記を電子ブックにするのに許容範囲のフォントの美しさが保てるのは、現時点ではという注意書き付きになるが、残念ながら画像形式しかないのではないか)

 その結果、ふたつの結論。
 1 小説は一段組みである程度、字数と行数を抑えて組んだ方が電子ブックとして読みやすい。
 2 小説のような文字物は、先ずはWordや一太郎などのワープロソフトから、先ずはPDFファイルに書き出し、それを更にAcrobatの書き出し機能を用いて1頁ごとにjpgなどの画像ファイルに変換する。その1頁ごとの画像ファイルを電子ブック作成ソフトで書き出しすると電子ブックが出来、それをどこぞのサーバーに置いて、アクセス、ダウンロードしてもらう。
 ただし、この手順で電子ブックを作成してもフォントが汚かったり、小さすぎて読めない場合がある。
 そこで、1のようにレイアウトを大きめに組むことが必要になるし、PDFから画像に書き出しする際の解像度の設定が欠かせない。解像度を大きくすればフォントがきれいに表示される。が、ファイルサイズは大きくなる。そこで適切な解像度とはどれくらいか考えてみると、やはり印刷で使われる解像度、350dpiとか400dpiくらいは確保しなければならないようだ。
 電子ブックを読もうというひとだったら、まさかダイヤルアップ接続であるひとはいないだろうし、win98なひともいないだろうと考え、ある程度ファイルサイズが大きくなるのはやむを得ない、そう考えないと前へ進めない。

 この1と2を踏まえて「アルファとオメガ」の電子ブック版を試作してみたら、まずまず、フォントもムンクの絵もきれいな電子ブックが出来た。著作権というか、画像の版権の問題があるので、公開は出来ず個人的に楽しむ電子ブックでしかありませんが。
 そういえば、自前で電子ブックのファイルを作る行為を「自炊」というのだそうだ。うーん、まさに自炊とはいい得て妙。


 もうひとつそういえば、PDFファイルも立派に電子書籍の範疇に入っているらしい。
 だったら、雑誌風な二段組をやめ、表紙をカラー化して単行本風な一段組みレイアウトにした方が読みやすいし体裁もずっときれいになるかもしれない。
 次からそうしてみよう。

 

2011年1月14日金曜日

一種の病気

 古書店にこの本がほぼ半値で出ているのを発見して、思わず反射的に購入ボタンを押してしまった。「αとΩ」が載っているかもしれない。
 新本があるのだから新本を買えばいいのに、貧乏性なのか、検索して買うのは一種の病気。

 そういえば、明日は蕎麦会。

2011年1月12日水曜日

眼低手低

 そういえば年末年始に休めなかった長男がこの三連休に来ていたのだったが、今日の午後、戻って行った。たとえ3℃でも5℃でも暖かい場所の方がいいだろう。アメダスで見ると今朝も-11.8℃。
 まさか、昨年夏の猛暑の裏返しで猛烈寒波が一ヶ月以上続くんじゃないでしょうね。

 データCDと出力見本の発送準備が完了したので、明日宅配便で印刷会社に向けて発送。
 
 さて、これで当面の課題は片付いたので、少し創作に集中しなければ。
 しかし、眼高手低ならまだしも、極めつけの眼低手低なので、今回も、パス?
 いや、眼低手低は眼低手低なり、下手は下手なりに、土壇場まで頑張らなくては。  

2011年1月11日火曜日

「百花繚乱 呵呵大笑」佐久間慶子

「繋」4号(吹田市)所載 デジタル文学館に転載

 娼婦の子らしい双子姉妹、「うみみ」と「そらら」が墨東の娼館「百花繚乱」の前に三、四歳で捨てられ、その経営者であるイチおじさんとトミママに拾われてからの十年間(それも1949年からの)を描いている。だからといってコテコテのリアリズム小説ではなく、とんでもなくスラプスティックで、到底ありえないことまで現前させてしまう創作力の実に強い小説だ。

