2004年4月26日月曜日

一枚の鏡

たとえば ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とかチェーホフの『退屈な話』といった、むやみに暗くてネガティブな文学がとにもかくにも認められ、今日まで生き残って来たということは奇跡のような気がしないでもない。
 存在を否定しかねないような文学が、肯定され受け入れられる訳がないのだ。
 インターネットもまた、暗くネガティブな部分を抱えていていろいろと問題にされることが多いが、ぼくはしかし、いわゆるよそゆきの顔をした通常の世界よりも、ネット世界の方がネガティブな部分がより率直に表現されるという特性から注視せざるを得ないでいる。
 匿名性から暴走やトラブルも発生するがそれは半面で、もう半分の側では匿名性ゆえに語られる本音の存在感、世界観がストレートに表現されている。それがどんなにネガティブなものであれ、彼、または彼女が直面している現実がそこに見て取れる。
 文学とは、細密画さながらの微細なまでのディテールを具体化した人間学であるとぼくは常々考えているが、そういった意味でもネットは日常生活ではなかなか見ることの出来ない裸の人間の姿が見えて好きである。
 文学が人間を映す一枚の鏡であるとしたら、ネットもまた人間をリアルに映し出す一枚の大きな鏡である。
 だから、ぼくはネットに大きな可能性のようなものを感じている。