2006年12月31日日曜日

人間をかくあらしめる者へのサディズム

『悪徳の栄え』
『美徳の不幸』

 実生活のサドの性的嗜好がどの程度サデイスティックであったは余り知らないが、作品を読んでいる限りは、サドの描く加虐が単なる性的嗜好のせいだけにはどうも思えない。
 サドという作家のサディズムが何に向けられているか。
 『悪徳の栄え』は姉ジュスティ―ヌという放埓の限りをつくす女性を主人公に、『美徳の不幸』は敬虔な妹ジュリエットを主人公に書かれている。
 『悪徳の栄え』では姉は男たちに妹を凌辱することを唆しさえする。それが性的であるがゆえにサドは文学上だけでなく、「サディズム」という言葉の上にも名を残した。

 私にはそれが、「人間をかくあらしめる者=神」へのサディズムとしか読めない。
 (サドにはそういう性的嗜好もあり、多分、間違いなのだろうが。)

 それから、男たちにあらゆる凌辱をし尽くされたジュリエットが命を落とすのは落雷によってである。
 田中美知太郎さんはこの落雷を「デウス・エクス・マキーナ」であると書かれていたが、「デウス・エクス・マキーナ」は通常は機械仕掛けの神による安易な解決、安易なHappy Endと解釈されて非難されることが多い。
 この落雷による死は、果たしてジュリエットにとってDead Endなのか、Happy Endなのか? 
 あるいは物語の終り方として必然の終りなのか、安易な幕引きのための終りなのか?

 男たちによって散々いたぶられた挙句に落雷などで死ぬのは悲惨であり、最悪のDead Endである。
 他方、落雷によってこの世の苦難から解き放たれるという視点からだと、雷という名の電気の神によるジュリエットの不合理な死は、ほとんど神の恩寵に近いHappy Endになるのである。
 このように、ひとつの現象に複数の解釈が可能な時代であり、人の死やさまざまな出来事の終り自体がDeadでもHappyでもないような、神のいない平板な時代だから、こういうことを考えること自体が時代錯誤のような気もする。
 ひとりで、黙って考えていればいいことかもしれない。

 少し空いた時間を使って、散文ブログちりぶみへ行き、「エミリーとカレーライス」を読む。「エミリーに薔薇を」みたいなつもりで読み始めたらとんでもない。作者は相当に異能のひとである。理科系の脳で小説を書くとこうなるのかもしれません。

2006年12月30日土曜日

コテコテの日常的歳末

 本日の歳末特別作業、私の分担は餅つきと神棚掃除、カレンダーの交換。
 餅つきは臼、杵ではなく電動餅つき機でセットしておいて、蒸す、つく、二回スイッチを入れるだけなのだが、なぜかわが家では電動になってからずっと私が餅つき担当になってしまった。幾ら機械に弱いからって、こんな餅つき機なんかむずかしい機械ではありませんよ、プンプン。
 もう2升を一回ついてしまって、2回目をセット蒸しに入っています。蒸しあがるまで五十分くらいは暇ですのでこの記事を書いているんですが、こんな楽な餅つきはありません。
 神棚掃除も高い所だからというヘンな理由でいつのまにか私の担当に。一度担当すると死ぬまでその作業から解放されないことになります。
 夏に、採れすぎて困るトマトを使って煮込み料理を作った記事1記事2を書きましたが、あれもラタトゥィユということにされて私の担当になってしまいました。トマトが採れない時期だからと安心していたら缶詰のホールトマトなど買って来て「また美味しいラタトゥィユが食べたいわね」って、自分で作れ~、などと言わずに作ってしまいました、はあ (-_-;)。
 ただしくれぐれも言っておきますが、あれはトマト煮込みでありまして、ラタトゥィユなどという発音しにくい外国料理など、外食の嫌いな私は見たことも食べたこともないのであります。
 そういえば、残業で帰宅が遅くなるというので有り合わせの鶏肉を使ってチキンカレーを作ってみたことがあるのですが、あれ以来、「また、美味しいチキンカレーが食べたいわね」とか、遠まわしにプレッシャーをかけて来ますが、「また」という二字が曲者ですので、聴こえない振りをしています。
「耳が遠くなったわね」
「?……?(独白:モウコレイジョウカテイナイノシゴトハヒキウケマセン、ピーピーッ、ガーガーッ、アア、ワタシモウコワレソウデスガナaa)」

 カレンダーの交換も年末恒例の私の作業で家の中のカレンダーを全部取り替えて回ります。しかし、なぜ私が……という疑問が。

 あ、二回目の蒸しが終わってブザーが鳴っております。では失礼させていただいて、ここでいったん投稿。最後につきたての柔らかいお餅をひと口大にちぎり、それを大根おろしに鰹節、醤油をまぜて味を調えたところへ投入して和え、頂戴いたします。これが好物なのです_(._.)_

 

雪の山岳ドライブ

061229tatesina.jpg

 蓼科山直下の道路。正面上が蓼科山頂上。

 午前9:30分頃出発し、午後12:50頃帰宅。上りは楽だが下りのカーヴで神経を使い、やや疲れる。長男帰宅。
 郵便物、図書新聞2805号、評論誌「溯行」128号、俳句誌「里」45号、「全作家」65号、鳥影社から「季刊文科」36号、冊子小包で「集英社版世界文学全集23 ジロドウ・クノー」。
 やや遅い昼食の後、郵便局へ行き、「季刊文科」誌代と古書店への代金、どちらも郵便振替で支払い。滑り込みセーフ、今年のうちに支払いまで済んでしまい、よかった。
 なぜ図書新聞が送られて来たのか見本誌かなと思ったが、同人誌時評で同人の渡辺さんの『ツクヨミ』が取り上げられていた。そういえば同人誌時評があることを知って、初めて今号を送ってみたのでした。時評に取り上げたら発行所にちゃんとその号を送ってくれるなんていう細やかな配慮に感激。
 「季刊文科」36号は納富さんの「渦」が掲載されているので、先ずは今夜にも最優先で読む予定。
 クノーは「きびしい冬」のほかに「人生の日曜日」が収録されていてこちらの方がかなり長い。「きびしい冬」は読まずに目当たりでどんな感じの作品か偵察、あるいは解説だけ先読み、以後、いよいよオコナーの短編集2冊へ突入。ちょうどオコナーで年越しになる。

��ある方に、オンライン合評会とは別の場所に、39号の埋め草に使用した一ページ物「ほんとうの世界からの電波」と「受話器の彼方に」に感想を書き込んでいただいた。一頁小説などと謳ってはいるが要するに埋め草である。しかも、かつて枯れ木も山の賑わいとばかりに同人数水増しのため名前だけ参加していた詩の雑誌があり、そこに発表した散文詩もどきを、ジャンルが違うからまだ余り人目に触れていないのをいいことにして載録しただけで、ネット上にもアップしたままなのでちょっと掟破りで気が引ける。自分が発行人を務める雑誌だからいいようなものの、いわゆる二重投稿である (-_-;)。  )

2006年12月29日金曜日

赦しも癒しも無い文学

 フラナリー・オコナー、『秘儀と習俗』の「自作について」を読んでいてすっかり目が覚めてしまった。
 終りから3行目。
 それから、私の書くものが、恩寵も悪魔も信じない読者たちに読まれる、ということにも私は気づいた。
 あ、これは自分のことを言っている、と、ピンと来た。

 数日前に送られて来た同人誌をざっと目当たりで通読し、五作のうち三作にうんざりした。なぜかというとその三作が皆、どこか、自己を赦されたい、癒されたい、肯定したい、肯定されたいといった「自己えこひいきの視点」からのみ書かれているのが読み取れ、実に不愉快だからである。
 他の二作は自己を描いてもきちんと客観化されていて、そういう不快感は生じないし、むしろ実に気持ちが良い。なぜかというと自己を書くのも他者を書くのも同一の視点から書かれている、すなわち客観的に書かれているから。
 三作はその点、まるでダメなのである。三作とも私小説と判断して良い小説なのだが、よくもまあこれだけ自己肯定の上にあぐらをかけたものだと感心する。同人誌に発表される私小説が読むに耐えないのは、ひとえにこれが原因だ。
 私小説というものが、書き手が現実に体験したことを嘘偽り無く書いた真実の作品、などと思うのは間違いである。彼らは自分に都合の良い視点に立って書いているだけであって、自己の真実の姿など彼らにはまったく見えていないのである。

 とはいえ、文学とは人間を癒し赦し肯定してくれてこそ文学なのであって、赦しも癒しも無い文学なんて読まれないし売れないし肯定されないだろうなと思う。
 太宰治は、天才的に自己を責め、また同時に自己を赦す術に天才的に長けていた。
 どこで読んだか記憶していないのだが、三島由紀夫が、作家には「責める作家」と「赦す作家」がいるが、太宰はひとりでその両方が出来た作家であるような発言をしていた。自分で自分を責めて、自分で自分を赦してしまう、自作自演のマッチポンプ作家である。だからこそ彼は、バカにされながらもずっと読み継がれる作家なのである。
 ただし最後にはそういう自分をきちんと責めて死んだ。これは認めたい。
 ドストエフスキーでさえ、この現実世界のありようを徹底的に責めて責めて責めて、最後には赦しを提示した。この赦しは確かに神々しい恩寵である。

 と考えれば
 赦しも癒しも無い文学というのは埴谷さん言うところの「不可能の文学」の範疇か。

 恩寵も悪魔も信じない人間には
 赦しも癒しも無い文学がふさわしい
 と思うのだが……

遅い初雪

 用途に応じて3つ使っているRSSリーダーのうち、キーワード専用でしかもブログだけでなくYahooやgoogle、Amazon、Hatenaからも記事を拾える設定が出来るgulcose2がおかしい。
 キーワードにかかった記事を読み進めているうちに固まって応答なしになり、やがて強制終了させられてしまう。ほとんど毎回である。
 IE7のベータ版を一度インストールして、どうも重かったのでじきにアンインストールした、あの頃から調子が悪い。何か関連があるのか。長男に言わせると、いったんインストールするとダメなのだそうであるが、何がどうダメなのかは言わない。
 かつてのgulcoseはとても良かったのに。やはり無料版には限度があるのだろうか。

 昨日図書館から借りてきたレーモン・クノーの『文体練習』を読了。大いに笑わせられたり眼を瞠らせられたりしましたが、この翻訳はタイヘンだったろうなと訳者の苦労を想像してしまいました。
 百聞は一読に如かず。とにかく読むこと、体験することでしか理解出来ないでしょう。
 そのレーモン・クノーの、ボリス・ヴィアンご推奨の『きびしい冬』所収の「集英社世界文学全集・ジロドウ・クノー」を、昨夜、埼玉の古書店にメールでオーダーしたところ、今朝早くに返信があって、在庫あるので今日のうちに発送致しますと。早ければ明日、遅くても明後日には配達されるだろう。これはしかし900円と格安で見つけられてよかった。高いのは4,500円でした。
 『きびしい冬』は、『青い花』とか『イカロスの飛行』などパタフィジックで飛んでいる小説を書くクノーにしては珍しくシリアスな小説で、深くて重いニヒリズムを感じさせる作品のようです。
 そういえば、宮川明子さんの訳で『オディール』も2003年に月曜社から出ていますが、発行部数2000部ということですので、そろそろ腰を上げないと危ないかもしれません。
 
 また季刊文科36号を版元にメールでオーダー。これも今日中に発送してくれるという返信。
 正月は読む本がたくさんあってうれしい。
 今夜はまた『秘儀と習俗』に復帰。これを読まないと『オコナー短編集』に手が出せないのです。
 それにしても、酸性紙だからか、他の理由があるのか知りませんが、昔の文庫本は本文用紙が大分焼けたような色になって来ています。ね

 本日で仕事終了。
 明日の午後はまた、すずらん峠(1,750m)越え。遠く蓼科山を望めば下界のように雪が無いという訳にはいかないようですが、ま、谷底に転落しないように、ゆっくりとドライブいたしましょう。

