一瞬の強い光を暁に感じたわたしが目を開けると、男がポラロイド・カメラを構えていた。
「厭よ」
そう叫びながらわたしは両足を閉じ、毛布を引きあげて体を覆った。男は笑っていた。そしてカメラから引き出した写真ができるのを待ちながら言った。
「これもさっき渡したお金のうちに入っているんだ。ここにいる間、僕が君をどうしようと君は文句は言えない」
彼はわたしの目の前に写真を突き出した。両足を開いたわたしの体の、中心の亀裂が写されていた。わたしはそれを男の手から奪おうとしたが、彼はひらりと遠くへ手をやった。
「お願いだから、その写真を破らせて」
「顔は写っていないんだから気にすることはないさ」
男はそう言ってカメラと写真を床に置き、再びベッドに乗ってわたしの体にのしかかって来た。わたしはすっかり諦めていた。
三万円のかたに、男がわたしの体をめちゃくちゃに使用している間に、今までのそう長くはない人生のなかでたったひとり、こんなどうしようもない体のわたしにアロポーズしてくれたひとのことをわたしは考えていた。それは優生ではなく、別の男性だった。
彼との出会いも、不幸なことにわたしの病気が緑だった。十九歳の夏の初めの日の午後だった。わたしは図書館の玄関を出たとたんに強いめまいを起こした。かろうじて前へ崩れるように倒れたわたしを銀杏の木の下のベンチまで運び、意識が戻るまで見ていてくれたのが彼だった。その後、彼はわたしを駅まで送ってくれた。
それから何回か図書館で席を並べ、庭のベンチや近くの喫茶店で話をした。彼も失業中だった。と言っても、彼は自ら敢えて得た教職を三年で放棄したのだったが、それで、お金もいらず時を過ごせるというわたしと同じ理由で図書館へ来ていたのだった。
誘われて彼のアパートへついて行き、ごく自然にわたしは彼に抱かれた。わたしには初めてのことだったが、何とも言いようのない至福感にひかれるように、わたしは間もなく日曜日を除くほとんど毎日彼のアパートに通うようになった。夏休みになって、図書館はわたしたちのような半端な者には居心地悪いほどの満席が続くので、なおさらわたしは彼の部屋へ行っているほかなかった。掃除とお洗濯をし、料理を作り、彼と散歩し、スーパー・マーケットでお買物をし、本屋で時間をつぶし、花屋をひやかし、そして喫茶店で喋り、そんな誰でもが普通に過ごしているはずの他愛のない時間が、わたしにはこの上なく貴重なものに感じられてならなかった。無職でたった一円かせぐこともできないのに、そんな気楽な毎日を何の反省もなく過ごしていたわたしは、今となっては姉を押し漬す元凶でしかなかったのだけれど、その時はそんなことを者える余裕もなかった。
二ケ月ほど過ぎて、彼は小さな学習塾に講師として勤めることになった。わたしの楽しい時間が少し減り、彼は午後一時にはでかけて行った。夕方まで教材の準備をし、それから小学生と中学生を教え、帰るのは十時から十一時頃になる。わたしは彼のために簡単な夜食の下ごしらえをしてから帰ることが多かった。それは奇妙にわびしい行為だった。自分がなぜそこでおにぎりやワカメ汁やスープなどを作っているのかわからなくなったり、無人の世界でただひとり立って、庖丁でまな板をとんとん叩いているような気分に陥って、料理を作りかけのまま彼の部屋から逃げだしてしまうことが度々あった。
ある日、彼は何の前触れもなくわたしを旅行に誘った。わたしにはそんな余裕などあるはずがなかった。彼はどうしてもわたしを連れて行きたいとねばった。わたしにもっと外の空気を吸うべきだと言った。確かにわたしは両親が亡くなって姉に生活を見てもらうようになってから、旅行らしいことは一度もしてなかった。東京都内から外へ出た記憶さえ余り無かった。黙って彼の言うことを聞いていたら偏頭痛が始まり、わたしはいきなりさよならを言って彼の部屋からとび出した。発作が起こりそうな予感が確かなものに思えて、わたしは電車に乗る気にもなれず、四十分近く歩いて家に戻った。ベッドにたどりつく前に頭のなかが焦げるように熱くなり、暗くなってわたしは台所の床に倒れた。
