2004年6月13日日曜日

結城英雄著『ジョイスを読む』を読む

 5月発行の集英社新書、結城英雄著『ジョイスを読む』が目についたので目次をみると、第二章・作品解説に、「内的告白〈意識の流れ〉の手法」と「『ダロウェイ夫人』との比較」、「文体の実験」という項があり、面白そうなので書籍探索を中止して購入、帰宅した。
 そのせいで、もう一冊買う予定だった本を平積みの上に置いたまま忘れてしまった。
 6月16日は『ユリシーズ』のなかで書かれている一日であり、主人公の名を冠して「ブルームズデイ」と呼ばれ、ダブリンは一週間ほどジョイス一色になるそうである。
 そのジョイスをヴァージニア・ウルフは自分の日記の中で「独学の労働者」とか「青二才」と呼び、『ユリシーズ』を「下品」で「不発の作」、「散漫」で「価値が低い」と書きつけながらも読み通したという。
 それから、何とふたりは同年齢だった。ジョイスの死の二日後(1941年1月15日)ウルフは日記にこう書いた。

......ジョイスは死んでしまった。わたしよりも二週間も若いジョイス。ミス・ウィ―バーが毛糸の手袋をはめて『ユリシーズ』のタイプ原稿をホガース・ハウスのわたしたちのお茶のテーブルに運んできた時のことを思い出す。ロジャーが彼女をよこしたのだろう。これを印刷するためにわたしたちの生涯をささげようか。あの下品なページは全然ふさわしくないように見えた。(中略)
トム(T・S・エリオット)が言ったことを思い出す。
――あの最後の章の巨大な奇跡をなしとげたあとでいったい誰が筆をとることができようか――

 そう書いたウルフ自身もほぼ二ヵ月後、1941年3月28日にこの世から姿を消す。
 ブルームズ・デイは4日後。


2004年5月1日土曜日

小説の秘密

『小説の秘密をめぐる十二章』 河野多恵子著

 第十章「小説の構造(二) 一人称と三人称」は各項の題からして興味深い。
曰く

人称の選択は慎重に/ 一人称は自分の頸筋が書けない/ 嵐が丘の場合/ 二重の一人称という技巧/ マゾヒズムと人称の関係/ 単元描写と復元描写/


 ことに「一人称は自分の頸筋が書けない」ということにはおおいに納得。それがたとえば私小説であってもなくても 一人称である限り自分の頸筋は書けない。
 通常、われわれは「私は...」と書かれた一人称の小説の中の「私」をひとつの約束事として疑わずに信頼して読む。そこに登場する「私」を疑ったら小説は読めない。
 それがフィクションであればまだしもコテコテの私小説であれば、われわれはその「私」を作家自身だと断定して読む。
 しかし、そこに書かれている「私」は、その作家自身がそうだと思っている「私」でしかない。
 「首筋が書けない」というのは、要するに「私」が「私」を客観化して書くのはかなり困難なことだという意味合いだろう。
 同人誌に発表される私小説を読んで感じる不満は、つねにここにある。


2004年4月26日月曜日

一枚の鏡

たとえば ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とかチェーホフの『退屈な話』といった、むやみに暗くてネガティブな文学がとにもかくにも認められ、今日まで生き残って来たということは奇跡のような気がしないでもない。
 存在を否定しかねないような文学が、肯定され受け入れられる訳がないのだ。
 インターネットもまた、暗くネガティブな部分を抱えていていろいろと問題にされることが多いが、ぼくはしかし、いわゆるよそゆきの顔をした通常の世界よりも、ネット世界の方がネガティブな部分がより率直に表現されるという特性から注視せざるを得ないでいる。
 匿名性から暴走やトラブルも発生するがそれは半面で、もう半分の側では匿名性ゆえに語られる本音の存在感、世界観がストレートに表現されている。それがどんなにネガティブなものであれ、彼、または彼女が直面している現実がそこに見て取れる。
 文学とは、細密画さながらの微細なまでのディテールを具体化した人間学であるとぼくは常々考えているが、そういった意味でもネットは日常生活ではなかなか見ることの出来ない裸の人間の姿が見えて好きである。
 文学が人間を映す一枚の鏡であるとしたら、ネットもまた人間をリアルに映し出す一枚の大きな鏡である。
 だから、ぼくはネットに大きな可能性のようなものを感じている。