 あれ、今ちょっと庭に出たら2cmくらい雪が積もっています。
 かなり遅い初雪ではあります。

2006年12月28日木曜日

低気圧一過、蒼空のルシフェル

 市立図書館が月、火と休館で、年内は27,28日しか開館日がない。仕方なく、アリバイ工作をしてから日中堂々、市立図書館の本館とA分館をはしごです。
 本館でフォークナー全集11『標識塔』、を借り、ついでに確認したいことがあるので『ロルカ全詩集Ⅰ・Ⅱ』(小海永二訳、青土社・昭和54年刊、どちらも4,800円)、それから行き当たりばったりレオン・ブロアの『絶望者』を借りる。『絶望者』については作者の名は耳にも目にもしているものの一作も読んだことがなく、どんな小説だろうと開いたら次のような書き出しだった。
 この手紙がきみの手元へ着く時分には、ぼくはもう父を殺してしまっているだろう。あの哀れな男は断末魔の苦しみにあえいでいる。夜明けまでもつまいということだ。
 このたった二行で借りる判断を下した。
 それからA分館へ行き、誰もいなくて閑散としていて、しかも自分で棚を探すのが面倒なのでカウンターに直行し、書名をレーモン・クノーの『文体練習』と告げてパソコンでどの棚にあるか検索して貰った。すると棚まで走って持ってきてくれた。返却は本館でもいいとのことで、それはまとめて返せるので助かります。しかし、こんなに返却日の1月18日までに読めるかどうか。物差しで計ったら5冊で高さ15㎝あります。
 あ、でもロルカ全詩集は目的が違う。
 今、ちょっと見てみよう。あ、ありました。の「詩の本」(これはガルシア・ロルカの第一詩集です)に「海」があります。
 ガルシア・ロルカの詩「海」について、これまではあちこちに何回も書き散らしていますので、私の日記やブログをずっと見ている方は「またか」とお思いでしょうが(そんなにたくさんはいないはず)、そういう方も、衝撃的新情報がありますのでスルーしないで下さい。
 私がロルカの「海」という詩を知ったのは、種村季弘さんが翻訳されたグスタフ・ルネ・ホッケ著『文学におけるマニエリスムⅠ・Ⅱ』(1971年、現代思潮社刊、Ⅰ・Ⅱとも1,000円)のに、付録として「ヨーロッパの綺想体 ミニアチュア-アンソロジー」というマニエリスムな詩のアンソロジーに収録されていたからでした。ガルシア・ロルカの詩にはここから入ったのです。
 では先ずは種村季弘訳(訳者が別にいる場合は表記してありますが、ないので種村さんご自身の訳と思われます)
  
海は
蒼空のルシフェル。
光たらんとして、
堕ちた天空



 たった四行ですが素晴らしい表現です。
 さらに今、『ロルカ全詩集』の「海」を開いてみましたが、驚きました。
 種村訳は冒頭だけの抄訳だったのです。知らなかった……ショックです(-_-;)
 全詩集をみると続きがあって、もう少し長い詩なのでした。全文引用します。



海は
青色の魔王(ルシフェール)。
光でありたいために
落ちた空。

 前には 大空の中で
やすらかな時を過ごしたことがありながら、
永久運動の刑を受けた
哀れな海よ!

 けれども愛は お前を
お前の苦さから救い出してくれた。
お前は純潔なヴィーナスを産み、
お前の 苦しみを持たぬ処女なる深さは
そのまま残った。

 お前の悲しみは美しい、
光栄ある痙攣を重ねる海よ。
けれども今ではお前は 星たちの代りに
緑色をおびた蛸どもを持っている

 お前の苦しみを耐え忍べ、
恐るべき悪魔(サタン)よ。
キリストはお前の上を歩いて渡った、
だが牧羊神(パン)も同じことをした。

 星のヴィーナス 金星は
世界の調和だ。
伝道の書は沈黙せよ!
金星は 魂の
奥底だ……

 ……そして みじめな人間は
落ちた天使だ。
大地は多分
失われた楽園なのだ。      (1919年4月)
               
     『ロルカ全詩集Ⅰ』のなかの「詩の本」小海永二訳より引用

 はあ(ため息)
 種村さん、これを抄訳でなくて最後まで訳してくれていたらね、と思わず天を仰いでしまいました。
 (因みにガルシア・ロルカはスペイン内乱のさなか、1936年8月18日にファシスト、ファランヘ党員に捉えられ、翌19日朝、自身の墓穴を掘らされた後で銃殺されました。38歳。)
 
 気を取り直してクノーの『文体練習』を開いて見ました。面白そうです。午後はデスクワークがあるので、少しはのぞけるかもしれない。
 『文体練習』といえば、「散文ブログちりぶみ」にアップされている「大塚晩霜氏の文体練習」がネット上の友人たちに好評ですので、右サイドバーのBookmarkにリンクを張りました。相当あちこちで笑えますので、よろしかったらどうぞ。


後書き:
 夕食後にレーモン・クノーの『文体練習を』ちょっとのぞいたら、おもしろくてもう99のうち30まで読んでしまいました。翻訳でも笑えますし、やはり99通りの書き方が出来るというのは大変なことです。普通はこれだけの数の視点に気がつきません。

Wha! やった。
レーモン・クノー「きびしい冬」の翻訳があることを発見!! S社の世界文学全集に収録されていたとは……。単行本でないから通常の古書検索では絶対にヒットしない。ううむ、もっと強力なキーワード・フィルターはないものか……。
 図書館の蔵書検索をしたらあるようだが、安かったら買おうと古書検索したらほとんどが4~5,000円。勉強している古書店は価格設定が高い(というか、絶版品切れは思い切り高くする)。
 (クノーも『地下鉄のザジ』以外は高い。『青い花』なんて20,000円だった。)
 ただししつこく検索しているうちに900円と1,000円が見つかったので900円の古書店へオーダー・メール。ただし年末年始休業に入るだろうから、年が明けて開店してから送っていただければ結構と書き添えておいた。いずれにしても、今ある本だけでも読みきれるかどうか判らないのだから。
  『きびしい冬』は言葉遊びの達人クノーおじさんにしてはまじめに暗い小説なのだそうですが、さて、ヴィアン推奨のほどはいかほどか、楽しみです。
 そういえばヴィアンとクノーはどちらもパタフィジク協会の重要メンバーでした。
 以前もアップしましたが、二人の写真、再度アップします。
パタフィジックの大太鼓腹勲章(胸に飾られた渦巻き型ペロペロ・キャンディみたいなの)を胸に嬉しそうに語り合う、左ボリス・ヴィアン、右レーモン・クノー。ヴィアンは渦巻き勲章を二個つけています。偉いんです。
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記録:本日、初コメントスパム、早速削除。どこからと思ってドメインから国を調べたらエストニアからだった。

2006年12月27日水曜日

宛名書き終了

 これで中断していた『秘儀と習俗』を再開できます。
 何ともスロー・ペースな読書で笑われてしまいそうです。
 来年からアドレスのあるひとにはメールで年賀状にしたいとも考えていますが、実行できるかどうか。

 『マルセル・エメ傑作短編集』(マルセル・エメ、露崎俊和訳・中公文庫、900円)は7イレブンに、古書『マルタン君物語』(マルセル・エーメ、江口清訳・ちくま文庫、490円、絶版)はメール便で熊本の古書店から今日届く。年末なので、早速、郵便局へ行き代金を振替で送る。
 ぱらぱらっと中身をみたが、しばらくは読めないので積読書の仲間入り。
 ピエール・マッコルランの『反吐の家』を読みたいので大学図書館へ行って原書をコピー、自分で読もうとしたが読めなかったという記事を発見。やはり『反吐の家』を知ったのは生田耕作訳の『屠殺屋入門』の訳者解説であった。日本に数人くらいは同じことを考えているひとがいるこということです。しかし、フランス語で読むのは専門教育を受けていないと無理でしょう。

2006年12月26日火曜日

死ぬまで偏愛朗読

 一日ごとに延ばしてきた年賀状の宛名書きを、ついに今夜決行した。もう限度である。
 ここ数年愛用のパイロット小筆という万年筆タイプの「硬筆」を使って、初めぎこちなく終わりごろになってすらすらと書く。
 だれだったかに年賀状作成ソフトを貰った時に一度だけプリンタに宛名書きをさせたことがあったが、一年でやめた。自分でもこんな宛名まで機械書きの年賀状など欲しくなかったから。自慢ではないが字はとても下手です。でも、字は読みやすければいいんです。いつもパソコンばかりだから宛名くらいは下手でも生な字で書いて、年に一度の「生きています証明」をしなくては。
 そういえば尼崎のT君は癌の手術をして四年目に突入か。懐かしいね、君と坂口安吾を肴に朝までかけて飲み干したブラックニッカ・ダブルサイズ。

arurukeitinohanasi.jpg

 検索してみても見つからないのでもう絶版のようだが、手元にある角川文庫の『ある流刑地の話』(F・カフカ、本野享一訳)は私には命の次に大切な本なのです。
 なぜかって、私がカフカを読んだ最初の本で、この本でカフカに惚れたからです。

 収録作品は
 「二つの会話」
 「観察」
 「判決」
 「村の医者」
 「ある流刑地の話」
 「断食芸人」
 「ある犬の探求」
 であるが、私が愛してやまないのは何と「観察」という本当に短い断片集なのです。
 18の断片がありますが、18全部が好きです。
 一字一句、すべてが悲しいくらい好きです。
 声を出して朗読するくらい好きです。
 朗読できるということは文章として完璧ということです。
 そのなかの「国道のこどもたち」の終りの部分。
南のほうにある都会を、わたしは目指していくのだが、その都会のことをわたしたちの村では、こんなふうに話している。
「あすこにはいいかい、ねむらない人間たちがいる!」
「なぜ、ねむらないのだ?」
「疲労しないからだ」
「なぜ、疲労しないのだ?」
「ばかだからだ」
「ばかは、なぜ、疲労しないのだ?」
「ばかが、疲労してたまるもんか!」
 不眠症の方にはちょっと読ませたくないエピソードだが、私はなぜかここがたまらなく好きなのです。
 カフカも新訳になって本野訳のこの文庫本はもう過去のものかもしれませんが、少なくとも「観察」に関しては私はこの本野訳だけを偏愛し、老いぼれた九官鳥みたいに繰り返し朗読してやまないのであります。多分、死ぬまで。

 因みにこの「観察」、観察という題名の横に……M・Bに……という献辞が記されています。Mでミレナを想起しましたが彼女はミレナ・ィエンセンカですから違います。M・B、何だ、マックス・ブロートじゃないですか。かつて「ミレナへの手紙」を買いましたが、苦くて渋くてついに最後まで読めませんでした。 

 ちょっとパセティック過ぎて恥かしいですが、パセティック過ぎるのは私、パセティック過ぎないのも私。 どちらも私ですので、論旨の矛盾につきましてはご容赦を。

2006年12月25日月曜日

極度の貧乏性と天邪鬼

 RSSリーダーのキーワードに「フラナリー・オコナー」を登録しているが、そこで収集された記事を順に閲覧していると、作家、桐野夏生がフラナリー・オコナー短編集にかなり影響を受けているというような記事に遭遇した。桐野夏生といえば、なぜか『I’m sorry,mama.』という単行本を一冊だけ読んだことがある。(それ以前は、桐野夏生は銀色夏生と同様に男性作家だとばかり思っていたくらいだから、まったくの無知である。)
  『I’m sorry,mama.』の読後感は、先ず重くて暗い情念を感じた。このような人間の、本人も何なのかつかめないような精神の暗部を描こうとしているのに感嘆した。どちらかと言えばエンターテインメントの作家である桐野がなぜ?と。その後話題になった『グロテスク』を買おうとしてそのまま忘却した。文章がやや practicalなのが原因であったのかもしれない。
 それが、桐野がオコナー短編集を少なくとも読んでいることを知って、彼女が東電OL殺人事件を題材に書いた自作に『グロテスク』という題名をつけたことに、ああそうだったのかと一瞬にして納得した。
 彼女の本だったらBオフとか古○市場にありそうなので、明日にでも寄ってみよう。