 読みはじめてじきに目についたのは、四字熟語の頻出と、句点でバンバン改行してゆく文体だった。
 四字熟語の多用もどうやら意識的になされているらしく、句点での改行もこれだけ頻繁なのだから意識的である。その上、センテンスも長い。これは主人公のひとりである「うみみ」の語り言葉であることも関係している。
 たとえば57頁上段5行目、「手をつないで吹き抜けホールの......」から7行と一字が続き、句点で改行して字下げ、「あたしたちはそろって笑顔になって、」で、また句点改行し、「ありがとぉ」という会話が入ったかと思うと、「トミママに教え込まれた、笑顔は天下無双、双子なら倍増計画、」ここでまた句点改行、さらに「舌足らずにくり返す「チョコ、だぁいすき、ありがとぉ」
「トミママがおねえさんたちに、若いうちは甘ったれ口調も効果覿面と教えているのをまねするのだ。
 と、ここでようやく読点にお目にかかることができる。その間、何と16行。それでいて読みにくくないのは、句点でバンバン改行し、さらにふたつ三つ連続してまるで泥濘の庭に置かれた踏み石を思わせる四字熟語を、ポンポンポンと跳んで一気に駆け抜けさせるような文体だからだ。
 どうもしかし、句点改行の改行マークを削除して、会話のカギカッコも削除して、ベタで、読点があるところまで延々読み続けて行っても、案外すらすら読めるのではないか。
��などと考えていたら、昔読んだ野坂昭如のへらへら長いセンテンスの小説を思い出した。彼が現代の女性に生まれ変わったら、こんな小説をぐいぐい書いたかもしれないなどと、どこまでも好き勝手な妄想が走り出す)

��9頁下段、11行目。
 トミママは動じず、あたしとそららの手をとって、階段をあがる。
 そんな風に、酒池肉林の社交クラブ百花繚乱であたしとそららは、(句点改行)
 昼夜兼行の日日成長、体は自給自足で六、七歳になって、頭のなかは時期尚早の十一、二歳になった。


 最初の一行はうみみとそららが「三、四歳というところだね」の頃のことだが、次の二行で何と体が六、七歳、頭が十一、二歳になっている。たった数行の間にである。
 作者にとって、この作品では句点改行と四字熟語がすごい武器になっているのである。しかも、「体は自給自足で六、七歳になって、頭のなかは時期尚早の十一、二歳」なんて、娼館の女の子たちの成長を象徴的に表現していて、実に憎いくらい巧い。

ほかに、
��3頁2行目 「......、あたしとそららも強迫観念のラムネの日日がつづいた」
��4頁最終行 「......、ひつしかない椅子は主客転倒して」
 など、ただの言葉遊びや語呂合わせではなく、新しい意味やポエジーまで感じさせるするような四字熟語も見受けられる。

 それから娼婦ユリリの常連であるブライハ(無頼派)という作家から、坂口安吾の「街はふるさと」という未完の小説を思い出させられた。この作品の登場人物たちの優しさと「街はふるさと」の人物たちのやさしさが同じなのである。いわば底辺に生きるひとたちの無碍なやさしさ。これは「百花繚乱 呵呵大笑」を支える魅力である。
 また、小さい女芸人たちが百花繚乱でショーをする場面などは、映画「フリークス」を思い出させてくれるし、うみみとそららが新人娼婦たちを守るためにベッドの下に潜んでいて、性質の悪い客から娼婦を守るためにその尻に噛み付く場面など、体を張ったドタバタをそのままスラップスティックに描いて笑えもした。(ブコウスキーの「パルプ」なんかを思い出したりして)
 同様に、ヒモにビール瓶で殴られたチヨヨのためにヒモを退治に行ったみみ、そらら、トミママだったが、うっかりトミママの下になったままのヒモが翌朝に圧死していて、その死体を片付けるためにスミッコが知り合いのゴミ屋のじいさんに処理を頼むことになる。そのゴミ屋のじいさんは耳が聞こえなくて、字が読めないし、書けない。しかも死体で遊ぶというネクロフィリアでもあるから、ますますブコウスキー張りであるし、その死体の片付け方がまたすごい。

��9頁下段
 トミママがきっぱりいって、スミッコの全身通訳に、おじいさんはうなづくと、
 床に置いた背負いカゴをひっくり返し、大量のゴミを放り出してから、ヒモ男の硬直死体を引き寄せて、くるりと返して背中を上にすると、腰を片足にのせ、腕と足をつかんで、
ばっきん、と二つ折り、
「わっ!」「ええっ?」チヨミとミキミキがびっくりすると、
「背中とお尻がくっつく形じゃないとカゴに入らないんだよ」とスミッコが説明して、
 おじいさんは両腕を背中側にばきっ、ばきっ、
 膝もばきっ、ばきっ、と足先がお尻にくっつくように折り曲げて、......(以下省略・まだ8行続きます)。


