ようやく今年の内に済ませるべき仕事をすべて終えた。残るは餅つきやら注連縄作りやら家庭内の作業のみとなる。
iTuneのインターネット・ラジオ局に、JAZZRADIO.com - Bossa Novaというボサ・ノヴァ専門チャンネルがあったので聴いてみた。真冬にボサ・ノヴァは不似合いに決まっているが、今年のように暗い話題ばかり続いた年末にボサ・ノヴァは気分が軽くなってとてもよろしい。
本来ならば、大地震と津波で亡くなったひとが多いのだから国を挙げて喪に服すべきところであろうけど。
2011年12月23日金曜日
身に滲みてしまった訳文
だいぶ、更新をズル休みしていました。
一昨年に購入したまま積読になっていた新潮文庫「ダブりナーズ」J・ジョイス、柳瀬尚紀訳を枕元に置いておいて、少し読んでみた。先ず、お気に入りの「エブリン」を読んでみたが、どうも若い頃に先に読んだ、同じ新潮文庫の安藤一郎訳「ダブリン市民」のなかの「エブリン」の文章が残っていて、それが邪魔をして読み進められない。
柳瀬訳が良くないとか、そういうのではなく、先に読んだ安藤訳が身に滲みて、体の中にまで入ってしまっているのでどうしようもない。
これはカフカの断片もそうであって、たとえば角川文庫の「ある流刑地の話」本野亨一訳のなかにある「観察」という断片集も、この本野訳が身に滲みこんでいて、多分、他の訳を読んでもすんなり体の中に入って来ないかもしれない。
今日の夕食は、母親はSuperばあさん仲間と焼肉レストランで外食、妻は低血圧でめまい吐き気ということで、ひとりさびしく(嘘、ひとり楽しく)十割蕎麦で鴨なんばんならぬ、鶏なんばん。
近所の家から時々、ダシ取り用の削ったカツオブシの袋を複数回いただいて、これがたくさんあるのでしっかりとダシを取り、返しとあわせて少し味を調整し、鶏肉と自家菜園の下仁田ネギとで温かい蕎麦にした。
ゆで立てだと温かくてもちゃんと蕎麦の味がしますので、おいしい。
妻には、お餅があったので寝たまま食べることが出来るように、焼いて海苔を巻いたのとインスタントのクリームスープを届けておきました。
おや、夜になったら治ったんですか。つくづく、夜型人間ですね。
一昨年に購入したまま積読になっていた新潮文庫「ダブりナーズ」J・ジョイス、柳瀬尚紀訳を枕元に置いておいて、少し読んでみた。先ず、お気に入りの「エブリン」を読んでみたが、どうも若い頃に先に読んだ、同じ新潮文庫の安藤一郎訳「ダブリン市民」のなかの「エブリン」の文章が残っていて、それが邪魔をして読み進められない。
柳瀬訳が良くないとか、そういうのではなく、先に読んだ安藤訳が身に滲みて、体の中にまで入ってしまっているのでどうしようもない。
これはカフカの断片もそうであって、たとえば角川文庫の「ある流刑地の話」本野亨一訳のなかにある「観察」という断片集も、この本野訳が身に滲みこんでいて、多分、他の訳を読んでもすんなり体の中に入って来ないかもしれない。
今日の夕食は、母親はSuperばあさん仲間と焼肉レストランで外食、妻は低血圧でめまい吐き気ということで、ひとりさびしく(嘘、ひとり楽しく)十割蕎麦で鴨なんばんならぬ、鶏なんばん。
近所の家から時々、ダシ取り用の削ったカツオブシの袋を複数回いただいて、これがたくさんあるのでしっかりとダシを取り、返しとあわせて少し味を調整し、鶏肉と自家菜園の下仁田ネギとで温かい蕎麦にした。
ゆで立てだと温かくてもちゃんと蕎麦の味がしますので、おいしい。
妻には、お餅があったので寝たまま食べることが出来るように、焼いて海苔を巻いたのとインスタントのクリームスープを届けておきました。
おや、夜になったら治ったんですか。つくづく、夜型人間ですね。
2011年12月11日日曜日
寒!