 今夜はクリスマス・イヴのようだが、こどもたちが家から離れた今はほぼ知らん顔できるようになった。こどもたちが幼い頃はプレゼントなど用意し苦心して枕元に置いたものだが、いつしか二男が「サンタクロースが来た時はいつでもお父さんがいない」と妙な因縁をつけるので、以後は堂々と手渡しするようにした。今はああいうインチキをしないで済むので気持ちがとても楽。
 実はジングルベルやクリスマス・ソングが街で流されているのを聞くのが嫌いなのです。あれを聞いているとなぜか、まともにクリスマスもできないこどもたちがいるであろうことを想起してしまい、彼らのことを考えると居ても立ってもいられない気持ちになる。だからクリスマス・ソングには耳を塞ぐ。ただし、なぜかジョン・レノンのクリスマス・ソングだけはそういういたたまれなさを感じさせないので耳は塞がない。どうもヒューマニズムとかそういうことではなく、ただの貧乏性あるいは天邪鬼なのだと思います。
 昔、軽井沢に住む知人を訪ねて別荘地を散策している時に、「ぼくはこういう場所には住みたくない」と言って知人の顰蹙を買ったことがあります。気分を害され、何とも厭な性格をしているやつと思われたでしょう。別荘など見ていると、すぐに別荘どころかまともな家にも住めない難民のこととか考えてしまうんです。持てるひとを見ると反射的に持てないひとのことを考えてしまう。実に短絡的でもあります。
 でもこういうことは黙っていた方がいいですね。ひとの気分を悪くしますから。来年は書きません(誓)。

 今夜はクラシックも何ですから、ももさんに頂戴したボリス・ヴィアンの音楽CD、『ぼくはスノッブ』をパソコンに入れて、聴きながらこの記事を書きました。クリスマス・ソングよりヴィアンのむくつけきシャンソンの方が、楽しいです。

 そういえば、もうひとつヴィアンがらみ。
 昨夜、民放のどこかの局の映像で、途中でぱっと見たので外国だがどこかも判らない土地に「赤い草」が生えているのが映されていた。
 うあ~、赤い草って本当にあるんだ。
 でもヴィアンの『赤い草』は別にこの草のことではないだろう。

 ボリス・ヴィアンの戯曲『屠殺屋入門』(生田耕作訳・サバト館、2,100円)ついに検索にヒット。
 久々の登場です。
 しかし、2,100円が18,000円ではな~(大号泣)。
 それにしてもこの戯曲、今ではこの題名のままでは出版できないでしょう。永久に再刊はありません。 ならば18,000円も高くないか。
 前に見たのは8,000円だった。
 待てば待つほど高くなる?
 「ジャン・メリエ遺言書」(31,500円)といい、貧乏人は本も読めない時代になりつつあります。

2006年12月24日日曜日

視点の推移

 昨夜、まだちょっと眠れない感じだったので就寝前のわずかな時間に、ピエール・マッコルランの「冗談に」と「仕返し」の二編と、ガストン・ド・パヴロウスキーの「怪物」と「黒色光線」の二編を読んだ。『フランス・ユーモア文学傑作選 笑いの錬金術』(白水Uブックス)に収録されている。
 二編ずつ読んだだけでは、ボリス・ヴィアンが惚れこんだ感じがよくは分りませんが、でもまあどのような魅力か少しは見当がつきました。

 『秘儀と習俗』は「作家と表現」と「作家と地域」を読み終え、次の「小説の本質と目的」へ。
 読み進めているうちに、河野多恵子さんが文學界に連載して本になった『小説の秘密をめぐる十二章』 とか、Rさんに教えられたレオン・サーメリアンの『小説の技法―視点・物語・文体』を読んだときのことを思い出した。レオン・サーメリアンについては多くを知らないが、少なくともこの本を読んだ限りではギリシア悲劇以降の創作の技法をよく把握していて、読むのが楽しかった。
 物書きのなかには技術とか技法を語ると露骨に嫌がるひとが必ずいるが、天然で傑作が書けるほどの天才でない限り、どうやって書くかを考えないわけにはいかない。
 そういう点からも、実作者である河野多恵子さんやフラナリー・オコナーの言葉がよく伝わってくるのである。

 今日はオコナーのこういう言葉が目にとまった。
 十八世紀の小説と、今日ふつうの小説との大きな相違は、作者が作品から消えていることである。たとえば、フィールディングは、自作の至るところにいて、この点あの点と読者の注意を方向づけ、この個所あの個所に特別に注意せよと命令し、読者が要点をとりそこねることのないよう出来事の一々の意味を明らかにしている。ヴィクトリア朝の小説家も同じことをした。いつでも作中に入りこんで、人物たちの説明をし心理を解明してみせるのである。しかし、だいたいへンリ・ジェイムズのころになって、作家の語る方法が変わってきはじめた。物語が、人物たちの心と目を通して現われるように計りだしたのである。作者は無関心の顔つきで、舞台の裏に坐ることになった。ジェイムズ・ジョイスまでくると、作者はもう本のどこにも見つからない。
 読者は、愉快とはいいかねる人物たちの胸の中に自分の足で入り、まごつきながら進まねはならぬ。案内らしきもののつかぬ世界のまん中に、放りだされるわけだ。
 なるほどと思いながら、古いはずのフィールディングのやり方が逆にメタフィクションで使われたりして、シェイクスピアの魔女なら「ふるいは新しい、新しいは古い」とか言いそうな。
 むしろ、物語が、人物たちの心と目を通して現われる方法が窮屈に感じられ、かつての神の視点でどの人物をも俯瞰して書く方法とか、フィールディングみたいに作者がのこのこ出て来て、「ああん、そこはそんなふうに読むんじゃなくて、こう読まないと」とか口出ししながら書く方法とか、かえって斬新に思えてくるから不思議です。
 ひとりの登場人物=主人公または語り手たりうる周辺の人物に視点が固定されてしまうことの窮屈さ。それを考えるとジョイスの『ユリシーズ』が人物=視点を変えて何を書こうとしたのか、少しは理解できそうな気がします。


 RSSリーダーのキーワード登録にヒットした記事を順繰りに見ているうちに、たまたま納富さんの「薔薇のように」の感想を書かれているブログを発見。ご本人はもう読まれているかもしれませんが、念のためお知らせしました。
 ここです。


2006年12月23日土曜日

グロテスクなものと美しいもの

 今日は結局図書館へは行かれず。そうは簡単に油は売れないということ。
 まあネットで調べて「標識塔」がフォークナーにしてはとびっきり変な小説であることは判ったし、「文体練習」も丁寧に読みたいし、むしろ正月になってから借りてもいいのだけど。
 年内に近くまで行く用事があるので、その時忘れないように。

 『秘儀と習俗』、読み初めというのにもう立ち止まってしまった。
 フラナリー・オコナーが幼い頃から好きで飼育までした孔雀について書いた「鳥の王」、その次の「作家と祖国」にも、続く「作家と表現」にもグロテスクという言葉が出て来た。
 「作家と表現」ではご丁寧に……グロテスクなものの諸相……というサブタイトルまで付けられている。
 フラナリー・オコナーのいうグロテスクが何を指しているのか? この本の紹介者である納富さんの助言もあって、作品より先にこの創作論集ともいえる『秘儀と習俗』を読み始めたので余計に解らないのだが、その文脈から少しは思い当たることがあるので、しばし足を止めて考えてしまうのです。
 以前、そのものずばりの『グロテスクなもの』(ウォルフガング・カイザー著、法政大学出版局・叢書ウニベルシタス)という本を読んだことがあって、そちらに連想が行ってしまうのだが、なぜかアメリカ南部の作家がグロテスクを好んで書くような言い振りには得心はできる。
 フォークナーの登場人物を見たって、ジョー・クリスマスだのポパイだの、「あの夕陽」のナンシーの亭主だの、すごい人物がごろごろ登場する。
 私だって、「サンクチュアリ」など途中で放り出したくらいで、その時は、なぜフォークナーはこんなに人間の理解しがたい暗部ばかり書こうとするのだろうと思った。
 暗いもの、醜いもの、歪んだもの、パンドラの箱にぎゅうぎゅうづめにされているものを故意に人間界へ放ったかのような精神のフリークスが遠慮会釈もなく跋扈する。
 そのように美しくないものを、なぜ、南部の作家はあえて読者の目の前に提示したがるのか? 
 カトリックはともかく、ピューリタンはそう考えるだろう。


存在と現象とは美的現象としてのみ是認される。
 これはそのどこに書いてあったのかも忘れてしまったが、確か、ニーチェの『悲劇の誕生』のどこかにあったような記憶が……。
 これがいったい命題(テーゼ)なのか、反命題(アンチ・テーゼ)なのかも判断できないまま、この一文を私はずっと抱えてきた。
 この文章に従えば、グロテスクなものは是認されない。

 しかし私は思う。
 グロテスクなものも、美しいものも、どちらも人間の属性なのだから、作家は人間をあるがまま以上にグロテスクに、また同時にあるがまま以上に美しく書いてもいいのだ。
 そのためにこそ、小説は虚構という枠組みを用意され、その中でのみ生き生きとイメージを再現できる想像力というものを与えられているのだ。

 まったく歪んでいない真円な真珠などない。同様に人間も皆、誰もがどこか少し歪んだバロック真珠だ。
 そういう認識無しに美しいものを見ても、ちっとも美しくはないだろうし、グロテスクな世界の中で、救われないこと自体が救いであることさえあるのだ。 

Whahhahaa、相当に誇大妄想。恥かしいので明日は削除するかもしれません。
 フラナリー・オコナー全短編・上下(筑摩書房)、山尾悠子作品集成は県立図書館にあるのをネットによる蔵書検索で確認。
 市立図書館に依頼すれば県立図書館から、20日間5冊以内を借り出せる模様。
 県立図書館は、代金は自己負担だが宅配便で直接送るサービスもしているようだ。

2006年12月21日木曜日

年末年始読書三昧準備万端整わず

 ごく最近知ったばかりの小説の書き手のウェブ・サイトに閉鎖の予告があって、泡を食って中編2つと短編6つをファイル保存。もうちょっとのところで読まないうちに閉鎖されてしまうところでした。やれやれ、危なかった。いいものがキラキラ光りそうな書き手をもうちょっとのところで見失うところでした。
 こういうことが以前にもあったので、ネットの場合はこれはと思う書き手の作品のファイル保存は欠かせない作業です。
 中篇はHTMLのまま、短編はテキスト・ファイルで保存。ネット上で発見した読める小説はだいたいファイル保存して、それをWordの同人誌用テンプレートに流し込み、A4横見開き縦書き二段組に印刷してから読みます。
 HTML横書きでは小説を読んでいる気がしない、どちらかといえば旧世代のどん尻です。とはいえ、手書きでなければ小説じゃないなどと旧弊なことを言うほどの旧世代でもなく、中途半端な世代ですね、ふう。

 ネットで検索注文(また九州熊本。九州は古書価格が適正でうれしい)
「マルタン君物語」 ちくま文庫 マルセル・エーメ 江口清訳、筑摩書房、1冊、平2年 500円
また、7&Y自作自演書店「マルセル・エメ短編傑作集」中公文庫を陳列し、オーダー。
 不意に成長を始めるサーカス団のこびと、独軍占領下のパリの夜を行く闇屋、裏社会に身を投じる青年、場末の街路をさまよう浮浪者、上流階級の偽善、農婦が語る飼い犬たちの思い出…ユーモアとリアリズムとファンタジーによって“良識”を反転させる異貌の語り部エメの奇妙な魅力に満ちた世界を味わうための七つの短編。(マルセル・エメ短編傑作集)


 マルセル・エメについては今年11月29日の記事ですでに書いているが、ボリス・ヴィアンの戯曲『屠殺屋入門』の解説の終りのあたりで、訳者、生田耕作氏が文学的想像力の領域でヴィアンに影響を与えた作家たちとして名前を挙げている、そのなかにあった。
アルフレッド・ジャリ『フォーストロール博士言行録』
レーモン・クノー『きびしい冬』
ピエール・マッコルラン『反吐の家』、『海賊の唄』、『冒険家の手引き』
フランツ・カフカ「流刑地にて」
マルセル・エーメ
セリーヌ
ド・パヴロウスキィ
ハリー・ディクソン
ウェルズ