 この場面も実に即物的でスラップスティックな描写というか、うみみの語り。
 そう、語りだから厳密には描写ではないのですが、こういう虚構世界を語る=騙るためにはこういう語りの文体はかなり強力です。

 やがて甘いものばかり食べ続けたトミママは部屋から出られないほど肥満してしまうが、このトミママの甘いものばかり食べるのはやはり欲求不満の解消ではなかったかと思われます。イチおじさんが百花繚乱から始まって大歓楽ビル群を経営するようになったことで、トミママは足りない何かを埋めるかのように甘いものを食べ続けたのでした。
 そしてトミママが死んだ。しかも死んだ娼婦の赤ん坊を自分の性器のなかに入れるように指示してから。娼婦たちがたくさん集まってトミママを崇め、唄う。その唄がまたいいのだが、それは実際に読んでいただいた方がいいので引用しません。
 快作であり、読むひとによっては怪作でもありうる小説だが、こういう小説を書けるひとはそうはいない。
 よくもこのような一筋縄ではいかない小説を書かれたものと、感心いたしました。


あと20日しかない

 ボランティア編集、本日終了。
 本文が8の倍数より2頁多い58頁だったので、2頁減らせと言ったら4頁も減らしたのでまた2頁半端になってしまった。もう構わずにこのまま。
 残るは出力見本とデータCDを作り、とっとと宅配便で発送するのみ。

 さて、もう今夜のうちに感想文を書き上げるのは無理かもしれないが、少し書いてみよう。

 あと20日しかない。
 ひとり、原稿が届いた(汗)。




 週末に蕎麦会をしたいという電話。多分5人。OKしておく。

2011年1月10日月曜日

ようやく頭がすっきり

 夕方からようやく頭がすっきりしてきたので、血圧計で計ったら下が100を切れて90になっていた。この分だと明日には70~80くらいに下がるだろう。

 Lydwine.さんからデジタル文学館の最新作の校正ミスをメールで知らせていただいた。ありがたい。私はO型で、と書くと他のO型の皆さんが気を悪くされるかもしれないので、血液型とは無関係にかなり杜撰な性格である。何をしても完璧ということはない。必ずどこか、何か、間違えている。雑誌発行でもミスがあって当たり前だった。
 今回、なんと14ヶ所もミスを発見していただいた。やはりひとりの目よりもふたりの目である。
 その作品「百花繚乱 呵呵大笑」の感想をLydwine.さんがすでに今日、ご自身のブログに書き込みされた、ので、こちらにも転載させていただいた。
 私も書きたいのだけれど、その前に書かなければならない感想をようやく書いたので、そちらをとりあえずはアップ。

「銀座線」16号、感想

「銀座線」16号(東京)

「一つと一人若しくは二人」岡田四月
 読後、時間を置いたが、この作品は妙に強く印象に残っていた。
 リアリズムの小説を規範としているひとには、実に「ありえない」小説である。
 私は、前に住んでいた地区のゴミ捨て場で手足首が切断された胴体を拾って(いや救い出して)来て、越して来たばかりのアパートの二階で胴体と同居、胴体を洗ったり拭いたりしている。それだけではない、勝手に「姉さん」と呼び、胴体に話しかけたりするのだが、首から上が無いはずの「姉さん」がたまたま不機嫌に返事をする。短いくても会話が成立する。この不機嫌な胴体との会話が実にいい雰囲気を出している。
 こうして、あり得ないことをいかにもありそうに書く、それこそがフィクション(虚構)の力であってこういう不思議な小説を成立させる。明らかに、リアリズムの小説とは別の読み方が必要である。
 結末で、気晴らしに外出した私が公園へ足を踏み入れた時、
 中央にいた四人の男の子が一斉に私を見、目が合うや、わあと跳ねて、走って、出ていってしまった。私は反射的に彼らを追った。ほとんど追い縋るように。なぜ、逃げるの。そう言いたい気持ちがあったのだろうか。息を切らしながら、思いを巡らした。そうだ、反応にもいろいろある。私が拒絶されたんだ。そんなに凄い形相をしてたのか。自分ではわからなくなってるのかもしれない。いっそ身の毛もよだつ何かになってしまえばいい。......以下つづく