今朝7時過ぎの浅間山です。
このところちょっと頭痛などしているので、この寒さが額にしみます。
この寒さが影響した訳ではないだろうが、今日の午後になって「ネットワークケーブルが接続されていません」と表示されて、インターネットに接続できなくなった。LANケーブルがLANポートにきちんと差し込まれているにもかかわらずである。
しかも妻のパソコンや私の古いデスクトップはちゃんとつながっているので、このパソコンに問題があることが判る。
LANケーブルのどこかが断線したかと、別のLANケーブルに差し替えてみたがつながらない。どうもLANポート自体に不具合が生じているらしい。
再起動やら、静電気の排除など、いろいろ試したがダメだった。
仕方なく、USB・LANアダプタというものを購入して来た。1980円。
LANポートの代わりにUSBポートに差し込んでLANケーブルを差し込めるアダプタということです。
一応、CD-Rでソフトをインストールしてハードとして認識させ、さっそくLANケーブルをUSBポートから接続した。
おお、ネットにつながりました。
また、このXPパソコンが生き延びました、(^_^.)
2011年12月1日木曜日
部分で全体を
小説というものが、ある意味、ひとりの生き方なり、ひとつの家なり社会なり世界なりの全体を提示するものであるとして、だからこそ徒労といえるほどに夥しい言葉を費やしてひとつの物語が生じる。
物語、それは確たる視点を以って描かれた人間、時制、世界のひとつのまとまりではある。しかしそれさえも実は単なるコンベンション(約束事)に過ぎないのではないか。
たとえば、ひとりの人間がいつでも同じ人間であるか否かと考えてみると、私自身も含めて誰もかもが、どうも怪しい。ひとりの人間に百の顔を見ることだってあり得ないことではない。見るたびに、会うたびにどこか違うのである。やさしく見えたひとがとても怖く見えたりして。となるとひとりの人間がひとつの確固たる人格やアイデンティティを保有している、確固たる時制や世界を所有している、ひとつの統一された人生としての物語を生きている、などとは考えられないのではないか。
どうも怪しいことばかり考えているので、ますます正統な小説から遠ざかってしまいます。
ま、部分を描いて全体を暗示できればいいくらいに考えましょう。

昨年も同じことをしたが、妻がキムチの材料に芹を購入して根の部分を捨てたので、拾って小さな器にさして水を入れておいたら芽が出て来て茎や葉がぐんぐん伸びはじめた。
実は芹のてんぷらで蕎麦を食べるのもおいいしいのだが、それはこんなに伸びない地の芹の方が風味が強くておいしい。
物語、それは確たる視点を以って描かれた人間、時制、世界のひとつのまとまりではある。しかしそれさえも実は単なるコンベンション(約束事)に過ぎないのではないか。
たとえば、ひとりの人間がいつでも同じ人間であるか否かと考えてみると、私自身も含めて誰もかもが、どうも怪しい。ひとりの人間に百の顔を見ることだってあり得ないことではない。見るたびに、会うたびにどこか違うのである。やさしく見えたひとがとても怖く見えたりして。となるとひとりの人間がひとつの確固たる人格やアイデンティティを保有している、確固たる時制や世界を所有している、ひとつの統一された人生としての物語を生きている、などとは考えられないのではないか。
どうも怪しいことばかり考えているので、ますます正統な小説から遠ざかってしまいます。
ま、部分を描いて全体を暗示できればいいくらいに考えましょう。
昨年も同じことをしたが、妻がキムチの材料に芹を購入して根の部分を捨てたので、拾って小さな器にさして水を入れておいたら芽が出て来て茎や葉がぐんぐん伸びはじめた。
実は芹のてんぷらで蕎麦を食べるのもおいいしいのだが、それはこんなに伸びない地の芹の方が風味が強くておいしい。
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