 そこでハリー・ディクソンも検索。作家だと思っていたらそうではなく、ベルギー人の幻想小説家ジャン・レイが創造した「アメリカのシャーロック・ホームズ」=名探偵ハリー・ディクソンのことでした。
  そういえば、先の生田耕作氏の開設の末尾の文章も、おおいに気になります。
ヴィアン自身語るところによれば『日々の泡』は最初マッコルランの人物と生活態度を小説化するのが創作の直接的動機であったという。また『北京の秋』をはじめとする、ヴィアンの諸小説とマッコルランの『反吐の家』の類縁関係は注目に値する。
 ジャリの『フォーストロール博士言行録』とマッコルランの『恋する潜水艦』はすでに読みましたが、どなたか仏文の方『反吐の家』を翻訳してくれませんか?! レーモン・クノーの『きびしい冬』もです。
 自棄になって、さらにフラナリー・オコナーの『烈しく攻むる者はこれを奪う』(佐伯彰一訳・新潮社、1971年)を検索。
 10,000円、13,000円の2冊ヒット。おお、さすがに高いです。
 そこで奥の手を使って検索したら、おおおおお、あった、735円のを一冊発見、と思ったら、2006年11月26日 21:59:21 のキャッシュに残っていたデータで、あわてて現在のページにアクセスしたらもう誰かに買われてしまってありませんでした、悔しい。
 ウァーン・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )ナクナ  って、ここまで来るとほとんど中途半端なネット古書店主みたいです。

 さて気を落とさずに『秘儀と習俗』の続きを読みます。
 早くこれを読了して小説の方を読みたいです。
 明日は仕事で出たついでに市立図書館本館へ寄って「フォークナー全集11」を借り、A分館に回ってレーモン・クノー「文体練習」を借り出す予定。市立図書館の蔵書検索で旧A村の分館にあるのを突き止めたが、レーモン・クノーの「文体練習」がなぜあんな田舎図書館に? 隣に旧村営の日帰り温泉があるので、来月返却に行くときにはタオルを持っていこう。

 これだけあったら年末年始、大丈夫だろう。テレビはうるさいだけなので本を読むしかないのです。準備怠りなく。

昔の雑文が目にとまった。
 二十代の頃に、友人と思ってつきあっていた人物からある日いきなり「ぼくはきみを見損なっていた」と非難されて困惑したことがある。
 彼がそんな言葉を口にした原因は今でも分からない。
 ただ見損なわれるようなことをしたらしい自分が悪いのだろうと思った。
 そして彼とは二度と会うことはなかった。
 「見損なった」というのは要するに相手を責める言葉である。
 見損なったという行為の主体は彼である。見損なわれた私は受動的体勢にあり、見損なうという行為の客体でしかない。
 私が彼の思うような人間でなかったことは事実だが、それは初めから彼が見込み違いをしていただけのことで、自然体でつきあっていただけの私の責任ではないはずであるが。
 見損なった彼が間違っていたのか、見損なわれた私が悪かったのか、今でも分からないままです。
 どっちにしても見損なうという言葉を前にすると私は固まってしまい、思考停止判断停止状態になってしまうのです。

空高く晴れ上がると

 午後から軽い頭痛。
 晴れて気圧が高いと頭痛になるのか?
 空の海の底に暮らす重圧(軽いジョーク)。

 夜、『秘儀と習俗』の先ずは、Ⅰの「鳥の王」を読んでスタート。
 そういえば、かつて長男を動物園に連れて行った時、以後彼が孔雀を嫌いになった、その理由を思い出して苦笑い。たまたま我ら家族が孔雀の檻の前に行った時、孔雀があの鮮やかな模様の羽を広げてくれたのだったが、その際にバタバタと羽を数回前後させたので周囲に埃や砂などが舞い上がり、長男の目に入ったらしい。以来、彼は孔雀を嫌うようになった。あの美しい模様をじっくり見る余裕もなかったようだ。
 Ⅱのエッセイの二番目に「作家と表現――グロテスクなものの諸相」があり、ひとつ飛ばして読みたい気がするが、今回はオーダー順に礼儀良く読もうと思っていますので、順に。

 「作家と祖国」27ページ3行目
 しかし、一つの国でもってあらゆる国々の用を足すというのが、小説家が負う特異な任務なのである。
 そう、さらに敷衍すれば「一人の人間でもってあらゆる人々の用を足すというのが、小説家が負う特異な任務なのでもある」
 いわゆる通底器としての小説。通底器の底の管がゴミで詰まっていたりしたら、読者との共感も交感も生まれない。
 さらに彼は、自分の力量で真実さを持たせうる生活の具体的な細部をとおして、この一つの国を浮かびあがらせなければならないのだが、これも作家に固有の努めだろう。
 小説というのは、現実世界に負けないだけのディテールをまとった人間学なのだと思うけど、その細部がなかなかの難問。
 考えようによってはその細部こそ、虚構であるがゆえに作者の裁量で埋められる自由領域なのかも知れず、嬉々として細部の描写に励むべき?
 こんなことを考えると余計に頭が痛くなりますので、今夜はこれで電源OFF。   

 それにしてもオンラインの合評会は難しいもの。
 やれやれ。
 

2006年12月20日水曜日

『天窓のあるガレージ』

偏愛図書室,1
『天窓のあるガレージ』日野啓三 福武文庫 1987年7月15日第一刷発行、550円)

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裏表紙のコピー
天窓からの光が、いま体じゅうに降り注いでいる。「聖霊」がぼくの中に入りこんでくる――。
コンクリートガレージの宇宙船に乗りこんだ少年が、異界の光と交感する幻想的な都市小説の表題作のほか、無人世界の不思議な力と感応して現代文学に新たな地平を切り拓いた6編を収録。

目次

地下都市 5
昼と夜の境に立つ樹 29
ワルキューレの光 65
渦巻 91
��9歳のよろい戸 123
天窓のあるガレージ 149
夕焼けの黒い鳥 183
 著者は芥川賞を私小説的、自伝的小説で受けはしたが、本来はそのような作風からは遠いこのような作品を本領とする。
個人的には「天窓のあるガレージ」と「29歳のよろい戸」が好きで、前者は読んだ回数数え切れず。このような小説を書いてみたいとこの形式を意識的に模倣したこともあります。

偏愛図書室の設置

 本日、天草四郎が立て籠もった城跡近くの古書店からフラナリー・オコナー『秘儀と習俗――アメリカの荒野より』(1982/11/30 第一刷、2,300円)がメール便で到着。他の二ヶ所はかなり高額な価格設定で、これは久しぶりの掘り出し物。初版なので安く、後の復刊が高いのか、判断できません。
 また新潮文庫『オコナー短編集』と、『善人はなかなかいない―フラナリー・オコナー作品集』(平成10年、筑摩書房)もようやく発見(発掘?)。見当をつけていたダンボールではなく、意外な場所に未読本ばかり固まって埋もれていた。(そろそろ、本を平積みにするのをやめなくてはいけない)
 年末年始はじっくりとオコナーばかり読むようになるかもしれないが、するとどうもまたフォークナーに顔が向くような予感がしないでもない。

 カテゴリーの二番目に「マニエリスム資料室」というのがあったが、記事がふたつだけでさっぱり増えていないので、カテゴリ・タイトルを「偏愛図書室」に変更しました。
 実は、別にそういう名のブログを開設してみましたが、レンタル・ブログのいろいろな制約が窮屈だったり、複数のブログを書いて運営することの困難を考えてそれは断念。このブログのひとつのカテゴリをそれに割り当てることにしました。
 多分、書く記事がなくて困った時などに自分の好きな作家、好きな本、好きな作品を陳列してゆくことになると思います。

2006年12月19日火曜日

相変わらず

 今日はまた仕事で浅間の麓まで。↓ クリックすると倍に拡大表示されます。

061218asama.jpg
冬の浅間は胸を張れよと父のごと   加藤楸邨
冬の浅間はしっかりせよと父のごと  F先生(中学時代の恩師)のかつての年賀状……mmmひそかに泣けるw

 同人誌の、同人専用「オンライン合評会」の方に、自分の作品への感想批評を早く載せてほしいと同人誌掲示板「オンライン例会室」に書き込みされた(自称早漏気味の)同人約一名あり。むむ?
 なので、今、再読し、二考三考したあげくにその短編の最大の弱点を発見し、テキスト・エディターで猛スピードで書き、ファイル保存、コピー&ペーストをし「オンライン合評会」にアップしてきました。
 なにか、年とともにゆっくり、ルーズになってきたので、こういう方の気持ちが理解できなくなってきました。
 年末年始は読書三昧にしたいので、明日から一作ずつ感想をアップ、片付けてしまいましょう。(同人はこのブログまで来る人はいないはず……一名いるかな?)

 仕事に出たついでに、メールで入荷連絡のあったイタロ・カルヴィーノ「冬の夜ひとりの旅人が」を7イレブンで受領。(今日も倉庫には寄れず。明日はいけるか?)
 ぱらぱらっとのぞいてみると、なるほど面白い構成。
 しかも書き出しがこう。

第一章

 あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている。さ、くつろいで。
 って、章立ての所は二人称ですか。メタフィクションだというので読者に向かって話しかけてくるのは仕方ないかもしれませんが、でも参りましたね。
 Lydwineさんが、先日書店で復刊されたビュトールの『時間割』を買おうとしてレジ前の行列にうんざりして購入を断念したとブログに書かれていましたが、同じ日か一日くらい前後してか、私もやはり書店でビュトールの『心変わり』をにらみつけておりました。
 この有名な小説も確かあなたという二人称で、しかも結構な厚みなので、ずっと二人称なのはうっとうしくてたまらないなあと、買わずに書店を出ました。

 訂正 二人称は『時間割』ではなく、『心変わり』でした。

 先ずは右脳と左脳で読み分けつつ進んでいかなければならないらしい『冬の夜ひとりの旅人が』にいたしましょう。
 (そういえば昔、雑誌の二段組の上段と下段で同時別進行の変な小説を書いたことがありました。
 お箸と鉛筆のような細かい作業は右手で、ボールを投げたりひとをぶん殴ったりする力技は左利きという、利き腕アンドロギュノスですので、そういう変態読書法は少し得意かもしれないです。)

2006年12月18日月曜日

これこそが言葉の力

 本日は、右サイドバーのBookmarkにブログをひとつ、ウェブサイトをひとつ、相変わらず承諾も得ずに勝手にリンクさせていただいた。(インターネットは自由なリンクによって形成されているという屁理屈によって)
 ブログ名、サイト名は書きませんが、それぞれ一番上に表示されています。サイトの方はG・マルケス一色のサイトで、今まで気づかなかったのが不思議なくらい。更新は昨年8月で停止しているが、掲示板を見ると今月の書き込みがあるから大丈夫、生きています。
 ブログの方は(ブログ名がまた何とも迫力がありますが……)RSSリーダーのキーワード登録の「フラナリー・オコナー」でヒットした記事で、オコナーの絶筆であるらしい「パーカーの背中」について5回にわたって書かれていて、それにいたく感心し、また他にも勉強になる過去記事がたくさんありましたので全部読みたいと思い、先ずは自分のためにリンクを張りました。ただし昨日からしばらく更新はお休みのようですので、留守中に好きに読ませていただきます。
 
 昨日の記事のオコナーから残雪へと話題が広がり、『廊下に植えた林檎の木』についてお話が出来るなんて夢にも思いませんでしたが、表題作の、「廊下に植えた林檎の木」はもちろんのこと、「汚水の上の石鹸の泡」という短編の書き出しの脅威の一行を思い出してしまいました。
 母が溶けて、たらい一杯分の石鹸水になってしまった。
 何ともありえない一行ではある。いわゆるマジック・リアリズムだ。
 と思ったら、上記ブログの方がマジックリアリズムについても「文学的手法としての<マジック・リアリズム>」という記事を書かれていて、次のように実に簡潔にまとめられている。
マジック・リアリズムとは、あり得ないことを、普通のリアリズムの文脈のなかで当たり前のように書くことだ。


 なるほど。母が溶けて、たらい一杯分の石鹸水になってしまったのはまぎれもなくマジック・リアリズムである、と納得した。
 「廊下に植えた林檎の木」の人物たちも通常のリアリズムではとうていありえない人物たちだが、この作品内ではありえているのである。
 これこそが言葉の力! 

2006年12月17日日曜日

オコナーはどこなー?