 この結末の文章は、胴体が存在するという目に慣れない世界を描き出したこの短編をギュッと引き締めており、その違和感のようなものの重みを感じさせていて、とても良かった。

「朝の来ない夜」 石原惠子
 ひとつの家庭が描かれている。
 問題は父親である。大学病院の精神科に通い、睡眠導入剤だけでなく、安定剤や抗うつ剤まで処方してもらうようになっていた母が、とうとう入院せざるをえなくなったのも父のせいである。この父は経済観念がほとんどない。そして見栄っ張りで、今はほとんどアルコール中毒。こういうひとが夫であったり父親であったりすると妻や子は迷惑である。
 あったことをあったように書くリアリズムの小説で、あり得ないことはひとつも書いていない。

 (読みながら、従姉夫婦のことを連想していた。従姉も数年前から抑うつが強まってメンタル・クリニックに通っているのだが、その夫が実に妻の意見を聞かず、一方的に自分の考えだけを通したがるひとで、自分の通りにならないと怒る、怒鳴る。それが70代後半になって身体だけでなくメンタルな面にまで衝撃を与えるようになり、抑うつにとらわれて身動きが出来なくなった。たまたま会った時、従姉はこういった「私が具合が悪い、その半分以上があのひとのせいだよ」)

 案外、こういうタイプの困った夫、父親は多いのである。外に出ると他人には調子よく対応するくせに、身内とのコミュニケーション能力がまったく無い。こういう風通しの悪い父親を描いてゆけば、「朝の来ない夜」という題名はまさに必然に思える。こんな父親がいたら朝が来るという希望など持てない。捨てられたら捨てたい。まして書きたくもない。が、事はそう簡単ではない。
 kitaohiさんが「救いがないのが気にかかる」、あるいは「小説らしく人生の否定につながらないようにして欲しかった」と書かれている。私もそう思うが、なかなかそうは問屋が卸さなくて、「救いのない人生」や「人生の否定」と闘うべく、そのなかの不合理の客観化をめざして書かれるのが小説なのであって、だからこの作品はまさにひとつの家庭の裏側=夜を描いた作品として、書かれた通りに読み、受け止めるべきだと思う。

「半分神様」河井友大
 15号で記憶していた作者だが、今号は失礼ながら中身より先に題名にころっと参ってしまった。「半分神様」!! どんな神様?? とわくわくしながら読み始めた。
 前作同様、時間と空間はリアルな世界を形成していない。いつだかどこだか判らない場所だが、恋文の代筆を仕事としているアケミが持っている本(ほとんどいただき物)に『嵐が丘』、『源氏物語』、「アンナ・カレーニナ」などがあるのだから、少なくとも20世紀以降ではあると思うのだが、アケミの祖母、セイがかまどに火をつけて作る料理は「鶏肉の香草焼きとレンズ豆のスープとパンという献立。しかも住人のほとんどは字が書けない、読めない。
 うーん、時代や場所を特定しようとするのはやめておきましょう。勝手に、核戦争か何かでいったん人類のほとんどが滅亡した後の、復活しはじめた世界あたりを想起して、読み進めます。
 すると「オレンジ」という魚が登場する。正式名称は「オレンジトリケランス」というのだが、この魚を食べると老化現象が見られなくなる、つまり、食べていると寿命が延びる不老不死の魚であるらしい。
 ただし、そのようにオレンジを食べていれば老化せず、死なない世界から「あの山」に行ってしまうひとがいる。アケミの祖母も行ってしまった。「あの山」へ行ったひとはみな「いい人」で、「半分神様みたいなひと」なのだという。
 やがて「オレンジ」の漁獲量が減り、誰もが入手できる物ではなくなって来た。
 アケミにアケミ宛の恋文を依頼する若い男が現われた。彼は工面してアケミに「オレンジ」を届け続けた。それを知った隣人たちや周辺のひとびとがついにその「オレンジ」狙うようになった。
彼らに追われて、アケミと男は「あの山」に向かって走り出す。
 うーん、これでは感想と言うより要約に過ぎない。それだけ読者として単純に楽しんで読んでしまったんですね。
 寓話的といえば寓話的だが、かといって寓話的だけでは済まされない作品です。