それから三日、彼に会いには行かなかった。もう彼のところへ行くのはよそうかと、そんなことばかり考えていた。彼ともそう長くはつき合ってはいられないような予感がした。
それでいて四日目には朝から落ち着かず、わたしは電車に乗って彼の澄む街に降り立ち、駅前のパン屋で食パンとロール・パンを買っていた。そして、通いなれた、自動車も通れない狭い裏小路を抜けて彼の部屋のドアをノックしていた。
「誰」
わたしはこんな時すぐに声が出ない。自分の名を言うことができない。それなのに彼はいつでも誰かと問うのだ。黙って立っているとドアが開かれ、眠そうな彼の顔がのぞいたが、一瞬、わたしは来てしまったことを猛烈に悔やんだ。
「この間はどうしたの」
「ちょっと頭痛がして」
「やっぱりそうか。そうだと思って後を追わなかった。ずっと調子が悪かったの、三日も来なくて」
「ううん、そうじゃないの。用事ができてしまって」
わたしは彼の部屋に上がっていた。夕べは遅くまで起きていたからもう少し寝ていたいと彼は言い、ベッドに入った。手招きで誘われてわたしは彼の隣にもぐりこんだ。
ひと月もしないうちに、姉には高校時代のクラス・メイトと三人連れだと見えすいた嘘をついて、わたしは彼と京都へでかけていた。一時間先の予定も立てず、彼の足の向くまま名も知らぬ小路を歩いては寺院や喫茶店で休息する、そんな散歩めいた日をわたしたちは三日過ごした。見知らぬ土地にたいした目的もなしにいて、ただ時が頭の上を過ぎて行くのを漫然と感じていた。姉のことも病気のこともわたしは忘れていたが、それもふと思い出すと、余りにはっきりとした映像を持ってはいても現実感のない夢のように思え、東京に帰るのがひとつのためらいになった。かと言って彼と肩を並べて歩いているのも、もっと頼りがいのない、薄い膜が破れたらそれっきり消滅してしまいそうな夢だった。
最後の夜、彼は蒲団のなかに入ってからもう一度起きて、わたしに結婚してほしいと言った。明日、早めに京都を出て彼の実家へ寄って行こうとも言った。彼の家は名古屋から電車で三十分ほど離れた町だった。
わたしはまだ結婚を考える年齢ではなかった。そうでなくても、どうしてわたしが結婚なんかできるのだろう。
「できないわ」
そう答えた自分がひどく無念だった。あふれてくる涙もそのままに、ぼんやり薄明りのなかに見える天井の杉板の木目を見ていた。すると彼は蒲団に入り、わたしを強く抱きしめた。そしてわたしの浴衣の腰紐を解こうとした。わたしは身をかたくして浴衣の前に両手をしっかり組んだ。
不運なことに、その時何の兆しもなくいきなりわたしのいつもの発作が始まった。全身の筋肉が脱力してゆく。夜、こんなに突然発作が起こるのは初めてのことだった。意識が緩やかに暗くなりだした。彼に何か言おうとしたが、唇は動かず、声も出なかった。
彼が結婚など口にしなければ、わたしの小さな幸福はまだもう少し長続きしたはずだった。彼のひと言で、わたしは仕事も続かず姉の世話になって、ただ目立たず小さくなって生き物として生きているだけの病気持ちの女に戻ってしまった。もう、彼を拒むしかなかった。
消え入る寸前のわたしの細い意識の先端が、そこにだけ鋭敏な神経を残しているのか、彼の右手の動きだけがはっきりと感知された。左の胸にしばらくとどまり、わたしの心臓の真上をぐるぐるめぐっていた彼の手は、脇腹を滑り降りて尖った腰骨に届いた。そして更に彼の唇が左の胸の頂きに触れてきた。右手はショーツのゴムの下をかいくぐり、皮下脂肪の少ないおなかやお尻を撫でまわしていた。