 って、駄洒落を言っている場合ではないのです。

 話は前後しますが、「胡壷:KOKO」5号の納富さんの「私のきままな愛着本紹介」を読んで大いに読書欲をそそられ、紹介されていた『石の葬式』を取り寄せて読み、感想をこのブログに書いた。それで一件落着のはずなのだが、納富さんの文章にフラナリー・オコナーのことが書かれているのを今日になって不意に思い出し、再読した。

 フラナリー・オコナー? あ。 
 一気に、記憶がフラッシュ・バックしました。
 以前、ブログが登場する前にHTMLだか日記CGIで日記を書いていた頃、フォークナーの幾つかを読んで感想を書き込んでいたら、アメリカのフロリダに留学している女性からメールをいただいて、それから何回かメールの往復があった。アメリカでも学生はあまりフォークナーを読んでいないとか、そういう内容のメールで、そこに確か、もっときちんと読まれるべき作家としてフラナリー・オコナーの名前が上げられていたのです。フラナリー・オコナーなんて、初めて聞いた時には男性作家だと思っていたくらい、何も知りませんでした(恥ずかし)。
 それで、オコナーの本を検索し、新潮文庫に「フォークナー短編集」と同じデザインの「オコナー短編集」があるのを知り、ほかにも検索にかかった「善人はなかなかいない―フラナリー・オコナー作品集」と、2冊をまとめてオーダーしたのでした。
 しかし、それが未だに未読で、本がどこにあるのかさえ判らない。子供が成長するにつれて居場所も本の置き場所も狭められていって、平積みになったりダンボール箱に詰め込まれたりして、記憶にあっても容易に見つけられない本が多くなってしまったのです。
 (だからといって本がそんなに多いのではないのです。整理の仕方が下手なだけです)
 ただし買った本を読まずに仕舞ってしまうなどということは普通はありえません。
 折悪しく、病を得た父親が腰椎に転移した癌細胞によってある日突然に歩行できなくなり、老いた母親にそれをさせるのは酷なので、それから亡くなるまでの丸一年間、夜は父親のベッドの横で眠りました。その一年間はあまり本格的な読書は出来ませんでした。
 葬儀となると、兄弟、親戚などが家の中の物をいったん片付けてくれるのはいいのですが、どこにしまわれたか後で見つからないものが結構あるものです。オコナーの三冊も未読のまま行方不明になってしまい、オコナーの本を買ったという記憶さえもが、悪くなりつつある脳の喪失の底に沈んでしまったのでした。

 それが納富さんの文章で蘇ったのですが、……かなり老化がひどいということでショック……。(でも、親の葬式をすると健忘症というか、部分的に一種の記憶喪失になりますし、あの一年間の記憶自体がかなり飛んでいます)
 ひょっとすると、仕事用の倉庫の隅に置いてあるダンボール箱のひとつに入っているのかもしれません。フォークリフトで高い所に揚げてあるのですが、まさかあそこのダンボールに? ウァーン・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )ナクナ
 でも、探し出しても半端な気持ちでは読み始めない方がよさそうです。読むなら本気でないと弾き飛ばされそうです。 

因みに以下は、検索で探し出した「オコナー短編集」の表紙と、偏愛する「フォークナー短編集」の表紙です。同じシリーズなので装丁がそっくりです。

o%E2%80%99conner.jpg  fauknershortstorys.jpg

それから、もどこかにあるはず。
「オコナー短編集」と「善人はなかなかいない―フラナリー・オコナー作品集」は品切れ.。

o%27connerzennin.jpg  

 でも実を言うと、その後(2003年に)、筑摩書房から『フラナリー・オコナー全短編』(上・下、各3,780円)が出ているんですね。
 自分で陳列、自分でオーダーということが相当多い、自作自演書店である洞窟書房の「手も足も出ない本」コーナーに陳列してみました。(爆)
 3,780円×2=7,560円。「ジャン・メリエ遺言書」や「カイエ」に比べたらずうっと安いですが、2冊の短編集を読んでもっと読みたいと思ったらの話でしょう。

 ついでにRSSリーダーのキーワードに「フラナリー・オコナー」を登録したら、すかさず25件の記事がヒット。
 キーワード、作家の名前のオンパレードでだいぶ混雑して来た。やはり、登録ブログの更新確認をFirefox、キーワード登録による更新確認をRSSリーダーにと分業させてよかった。
 

2006年12月16日土曜日

良い年だった?

 本来ならば15日は赤提灯、しかも12月なので忘年会のはずが家族も忘年会で、歩いては行けない新幹線駅裏口という中途半端な距離。ということで運転手を強要されて、泣く泣く、自宅に蟄居。
 そういえばまだ年賀状が手付かずだったと気づき、気を取り直してネットでフリー素材探し。
 年々面倒になり意気込みもなくなってきます。
 一応使えそうな素材があったので今夜はこれまでとし、買ったままだった岩波文庫のビューヒナーを開いてみる。今年は河出のお高いのも買ってしまったが、その前に戦前の白水社版もネットでみつけて安く購入したものを読んでしまったので、岩波、河出はまだ読んでないのだ。
 実は白水社版の旧仮名遣いが気に入ってしまったので、しばらく他のは読みたくなかったのです。
入手困難だったビューヒナーが三種類も手に入ったのだから、ことしは良い年だったと思っておきましょう。

  「冬の夜ひとりの旅人が」は18日AM10:00には指定の7&Yに到着予定。
 やはり普通に書店には頼めない。

2006年12月15日金曜日

いつのまにか

 一日分、先付けになっていたのでここで修正。

 仕事で外へ出たついでに、錆び落としの「不織布研磨剤 マジックロン 」とシルバーのペンキのスプレー缶をふたつ購入。
 同じショッピングセンター内の書店、B協堂へも寄る。イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』(ちくま文庫、1050円)があったら、いわゆるメタフィクションなので中身を少し立ち読みしてから購入の判断をしたかったのだが、今月出たばかりの『くもの巣の小道 パルチザンあるいは落伍者たちをめぐる寓話 』(ちくま文庫、819円)しかなかった。
 (古書検索では800円のがあったが、送料などを加算すると新本で送料無料の7&Yの方が得。となれば、7&Yの自作自演書店に並べるのが手っ取り早い)
 因みに7&Yの内容紹介は以下の通りです。
次々に斬新な方法を創り出すイタリアの作家の、型破りな作品。すぐに中断してしまう、まったく別個の物語の断片の間で右往左往する「男性読者」とそれにまつわる「女性読者」を軸に展開される。読者は、作品を読み進みながら、創作の困難を作者と共に味わっている気持ちになる、不思議な小説。
 と、思わず身につまされてしまいます。

 ふと同じちくま文庫の石井洋二郎訳の『ロートレアモン全集』が目に止まり、手にとって開いてみて、驚いた。読みやすい、解りやすい。
 かつて読んだあれはいったい何だったのだろう。ただただ奔馬性昂進のような熱い情念の高揚しか記憶に残っていないのだが、石井訳はまるで散文のように読みやすく、解りやすいのだ。その代わりその分だけ温度が低いのは否めない。どちらが良いかは判らない。
 購入はせずに店を出たが、いずれ時間が得られたらこの訳を読み直したい。
 もう一軒、地元書店のO坂屋にも寄ってみたが結果は同じ。後者があって前者は無し。マルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出』、『 百年の孤独 』、『コレラの時代の愛 』が並んでいた。こんな田舎書店に、『コレラの……』は4冊もあった。あるいは5冊配本で誰か一冊購入した、とか(ほ、欲しい)。
 すねをかじられて骨だけになっている身ですから、こう連続して出されても困るのですよw、ウァーン・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )ナクナ  (お、久しぶり)。

 安藤昌益の検索をしてネット上に東京大学「電子版・自然真営道」があるのを知る。確かに、古い刊本が一頁ずつ画像で読めるが、原文が漢文でありますのでまったく歯が立ちません。安藤昌益研究会もありますが、本を検索してみると岩波文庫で昭和40年代に『統道真伝』(上下)が出ている。他には農文協から出た高価な全集だけ。倉敷の古書店に47年の版で上下揃い800円とあるのをオーダー。
 われながら何でいまさら安藤昌益かと呆れるが、どうも『石の葬式』に登場した情熱の人・ネクタリオ君の影響かも知れず……(^_^;)

 今日から、goo RSSリーダーがver.3になった。
 気のせいではなく以前より動作が軽くなった。このくらいだったら許容範囲内。
 気を良くして、またキーワードを数個追加。イタロ・カルヴィーノ、山尾悠子、安藤昌益、屠殺屋入門。

2006年12月14日木曜日

あり得ないことをもあったように書く

 パノス・カルネジス『石の葬式』(白水社)をようやく読了。
 普通だったら一晩か二晩で読み終えてしまうだろうところをゆっくりと3編くらいずつ。
 読んでは考え、感想を書くのにはちょうどよいペースかもしれないが。
 
 「応用航空学」
 「古典の勉強」でインコにホメロスという名をつけて古典を暗誦させることに情熱をそそいだネクタリオ(君)が再度登場。彼はほかにも、実は耳が聞こえないシャム猫に空中ブランコを覚えさせようとしたり、まったく競争心のないエンゼルフィッシュに世界初の熱帯魚レースをさせようと訓練を開始したり、奇妙なことに情熱をそそぐ性癖の持ち主ですが、この作品でもまたもや非現実的な試みに熱中します。
 私自身も今年「陸わさび」を10株植えてみて全滅の憂き目に遭ったり、赤いルバーブの種探しに血眼になったり、ネクタリオ君が他人のようには思えなくて、わがことのように痛い結末と、それを吹き飛ばす最後のひとことに思わず痛笑い(造語です)いたしました。

 「四旬節の最初の日」
 「老嬢ステラの昼下がりの夢」の後日譚でいろいろ書くとやはりネタバレになってしまいます。
 ここまで読み進めて来て、この小さな村の住人、それぞれが好きになってきました。無論、ひとりひとりはそれぞれどこかが歪んでいるバロック真珠のようであって、ささやかな不道徳や小さな悪意も持ち合わせていて油断が出来ません。でもなぜか憎めない。
 この作品のなかの看守長もそうです。アリストを撃てという命令を最後まで下せません。

 「アトランティスの伝説」
 いよいよ最後の作品です。読む前から題名によって何か自然災害か天変地異が起こって村に破局が訪れるのだろうと、漠然とした感触を抱いていました。冒頭の作品で村が地震に見舞われたので、なおさらそういうイメージが強くなりました。
 しかし、そうではありませんでした。
 この結末は、ここに書いてしまったら首を絞められそうな、超特大のネタバレですので書きません。
 このありえない結末を読み終えてただひとこと、 
小説というものはあったことをあったように書くものではなく、むしろ、あり得ないことをもあったように書くものなのだ。そのことによってのみ、小説は現実や日常から離陸して、単なる現実の記録ではない真の創造となる。

 わ、偉そうに、相当の誇大妄想気味ですが、ネタバレを避けると自然にこうなってしまうのです。
 この小説集を「胡壷:KOKO」5号で教えて下さった納富さん、亀のようなゆっくりペースのこの読書感想におつき合いくださった方、そして感想が被らないように読むのを待っていただいていたLydwineさん、どうもありがとうございました。しばし有意義な時間を過ごさせていただきました。

 納富さん、これで今夜はぐっすり眠れそうですが、しかし、眠っている間に自分が「アトランティスの伝説」の村の中で眠っている夢を見たりして……(^_^.) ね。
 この村の住人、何だかずっと私の記憶のなかに残って、生きていそうですよ。





ブロードバンドでない方、CPUの小さい方、うまく再生されないかもしれません、済みません。
IEでないブラウザはいきなり鳴り出すかもしれません、済みません、停止ボタンを押してください。