2011年1月9日日曜日

もっと温暖な土地で

 昨夜は珍しく夕食後に頭痛。さてはと思い血圧計で計ってみると、案の定、下が107。私の場合、最低血圧が100を超えると頭痛がするので、何もせずに就寝。
 今夜は頭痛はないが計測すると下が115とか、とんでもない数字。
 ボランティア編集の表紙デザインをしただけで何もしないことにする。あとは寝て音楽でも聴いていよう。
 昨日より今日と、寒気がすごい。アメダスで見ると今朝は-12.2℃。体感温度は-15℃くらい。血管も縮む。
 O君は松原湖にワカサギ釣りに行っているらしい、ぶるぶる。
 もっと温暖な土地で暮らしたい。
 

2011年1月7日金曜日

いよいよ天然自然のものが入手しがたく

 夕食後、昨夜から作業していた推薦作をアップロード。
 内容的にも表現的にもタイヘン面白く、しかも一言では形容出来ない作品。私が好きな作品、作家をごった混ぜにしたような快作、ただし、見ようによっては怪作であるかもしれず、まじめなリアリズム作品しか読まないような読み手には物議の対象であるかもしれない。
 私などはところどころぷっと吹き出しながら読んだり、映像化不可能な場面に圧倒されたり、久しぶりに刺激的な読書で楽しかったのですが、さて反応はいかに。
 私も、しばらく時間を置いたら感想が書けるかな? いや、書きたい。
 今回はスキャナーでテキスト・データ化したので、一応点検はしたものの雑誌の校正同様ひとりでは限界があり、読み取りミスの見落としがまだあるかもしれません。
 「ブライハ」という登場人物名を、OCRソフトはすべて「プライハ」と読み取り変換していたので、ひとつひとつ訂正したのですがまだ見落としがある可能性大(発見した方はお教え下さい)。

 母親が芹を採りに行きたいというので、車に乗せて一時間半ほど山の方へドライブしてみたが、自生している場所が見つからず、その昔、台湾芹とかバンカ芹とか呼ばれていたクレソンを少し採取して帰宅。
 途中に、湧き出している清水を汲みやすいようにパイプで道路際まで引いて来てある場所があった。近所の老婦人たちが時々お茶用にポリタンクやペットボトルで汲みに来ているのだという。容器を持っていなかったので水は持ち帰らなかったが、今度ペットボトルを持参して汲んで来てみよう。無論、コーヒーとお茶用で沸騰させての飲用に限定。
 以前、蓼科山の麓の湧水地でやはり水汲みのひとたちが行列を為している場所があったが、保健所の「この水から大腸菌が検出されました。飲用にご使用の場合は沸騰させてお使い下さい」という高札が立ったら、その後は水を汲んでいるひとを見かけなくなった。相当深い地層から湧いている泉でない限り、沸騰させた方が安全です。山に鹿や猪も多くなったことだし。
 いずれにしても、いよいよ天然自然のものが入手しがたくなりました。

 そういえば、Hさんに辛い「バナナ南蛮」の種をお送りしなくていけないのだった。
 思い出したが吉日、また忘却してしまわないうちに封筒に入れて宛名書きしよう。





 ついでの悪口雑言=Twitterなるもののアカウントを取得したまま一度もつぶやかずにアカウントを返上した、偏屈でだらしないおじさんの言い草。

 職業作家は少しはTwitterしているが、文芸同人誌で書いているひとのTwitterはあまり見当たらない。むしろ詩人は、思潮社がTwitter連詩なる危ない企画をした所為かTwitter花盛り、というかTwitterしないと仲間はずれになってしまいそうだからTwitterしているみたいな。
 せわしなく落ち着きなく、一日に十回も二十回もツゥィートする暇があったら、一編でいいからきちんとした詩を書いたらいいのでは? と考えたりすること自体が老化現象か、やれやれ。

2011年1月6日木曜日

境界線が不確か

 昨夜というか今朝というか、また妙な時刻に目が覚め、起き上がってしまうと寒くて完全に目が覚めてしまうので、手が届く範囲に一冊あった文庫本を開いたら内田百閒集成3の『冥途』(ちくま文庫)だった。すでにほとんど読んであるはずだが布団のなかで開いたら「流渦」。文庫本でたった4頁だが怖い。怖いというか、残雪の小説のような現実でも非現実でもない、その中間にぶら下がっている世界に引き込まれている感じがした。次は「山高帽子」、こちらはもっと長いがこれも正気と狂気の境界線が不確かになっていて同様な落ち着きの無さに身を置かされてしまう。
 また、何とか原稿を書いてしまったら、百閒先生の小説のような小説でないような作品をもう少し読もうかな。