今、彼には拒んでいるわたしの気持ちがまったく通じていないし、わたしの脳が消え入りそうに微かに明滅しているのにも気づいていないのだ。そう考えるとわたしの意識は闇の深みにはまったままになった。頭痛はなく、睡魔に引きこまれる時と同じ感覚だった。その後彼がわたしの体をどうしたか、わたしには全然わからないし、彼にそのことを問い正す気もなかったが、そのまま朝まで目覚めることもなくだらしなく眠りこけていたのは確かなことだった。
翌朝、わたしたちは言葉少ない朝食をとった。今日、これで東京へ帰ったら、多分もう二度と彼には会わないとわたしは思っていた。ふと目が合うと彼が口を開いた。
「僕はどうしても君と結婚したい」
「だめよ。わたしの病気のこと知ってるでしょ」
「僕は君のすぐ前を歩いていたいんだ。風は僕に当たる」
「あなたはわたしを哀れんでいるだけだわ。同情では一緒に暮せない」「同情なんかじゃない。結婚が嫌なら、先ず.一緒に居てくれるだけでいい。そうすれば僕の気持ちもわかるはずだ」
わたしの気持ちはすでに自分だけしか入れない穴に落ちこんでいた。一分でも早く宿を出て、彼が見えない所へ行きたかった。わたしは洗面所に立って、せっかく彼が目覚めるより早く起きてしたお化粧をもう一度洗い流した。鏡のなかのわたしの頬には、色素が抜けて真っ白な部分があるのだ、頬の面積のほぼ半分近く。わたしはこのことは姉と医師以外の人間には言ったことがなかった。まして見せたこともなかった。彼には隠していたその顔で、わたしは彼の目の前に正座した。彼は十分驚いたようだった。追い討ちをかけるように、これは遺伝するものだとわたしは嘘をついた。ほんとうはそうではなかったのだけれど、それは卒倒する病気がはっきり現われてから一年ほどしてから出て来た症状で、医師は単独の別の病気ではなく、わたしの失神発作と根は同じに見ているらしかった。
彼はわたし以上に寡黙になった。ふたりとも帰るのに必要な言葉だけを言い、答えた。午前中に新幹線に乗って、東京駅でわたしは姉の勤め先に寄って行くと彼に言い、そしてそのまま別れた。それきりわたしは彼のアパートを訪ねなかった。彼がわたしを訪ねて来ることもなかった。再びわたしは図書館に通うしかなかったが、彼と会うこともなかった。
うんざりするほどの時間が経過してから、男はわたしの体を解放してさっさと原色のきつい猥雑な部屋を出て行った。わたしはしばらく呆然として動けなかった。毎日こんなことをして借金を返す気にはなれなかった。借金を抜きにしても、体を売って生きる意味を見出だせなかった。それは、単に勤め人が自分のほとんどを会社に売って生きていると言うのとどこか根本的に違っていた。
ポケットの三万円を握りしめながらホテルを出たが、何の感慨もなかった。悲しくもなく、恥ずかしくもなく、まして良くないことをしたという思いもまるでなかった。わたしには男と女というものがさっぱりわからなかった。ただ、人間に男も女もなく、性というものがなければいいとは思った。
あの男は今でもわたしの卑猥な写真を持っているのだろうか。
あの時の三万円を、こともあろうに大好きなチェーホフの本に挟んで隠したままなのをわたしは思いだした。古本屋で全集の一冊がバラで売られていたのを三百円で買ったものだった。姉に出所の言えない三万円を渡せる訳もなく、さりとて何かを買う気にもなれず挟んだまま忘れた振りをしていた。いずれにしても不要なお金だった。一円も持たず三途の川を渡してもらえなくても結構。死んで腐ってしまうか、灰にしてもらえれば満足だ。
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