「鎮魂歌」by H.Mさん ©PIANO1001

2006年12月13日水曜日

アトラクションのモンタージュと無限カノン

 「収穫の神の罪」
 この短編をネタバレしないように書くのは、とてもむずかしい。最初から謝っておきます。
 短編だがⅠ、Ⅱ、Ⅲに分かれており、しかも途中か最後まで読んでから、時制がバッハの無限(無窮)カノンのように繋がっていて、実際には時制はⅡ、Ⅲ、Ⅰの順であり、終りがまた最初に繋がるという面白い構造をしていることが判る。
 しかもⅠでは、いきなり腹を刺された男が登場する。これはまるで映画、あのエイゼンシュタインの「アトラクションのモンタージュ」だ。いきなり腹を刺された男が広場に現れ、何だ何だと読者を有無を言わせず作品世界に引き込んでしまう、なかなか巧妙なAttractionのモンタージュだ。だからこそ時制をひっくり返す必要もあったのだろうが。
 幕のような雨のなかを、白いスーツを着て襟のボタンホールに赤いカーネ-ションを挿した男が、腹を刺されて村の広場に現れ助けを求める。だが、村人は誰ひとり男を助けようとしない。男は助けを求めながら、ふらつき、転び、這って教会の扉までたどり着くが、そこも鍵がかけられている。男は泥と血のなかに倒れこんだ。
 Ⅱは村のカフェが舞台で、ひどい旱魃で村全体が苦しんでいることが判る。村長も旱魃のため経済的苦境に陥っており、その解消のために本人の了解無しに娘を肉屋と婚約させようとしていることも判る。またこの村が戸数27戸しかなく、村として成立せずに町に吸収され、村長も不要になることも判る。
 Ⅱはアリストテレスいうところのアナグノリシス=認知のための章だといえる。
 (だとするとアリストテレスいうところのペリペテイア(筋の急転)はどこか? Ⅲで雨が降って、村長が肉屋に娘との婚約を反古にする場面である。)
 そしてⅢでは村の収穫祭での村長の演説がある。村長は演説の直後に娘と肉屋の婚約を発表することになっていた。
 演説を終えたか終えないかのうちに、雨が降り出した。これで旱魃から救われると知った村長は肉屋に娘との婚約破棄を伝える。肉屋は白いスーツで襟のボタンホールにカーネーションを挿し、村中から嫌われていたせいかカービン銃さえ携えていたのだが、そのカービン銃で村長を撃ち、姿を消す。
 そして、祭のテーブルに置かれたイノシシの丸焼の脇腹に切り分けるために刺さっていたナイフを、「海辺のクジラ」の主人公であり、カフェの経営者であるクジラが引き抜いた。
 そしてクジラはあかりで照らされた静かな広場をあとにする。

 この最後の場面がバッハの無限カノンのようにⅠに戻る仕組みになっている。しかもⅢからⅠへ戻る間におそらくクジラが肉屋を殺害したであろう実行行為は済んでいて、われわれは実際の殺害場面は知ることが出来ない。刺された肉屋が苦しみ、のたうち、助けを求める場面は展開されるが、刺す場面は巧妙に省略されている。だから本当は誰が犯人か判らない。読者が想像するしかないのである。
 
 次の「いけにえ」はそういう技巧にこらず、ほぼ直球勝負で、古代ギリシアからの生贄の儀式を思わせるような、わが家で飼っていた牛を殺さざるを得なかった親子の状況を描いていてなかなかいい短編になっているが、ギリシア悲劇を少しでもかじった者にはこの父親にディオニュソスという名前を付けるのは勘弁して欲しいなという気がいたします。
 「「冬の猟師」。雪で村に迷い込んできた猟師たちの、村から出る前の、村人を集めての雪の中の行為がひたすら怖い。そう、怖い短編、です。

 この短編連作集は、フォークナーやジョイスなどの仕事の仕方と同じで、ひとつの村を舞台にしていますが、語る視点を十九も設定してポリフォニーでもってひとつの村=世界を表現しようとしています。
 「わたし」なり「彼(または彼女)」、あるいは名前を付けて「何のなにがし」とか、そういうひとつの固定した視点で世界を語ることには限界と胡散臭さがありますが、こういう無数の視点から全体を浮かび上がらせようという方法に、私も強い関心をいだいています。
 (こういうことは、全作読み終えてから書いた方がいいのですが)

wha、12日のGoogleのタイトルロゴの背景、ムンクの「叫び」だった。しかもカーソルを持って行くと、Edvard Munch Birthdayという文字が。
 今年二月発行の「ジャン・メリエ遺言書」(法政大学出版局刊、31,500円)が、何と古書検索で3冊もヒット。それでもまだ高くて、22,000円、24,000円、25,000円、(-_-;)、い、一万円以下になるのはいつでしょう。ならないでもっと上がる可能性の方が高いです。

2006年12月12日火曜日

存在を証明しようとすればするほど不在を証明するだけ?

 昨夜も三編。

 「医者の倫理」
 終りから三行目の「どくろのシール」、それと題名の「医者の倫理」が効いています。医者の倫理がどくろのシールが貼られたガラス瓶の中身を処方することにある、と? (ネタバレ、すれすれ)

 「永遠の生命」
 書き出しの二行がいい。 
そしてある日、塵旋風が発生した。風は盲目の馬のように何時間も谷間を駆けまわり、ようやく土ぼこりが落ち着くと、そこには女の姿があった。
 そしてまた写真屋であった女が車で走り去るのを見送った後の、最後の何行かがいい。
 なぜか、J・ジョイスの『ダブリン市民』のなかの「エブリン」のラストを思い出した。人間が得ようとして決して得られないものの、大きさ、切なさ。

 「古典の勉強」
 自分も奇妙な情熱に浮かされてしばしつまらないことに現をぬかすことがあるので、主人公ネクタリオのいくつもの奇妙な情熱と、その度に聞かされる獣医のもっともな所見のあいだの大きな齟齬にはネクタリオ以上の落胆を覚えました。自分がこれまで書いてきた小説のようなものも、多分、このホメロスと名づけられたインコの童謡に如かず、などと自虐的な思いまで浮上。

 しかし、結果として不在を証明することにはなっても、やはり存在を証明しようと躍起になるのが人間なのだろう。
 

昨夜も短いの三編

 昨夜は先ず「老嬢ステラの昼下がりの夢」。
 なぜかフォークナーの「エミリーに薔薇を」(『フォークナー短編集』新潮文庫)と、マルケスの「悦楽のマリア」(『十二の遍歴の物語』新潮社)を思い出させられた。
 昔から言われているように、女性を書くのはむずかしい。しかし、老嬢を書くのはもっとむずかしいだろうに、この三人は見事に老いた女性を書いた。

 続いて、「消えたカッサンドラ」。カッサンドラという名前がギリシャ悲劇を思い出させたりノサックの「カサンドラ」という小説を思い出させたりで、どうもイメージがつかめないうちに結末へ。ただし、最後の一行
だが、かの有名で偉大なる神々しいカッサンドラは、消えている
 が謎で読解不能。ただ単にサーカス団が出発してしまって、「カッサンドラは、消えている」のか?
 ギリシャ悲劇のカッサンドラにひっかけているのだろうか。簡単には思い出せないが、トロイが落城してアガメムノンの戦勝奴隷としてミュケナイに連れて来られたトロイの王女カッサンドラは、結局は妻クリュタイムネストラとその情夫アイギストスに殺されるアガメムノンとともに殺される運命にあったが、Deus・ex・machinaによって救われた(消えた)ような気もするが、それはカッサンドラではなくヘレネであったような気も……だいぶ前の記憶など曖昧なものです。時間があったら調べてみましょう。

 「汝、癒えんことを願うか」は、ファルスとなって雲散霧消する一歩手前でぐっと耐えて小説に踏みとどまった作品で、くすくす笑いながら読み、あるいはほくそえみながら通過した場所がこれまで読んだ作品のなかではもっとも多かった。
かれは白いあごひげをなでた。あごひげには食べた覚えのない食べ物のかけらが、しばしばくっついていた。
 この文章、可笑しいでしょう。
 あるいはイェラスィモ神父が買って来たペンキの色にまつわる描写。笑わないではいられない。
 そして車椅子のアレクサンドロが村を訪れた主教の前で立ち上がる奇跡。おお、私も思わず、ゲオルク・ビュヒナーの『レンツ』で、主人公レンツが死んだ少年の家を訪ねて行き、「起きて、歩け」と叫んだ、あの感激の一瞬を思い出してしまいました。
 ところが何とこの奇跡は……。mmこれ以上は書けません。

 この短編連作集、どの作品もとても猥雑で、不道徳で怪しい人物ばかりで、神父さえもそうなのですが、しかしこの神父の一生懸命加減がたまらない。
 (やはり、このくらいのゆっくりペースで読むのがよさそうです)

   ★   ★
 牧野信一電子文庫を発見。個人の方が運営されているらしい。
 事情が書かれているが青空文庫より充実している模様。
 「西部劇通信」と「ゼーロン」が好きな者としてはうれしいサイト。

 毎号必ず読んで感想を送っていただいているS誌のM氏に葉書でお礼。「塩の柱」という作品を表のウェブサイトにアップロードしたいとお願いしたところ、快く承諾をいただいて、そのお礼も。「塩の柱」、とてもいい作品である。

2006年12月11日月曜日

晴れたら、相変わらずの風景

 asama061210.jpg
 数日天候が悪くて雲ばかり眺めていたが、今日の午後になって雲が晴れた。いつもの光景。
 配偶者の親戚が兼業ながら林檎を栽培している。もう少し若い頃は着きすぎた実を落とす摘果作業や、秋の収穫を手伝ったこともあった。今でも箱単位で頂戴してくる。それを、今年は絶えてしなかった丸かじりで食べることがある。今も、キーボードを打ちながら林檎をかじる。林檎をかじりながら二年前と同じことを思い出し、考える。以下は二年前の文章。
ネットを始めた頃にひとつの詩のサイトを知った。その十七歳のサイト管理者のページに掲載された詩のなかに、以下に引用する詩があった。すごくいい詩だと思った。他の詩と並べられていたので、彼女の詩だと思って読んだのだが、しばらくしてそれが久坂葉子の詩であることを思い出した。多分、彼女もこの詩がとても好きだったのだろう。

りんご

りんごをかじりながらさむいみちをあるいた。
ゆうひがまっかになってしずむ。
きょうもいちにち。
のぞみももたず、ちからもわかず。
ただ、さみしさでいっぱいになって。
なにがそんなにさみしいのかわからぬままに。
まちかどにひがついた。
あたらしいとしがもうやってくるというのに。
あすさえもおそろしい。
――さみしさはますだろう。――
――くるしさにたえることができようか、――
わたしのこころに
「あすこそは」というかんじょうがわいてくれたら、
――わたしはうれしいが――
りんごのたねはくろくひかっていた。
はあとのついたしんを
おもいきりとおくへなげた。(一九四七年十二月三十日)
               久坂葉子詩集(六興出版)より

 そのサイトを運営していた17歳の少女は都内に住んでいるようだった。blue eyesというハンドルネームだったので、私は勝手に単純に「あおきひとみ=青木瞳」さんだと思っていた。
 食べたりんごの種を小さな植木鉢にまきましたというメールが届いた。
 真冬にりんごの種が植木鉢で発芽するはずもないが、そのことを彼女に言う気にはなれなかった。
 もう二十歳に近いはずの彼女は元気でいるだろうか? 