 昨年末に「デジタル文学館」に推薦をいただいた作品の掲載誌が、今日、郵送で届いたので夕食後、早速スキャニングし、OCRソフトにかけてテキストデータに変換し始めた。
 ほぼ半分ほど済んだので、インスタント・コーヒーで一息入れながら、今、この記事を書いている。(案外デリケートで夜に豆から淹れたコーヒーを飲むとカフェインが効きすぎてしまうのです)
 使い始めの頃のOCRソフトは読み取りミス、変換ミスが多く、いっそキーボードで新たに入力した方がましではないかと思うくらい精度が低かったが、最近のものは上手にスキャンすれば1頁に一ヶ所もミスが無いくらい読み取り精度が上がっている。とはいえ、ミスがないか、一字一句あたらなければならないのは同じだ。モニター左側のスキャンした画像と右側のOCRが画像から変換した一字一句を比較しながらミスを探し、同時に作品も読んでゆく。校正の場合は文章を読んではいけないと言われるが、横着をしてミスを探しながら読んでしまう。うーん、すごいな。随分面白い。キャラクターも面白い。それもデフォルメやらカリカチュアやら、作家としての安吾を思い出したりボリス・ヴィアンの作品を想起ししたり......あ、いけない、まだ最後まで読んでないのにこんなことを書いてしまって。

2011年1月5日水曜日

独言症の夜

 何もせずに飲み食いしているだけの生活を昨日で切り上げるつもりではいたが、今日、夕食後にうたた寝していたら、頭の上からドーンと夜のお仕事が降って来た。え、またですか。ついこの間終わったばかりだと思っていたら、またお金にもならないボランティア編集ですと。随分ハイペースじゃありませんか。今月は自分のことだけでも間にあいそうもなくて困りますけど。何、言い訳は聴こえないって? ふーん。それじゃとっととやっつけ仕事でやってしまうことにします。何? やっつけ仕事をするとミスしますだって、ヘン、校正はそちらできっちりお願いしますda。てなことで早速レイアウト作業開始。
 それにしても、作品がいいひとほどレイアウトもテキストファイルを流し込むだけでまったく手がかからないが、手がかかる人は徹底的に手がかかる。ルビを振ったり、特殊な書式設定をしてある場合はテキストファイルにしてしまうとルビの設定が消滅してしまい、サイド手作業でルビを振りなおすことになるし、かといってルビを生かすためにテキストファイルにせずにwordから直接貼り付けると、むやみにフォントにボールドをかけたりするばあいが、これまた手作業でボールドをはずして、ゴシック体などそれなりの太字に変えていかなくてはならない。
 それから半角と全角を区別せずに混在している原稿も扱いが厄介。どちらかに統一しないとみっともなくて仕方ありません。

 ということで、これでさっさとLANケーブルを抜いてネットから離脱、自分のフォルダを開かなければ。




 と言いながら、あれ~~、かなり昔の、聞き覚えのあるメロディ。1965年?



 こちらはThe Village Stompers 1963年



2011年1月4日火曜日

三日め

 今日は脅迫されて拉致されて、妻が実家に年賀に行くのに何年ぶりかで同道。体を動かさずに飲食を重ねるのは拷問に近い。そんな拷問生活も三日めでお終いで、やれやれ。
 帰路、車を停車させて写真撮影。ちょっとアップロードのファイルサイズが大きすぎるかもしれません。   画像をクリックすれば拡大表示されます。

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 積読状態であった「ロートレアモン全集」(石井洋二郎訳・ちくま文庫、2005年)をパラパラ見ているが、かつて読んだ渡辺広士訳(思潮社・1969年)と感じが全然違うので戸惑っている。石井訳は言葉がはっきりしていてわかりやすいのだが、その分散文的になってロートレアモンの情動が減衰して迫力が薄まっているような気がする。
 そう、気がするだけなので渡辺訳も探し出して確かめなければならないが、今は「そういう場合ではないでしょ」。それに今はこういうもの、はっきり言って書く邪魔。

2011年1月1日土曜日

新年

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ご挨拶

 2010年も残り数時間で終わります。
 この偏狭なブログを一度ならず訪問していただいた皆様、ほんとうにありがとうございました。
 良いお年をお迎え下さい。
 これから自前の年越し蕎麦を頂いて越年いたします。