   ★   ★   ★

 「オンライン合評会」にすでに感想、批評を書き上げてあった同人から投稿が始まった。無論、合評会は来月後半と思って書いてない同人もいるだろうし(私自身がそう)、初めての試みでもあるから来月末頃までかけてゆっくりと、双方向で細かい部分まで意見交換しながらのオンライン合評会にしたい。

2006年12月9日土曜日

オンライン合評会

 39号の合評会を年末は気ぜわしいので1月後半に開こうと、同人専用でパスワードアクセス制限つきの「オンライン例会室」に書き込みをしたら、Yさんから道路が凍って運転が怖いから行かないとのレスがあった。Yさんが来ないと、遠隔地の同人を除くと全員出ても3名。
 仕方なく、一度、インターネット上で合評会を試行してみようと思いたった。
 とはいえ、全員がパソコンにカメラを取り付けてテレビ会議風という訳にも行かないし(個人的にも顔を出すのは死ぬほど厭だし、携帯のテレビ電話さえ使ったことがないし今後も使うつもりはないのだ。強調)、チャットでは忙しすぎて付いてゆけない世代ばかりだし、結局はスレッド式の掲示板で、各作品ごとにスレッドを立てて、そこに感想・批評の書き込みをしてもらう形がまあ無難なのではないか。
 そう考えて、ブロバイダのCGIにあるスレッド式の掲示板を試しに借りてみたが、フォントとか行間とか、デザイン、レイアウトが変更できないので使用を断念し、借りたものを即時返却。ウェブ・フォーラム形式のフリーCGIスクリプトをダウンロードし、借りているサーバーに設置した方がよさそうだ。
 
 とにかく、一度試して見ないと分かりません。思い通り進行しなかったらやめて別の方法を考えます。


 ★ 夜  ★

 同人誌の「オンライン合評会」用のBBS、設置終了。やはりスレッド型の掲示板に落ち着きました。各作品ごとに判りやすく表示されるのはこれしかない。さっそく、すでに寄せられている感想、批評を代理という形で書き込む。
 ただ、この「オンライン合評会」の公開についてはまだ判断がつかないので当分は表には出さない。IDとパスワードでアクセス制限をかける機能もあるが、これもまだOFFにしてある。
 本当はどなたにもアクセスして読んだり書き込んだりしていただきたいのですが、いたづら書き込みや宣伝書き込みを考えると消極的にならざるを得ません。理想はオープンがいいに決まっていますが、難しいです。
 ID、パスワードで入れるようにして、同人以外でもご希望の方や外部から感想を寄せていただいた方にはID・パスを発行してご招待、という方法もありますがさて……。とにかく39号の合評を済ませてから考えましょう。
 ということで、設置した「オンライン合評会」へ、自分も同人の作品評を順次書いていかなくてはなりません。

    ★     ★

 『石の葬式』は遅々とした速度で「石の葬式」、「ペガサス号の一日」、「神の思し召し」、「預言者エレミヤ」まで。ここまでで一編もハズレがない。
 ちなみにこの短編集の原題は、Little Infamies=ささやかな不道徳、なのだそうです。その方がずっとしっくりいたします。ささやかな悪意もそこかしこに書かれていて面白い、です。
 次は「海辺のカフカ」ではなく「海辺のクジラ」。楽しみはゆっくりと。
 (あ、連想でカフカの「国道のこどもたち」を思い出した)

2006年12月8日金曜日

英語で小説を書いてみたら、どうでしょう

 「胡壷・KOKO」第5号で納富泰子さんが書かれた『石の葬式』を読み始めた。
 この小説はギリシア生まれでイギリスに留学した理系の青年が英語で書いて世に出た作品である。
 と知ってふと思い出したのが、右サイドバーのブックマークにリンクを張ってありますウェブサイト「まりねこ文芸館」の、すごい小説を書かれて今はアリゾナに住まわれているまりねこさんに教わって読んだ本。
 中国で生まれたがアメリカに留学し、天安門事件が起きたので帰国を断念し、一念発起して英語で小説を書いたらいきなり「全米図書賞」に選ばれて作家として認められたハ・ジンの小説です。
 彼の小説は早川書房から『待ち暮らし』と『狂気』が翻訳発行されていますが、どちらもまだ在庫があるようです。洞窟書房にも陳列してあります。(7イレブンでの受け取りなので手数料、送料無し、本代だけです。ただし、ここでご注文いただいても私には1円も入りませんので、念のため)

hajinwaiting.jpg  hajincrazed.jpg

 そのどちらがいいかというと女性には『待ち暮らし』がお勧め、私は『狂気』を選びます。これがなぜかミラン・クンデラが中国に生まれてアメリカに行ったらこういう小説を書いただろうというような小説なのでありますが、『狂気』という邦題は強すぎるのではないかと思います。原題は「Crazed」ですから、『狂ってしまった』とか、『狂っちまった悲しみに』(中也じゃあるまいし、これはおふざけですが)とかいう題名の方がしっくりいたします。

 そういえばナボコフも。
 英語で小説を書いてみたら、ややこしい修飾など書いていられなくて、結構、即物的すぎるくらいリアルでハード・ボイルドな描写に徹底できる。(かもしれません、ね)

ようやく、「あした学校で」感想

 ひわきゆりこ(『胡壷』第5号)

 都会からの転校生の皆が皆そう感じるとは限らないだろうが、主人公である玲奈は以下のように感じている。
……同級生は騒がしいサルと鈍重なウシにしか見えない。あの群の中に入って行くと思うと気が重くなる……(3頁上段3行目~)
……玲奈は同級生を否定することで自分を保とうとしていた……(4頁下段後ろから2行目)
 こういう視点に立つ少女がクラスに馴染める訳はなく、じきにいじめの前段であるからかいの対象となる。「うんこ」や「エンコーおんな」の一件であり、あるいは靴がゴミ箱から出てきたり、傘がなくなっていたりする。
 いや、最近のいじめを原因とする自殺予告以来、これも「いじめ」の前段ではなく「いじめそのもの」と見る人の方が多いかもしれない。
 ただし、われわれは教育者ではないし、一介の同人誌での物書きに過ぎないので、いきなり「いじめはいかん」というような場所へは出て行けない。

 15頁上段12行目の教師の言葉、
……「あなたがそんな風だから、いじめられるんでしょう」……
 そんな風というのは、玲奈の机に紅のチョークで書かれていた「エンコーおんな」という文字を消さない態度を指しているのだが、その言葉によって、それまでいじめに遭っているという自覚がなかった玲奈が突然自分がいじめに遭っていたのだという認識に至ってしまう。
……玲奈は同級生を拒絶することばかり考えていたが、実際は玲奈の方が周囲から拒絶されていたのだ……
 文学的世界において、いや現実世界においてはもっと、人間はどこか相対的であって、お互いを映し合う鏡のような存在である。お互いがお互いの表情に「否定」や「拒絶」を見出すと、それがまた自分の表情に現われ、それがまた相手の思考や感情に直接に伝わってしまう。
 そういった側面から見れば、小学生・中学生たちを苦しめる「いじめ」も、パレスチナやイラクで生じている民族の存亡を賭けたアゴーン(=闘争)も、そういった強いコレスポンダンス(=照応)に満ちた相対性原理から発する、人間という不合理な存在の不合理の露呈と見えないだろうか? それをこそ物書きは察知して表現し提示すべきなのだけど……。

 どうも、おかしな読み方になり、話が誇大妄想めいて来てしまいました。

 面と向かって口には出さないまでも、玲奈が同級生を「騒がしいサルと鈍重なウシ」という否定的見方をしていることが、同級生たちの言動にダイレクトに反映して、その結果が「うんこ」や「エンコーおんな」なのである。
 誰も、自分を嫌っているらしい相手に優しくはしない。
 ただし、みんなが皆そうではなく、結末に近くなって同級生のテッチが認知症めいて散歩に出たまま帰らない祖母を連れて来てくれるのに、祖母を探しに出た玲奈は出会う。
 ここでは、祖母にベンチコートを着せ、歌を歌って調子をとりながら歩いてくるテッチ、あるいは祖母を背負って歩くテッチのキャラクターと九州訛りがとても生きています。
 「騒がしいサルと鈍重なウシ」のなかのひとりであったテッチが人間の子になり、優しい個として描かれています。

 とここまで書いて来て、やはり惜しいのは、
「あなたがそんなふうだから、いじめられるんでしょう」という教師の言葉に洗脳されたかのように、玲奈が自分がいじめに遭っていたと認識し、泣く、その不自然さですね。

 この作品の他の側面についてはすべて捨象して、作品を貫いている玲奈といじめという一本の筋についてしか言及出来ませんでした。
 ひわきさん、とてもとても変な読み方になってしまいました。ひわきさんの作品への感想が最後になってしまったのには、自分のこういう変な読み方に戸惑っていたからでした。
 これも、こういう読み方もあるという程度の読み方ではあります。感想を書くのが難しい作品ではありました。悪しからず読解のほどを。
 



 今日は終日Excelでの入力作業。いわゆる法で定められた受払い簿の作成。こういう単純作業は30分で眠くなります。
 昨夜は、結局表題作である「石の葬式」一編のみを読了。全編通読するまでは何も「言わ猿」。

 フリーのバックアップ・ソフト「Bun Backup」を「窓の杜」よりダウンロード。いつもはVectorなのだが、先のウイルス騒動で自然に「窓の杜」へ足が向いてしまいました。
 ミラーリングで同期をとるので更新されたファイルのみ上書き保存する。ということで、時間短縮になる。手作業でバックアップもいいが、更新、未更新含めてその都度全ファイルをバックアップしていたのでは時間がかかっていらいらする。更新されてないファイルはそのままでいいのだから。
 ポータブルHDDが接続されると自動的にバックアップ開始という設定も可能。でもその都度だとうるさいから、結局は自動はやめて自分で任意にバックアップをさせるのがいちばんか。一応、使用テスト。

 さて、『石の葬式』の続きを読もう。実は最初の表題作が面白かったのです。
 ひとつの村の住人のいろいろな視点から書かれている短編(あるいは連作)集。フォークナーとかジョイスとか、こういうポリフォニーの小説って好きなんです。それに比べたら一人称私小説みたいなモノフォニーの小説なんて……(あ、こんなことを書いては迫害されますw)。モノフォニーも藤枝静男風だったら頭が下がります、念のため。
 それにしても、体が三つ欲しい。

2006年12月7日木曜日

本の平積み

 午後、仕事の帰りに80GBのポータブル・ハード・ディスクを購入し、7イレブンで「石の葬式」を受け取る。
 4日早朝にオーダーし、6日十時には7イレブンに届いていた。素晴らしい。
 本当は他にすることがあるのだが、夕食後、早速、表題作を読み始める。

 HDDは、今年六月、まだ保証期間中にもかかわらず内臓HDDがクラッシュした悪夢対策のため購入。CD-RWでは容量が少ないので外付けHDDにすることに。
 配偶者のパソコンと共有するため、購入費用も折半の予定だったが、予定していた機種より高いのを買ってしまったので、その分を自分でかぶる。
 二台のパソコンで共有することにしたのは、どちらかがクラッシュした場合に残る一台ですぐにデータを使えるようにという配慮。ただし、定期的なバック・アップをどうするかはまだ未定。バックアップ・ソフトを使用する方がいいのか、手作業で自分でした方がいいのか?

 マルケス、「聖女」、「電話をかけに来ただけなの」、「光は水のように」を再読したくなり、『十二の遍歴の物語』を手元に。ル・クレジオの『海を見たことがなかった少年』も発掘。

marquez12henreki150.jpg  monde.jpg


 準備中の別ブログ「偏愛図書室」のために、新潮文庫の「フォークナー短編集」、「八月の光」も探し出す。「サンクチュアリ」を途中で放り出した苦い記憶。再チャレンジすべきか、気が重い。
 ブコウスキーの『パルプ』も探したがどこに紛れたか見つからない。
 フォークナー、ヴァージニア・ウルフ、ジェームス・ジョイス。
 何とかして本の平積みをやめないと、本を探せない。

2006年12月6日水曜日

嘘でもいいから田中秀雄のキャラクターにもっとメリハリを

『水を掻く水母』桑村勝士 (「胡壷・KOKO]5号) 感想

 四方八方を山に囲まれ、空の海の底みたいな小さな盆地に逼塞している身には、海辺の物語というだけで新鮮で、無許可操業の摘発という流れだけでも面白く読んでしまいました。
 書き出しといい、全体といい、非常にスタンダードな小説の書き方で好感を覚えました。
 監視から摘発に至る海の場面などは男のリアリズムというような気持ちのいい文章で書かれていますが、いったいに九州という土地柄は私小説的リアリズムではなく、現実を直視するという意味合いでのリアリズムの風土があるのではないかと漠然と感じていましたが、桑村さんの書き方はまさにその現実直視のリアリズムの、そのまたど真ん中をゆくオーソドックスではないかと思いました。
 それはまた、ブログ「重力と恩寵」のLydwineさんが書かれていた「まじめ」にも通じるものですが、変化球で目をくらますのをあえて嫌って直球で勝負するまじめさ、潔さでもあり、わたしはこのまじめさ、潔さを買います。(九州の書き手は、皆さんまじめで潔くて真摯、という印象というか先入観があります)

 さて、わたしは同人誌の小説を読ませていただいてすぐには感想を書けないのが普通なのですが、この作品についてももう拝読してから~日経過していて、何か腑に落ちない部分が腑に落ちるまで待たなければなりません。
 『水を掻く水母』が全体としては気持ちよく読めたにしても、何か中途半端にひっかかっているものがある。それが何なのかは読後すぐには判らない。
 それが今になって何か判って来たので書き始めました。
 何が判ってきたか?
 浅川は(岩田も)本来は水産研究者である。
 が、現在は無許可操業、いわゆる密漁の摘発という警察官的役割を担っている。水産研究者には多分心外な業務であり、そのあたりの微妙な心理は読み手にもきちんと伝わって来る。
 問題というか、不満を感じるのは、いよいよ摘発に至る「四」章以降に登場した密漁船の船頭、田中秀雄の扱い方、描き方である。この章では彼は岩田によってヒデさんとだけ言われているが、次の「五」章では田中秀雄とフルネームで書かれている。浅川は「ジェリーフィッシュ」で彼、田中秀雄と会う。ここから「六」章までの、浅川と田中の間に漂う空気の描き方が微妙に過ぎて中途半端、なのである。
 というか、もっとはっきり言えば田中秀雄のキャラクターをもっと明確に、もっとメリハリをつけて書いていいのである。浅川の鬱屈が田中にまで伝染してしまって、この二つの章ではふたりのキャラクターが似てしまって面白くないのである。田中には田中のキャラクターを、ここでこそ最前面に出すべきであった。もっと柔軟で天真爛漫で海という厳しい自然を相手に仕事をしてきた田中の漁師としてのキャラクターを。

 とここまで書いて、この願望は、海を知らない山彦の、海彦への単なる憧れにも似た願望に過ぎないのではないかという思いに至ってしまいましたので、ここで終わりにいたします。
 桑村さん、Lydwineさんの厳密な批評とわたしの大雑把な感慨を足して二で割り、さらに三割くらい割り引いて読んで下されば幸いです。
 次号の作品を強く期待いたします。

 夕刻、7&Yより「石の葬式」が明日の午前十時には指定の7イレブンに入荷していますとのメール着信。
 早!!。
 書店にオーダーしてもこうはいかない。
 時代は加速度的に進行しているのです。いつかどこかで時代の流れから振り落とされそうな気がいたします。
 

2006年12月5日火曜日

腓(こむら)返り悲歌

 昨夜、就寝中に寝返りを打とうとして右足に妙な力が入ってしまったら、腓返りになった。しばし痛いのをこらえて、そのうちにまた眠った。
 今朝、起床するとまだふくらはぎが痛い。歩行しても痛い。
 昨年の秋にキノコ取りに行って急斜面で肉離れを起こしたことがあったが、どうやら、腓返りによってそれが再発したらしいです。病院に行かず自然治癒を待ったのが今になって祟ったか。
 インドメタシン塗布剤を塗り、湿布を貼って何とか稼動。

 少し前の作品だが、第14回信州文学賞受賞作である『塩の柱』を文学サイトにアップロードする承諾を、本日、作者の村上氏から頂戴した。
 早速、「信州文芸14」からスキャニングし、A4見開き二段組2頁を一枚の画像として取り込み、8枚半。それをOCRソフトでテキスト・ファイルに変換しました。
 最新のOCRは読み取りミスが劇的に減り、あっても二、三、まったく読み取りミスがない場合もある。(設定のコツもありますが)
 以前、購入したスキャナーについていたバンドル版のOCRソフトは読み取りミスだらけでうんざりしたものだったが、ヴァージョンアップを重ねた今はおおいに役に立ちます。
 テキスト・ファイルをHTMLに流し込み、さらにWordの同人誌の縦書き二段組レイアウトのテンプレートに流し込み、仮想プリンタAcrobatでPDFファイルに変換。HTMLとPDFファイルにリンクを張り、アップロード。我ながら速攻(拙速?)。ミスはないでしょうか、ふう。
 私とは全然違う小説を書く方ですが、好きな書き手です。何ヶ所か、ちょっと読んでいて恥かしいところもありますが、よろしければどうぞ。『塩の柱』

 昨日触れた『石の葬式』。
 自分が管理している7&Y読者書店である「洞窟書房」の書棚に、発作的に登録しました。
 自分で棚に並べておいて自分で注文する。何かヘンですが、数日後には近くの7イレブンに届くので便利なのです。
 一度は閉店し、最近復活させたのでまだ本棚がさびしいですが、ほとんど自分専用の仮想書店ですので好きにしてもいいかな。時間を作って、もう少し棚をいっぱいにしなくては。

2006年12月4日月曜日

今日も頭痛

 だいたい午前十時頃から始まる。
 
 新潮社のウェブサイトでガルシア・マルケス全小説を見たり、「胡壷・KOKO」5号で納富泰子さんが熱く紹介されている「石の葬式」(パノス・カルジネス)をRSSリーダーのキーワードに登録し、ブログ上の記事を検索。
 内容にまで踏み込んだ記事はそう多くはないので、Googleでも検索。
 いずれにしても、「百聞は一読に如かず」なのですが、購入したい本が多くて、しかもそれが普通で2000円台後半から3000円台、もっと高い本もあるので懊悩激しく、またこんなCDも品切れにならないうちに確保したいと煩悶もし、頭痛がさらに倍加するのであります。

jesuiscommejesuis.jpg
『私は私、このまんまなの~プレヴェールのうた』

 これ、年下の女ともだちがX`masプレゼントに贈ってくれたらいいんですが……無理でせうか。




 ギリシアが舞台といえば、つい脱線してしまいますが、どうしてもアンソニー・クイン主演の『その男ゾルバ』を思い出してしまいます。

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 しかもいちばん印象的だったのは最後にゾルバが踊る場面ではなく、イギリスから来た作家が愛した美しい未亡人が、やはり彼女を愛していた青年が絶望して海に身を投げたことで村八分になり、目に見えぬ村人からバラバラと石を投げつけられるシーンでした。石投げによって殺されるかと思うくらい胸に迫りました。そして未亡人は息子を失った青年の父親に刺されて死んでしまうのでした。
 そういうことがあっても、ゾルバは砂浜で踊るのです。

2006年12月3日日曜日

ウェブ日記の変遷

 ブログタイトルの背景画像を替えたがちょっと不気味か。別の写真で気に入ったものが見つかったらその時点で変更。

 RSSリーダーを次から次へとインストール&アンインストールし、ついにアプリ版だけでなくWEB版まで試してみた。けれども気に入ったものがなく、glucoseはなぜか強制終了が発生して使い物にならないし、結局は最初に使って馴染みのgooのRSSリーダーアプリケーション版に戻りました。使い勝手は、確かに現状ではフリーウエアのなかでは多分、最高。
 ただし、相変わらずキーワードを数十個登録しただけで重くなり、「記事読み込み中」の時間が長すぎますw。でも、我慢するほかなし。
 キーワードがgooで、RSS登録はFirefoxでと分業体制。
 もう当分はRSSリーダーの浮気はいたしません。そうだ、もう一度キーワードを登録しないと。

 そういえば、今日、探し物をしていてCD-RWの中身を点検していたら、ブログやCGI日記の前のHTMLエディターで直接書いていた日記のHTMLファイルが見つかった。
 2000年12月29日から2003年12月まで、ひと月分がHTMLファイルひとつで、diarytopのページからIEなどのブラウザで開いて読むことが出来る。ひとつのフォルダに収まっているのでちゃんとリンクも生きていてどの月へも飛べる。父親が亡くなった時のことも書いてあって、あ、残してあってよかったな、と。
 少し読んでみて、それにしても相変わらず同じようなことしか書いていないものだと愕然とした。老化が始まっている……。
 その後、自分でCGIサーバーに設置する日記CGIになったり、レンタルブログになったり、また自分でサーバーに設置するMovable Typeになったり、閉鎖と移転の連続だったが、結果としてログが残っていない期間がある。ブログの何たるかも知らず、ログもバックアップせずに閉鎖してしまったからだ。
 その点、原始的なHTML日記は最初からHTMLエディターで書いてローカル・フォルダに保存してからFTPソフトでサーバーにアップしていたので、ローカルの日記フォルダをそのまま別に保存すればいいので、データの保存が簡単だ。
 知り合いの詩人でいまだにHTMLで日記を書き続けているひとがいますが、ブログに見向きもせず本当に偉いです。

 夕方から頭が痛いので、これまで。

 でもそう早く眠れるはずもなく、Google Earthで遊んだり、田中恭吉と谷中安規をイメージ検索して遊んだ。
 そういえば古書店から「田中恭吉作品集」を買ったはずだったがどこに仕舞ったか探した。大判の画集だが、古書店で包んだ大きめなセロファンの袋に入ったまま出て来たので一枚ずつ楽しむ。

book6.jpg

 しかし、どちらかといえば谷中安規の版画の方が気持ちは休まる。
 内田百閒先生が本の装画に安規の版画を好んで使い、今でも文庫本に使われているのがうれしい。

meisousi.jpg  i_taninaka.jpg

 あれこれ検索しているうちに谷中安規が奈良県桜井市の出身で、長谷寺への参道沿いに版画土蔵館というのがあります。いつの間に出来たんだろう。一度行ったことがありますが、あの頃はなかった。 さらに安規が東京の豊山中学に進んだと書かれているのを発見。
 あれ? 豊山中学って坂口安吾も在籍したような記憶が……。曖昧。
 
 一九二二(大正十一)年
十七歳 第三学年に進級はしたがますます欠席日数は多くなり、サボっている生徒を捕まえに来た教師を殴ったことなどが原因で、九月、東京護国寺境内の豊山中学へ転校。父仁一郎、長兄献吉夫妻、四兄上枝とともに東京府豊多摩郡戸塚町大字諏訪六(現在の新宿区西早稲田二丁目)の借家に同居。
坂口安吾ミュージアム・年譜より




 

2006年12月2日土曜日

倦怠、狂おしさ、猥雑でひとつに固まってしまったこの愛すべきヘタレたち(長過ぎ!)




『タイドプール』柳川裕子・「胡壺 KOKO」第5号(福岡市)

 私は以前から文学は自己をうまく生きられない人間のためにあると考えているが、この小説に登場する4人はまさに自分をうまく生きられないタイプばかり揃ってしまった。
締まりのない膀胱のために小便が時と場合を選ばず出てしまう「おれ」はモイ子と暮らしているが、住宅地造成現場の飯場での洗濯が仕事だ。
 やがて「おれ」といっしょに同じ現場の洗濯の仕事をしている沙織も、銀行の総務課長であるジーノ、こと藤野さえも勤めを辞めてしまい、部屋に転がり込んでしまう。
 それ以前の「おれ」とモイ子の生活もそうだったが、人口が倍になり、4人で小便臭い六畳間で重なり合って眠るという状況が、さらに、倦怠感や狂おしさや猥雑を増す。
 このあたりの倦怠感や狂おしさ、猥雑さがなかなかうまく書けていると思った。
 それは開放的な空間である海へ行っても変わることはなく、
……そのうち四人は体をくっつけ合い、小さく横一列に並び、あの六畳の部屋で過ごすのと同じように窮屈に固まった。……

 この描写は、彼ら四人が、「倦怠、狂おしさ、猥雑」でひとつに固まってしまったことを直截に語っており、なかなか絵になっている光景です。この小説のピントが合った瞬間です。私としてはこの泣ける光景にいたく共感、思わず深くため息を漏らしました。

 ただしこの作品、ふたつ難点を言わせていただけば、
��、書き出しの何ページかは読点の使い方が明らかにヘンなところがあり、そのまま読んでいると呼吸困難になりそうな場所が結構ありました。一度、声を出して読んでみるとそれが良くわかると思います。

��、この小説の終わり方。途中で海老沢にからかわれ、また名刺も貰ってあったので、結末で海老沢を訪ねて行くのは作者にとっては既定の結末かもしれないが、私はこの結末には不満であります。
 せっかく、これだけの、四人の集団ドロップ・アウト状態を描いておきながら、「おれ」が海老沢の家を訪ね、海老沢主宰の怪しげな男ばかりのパーティ会場へ入ってしまうことで、片付けてしまうのはどうももったいなくて、感心いたしません。
 柳川さん、もっと別の終わり方、なかったでしょうか。