その夜、わたしの脳細胞はひどく興奮してしまい、いつまでも眠れなかった。彼とのテレパシーのことは、姉にだってついに話さないままになっている。誰だって信じないに決まっているし、わたし自身、単なる妄想にすぎないのかも知れないと、いまでさえ思うことがあるのだから。
それから、わたしは月に一度か二度、彼と会った。相変わらず彼はテレパシーに頼り、声を出して話すことは故意に避けていた。彼はひとと面と向かって話すことがひどく苦手なのだと思い、わたしも余り口を動かさないことにした。だから、喫茶店などに入っても、わたしたちはコーヒーなどを注文する時に声を出すだけで、あとは黙ってみつめあっているだけだったが、わたしにはそれでも十分楽しかった。
似た者同士だから良かったのだ。きちんとした仕事を持っていない人間は深海魚のようなもので、ひっそりと息をして、ただ生きている、それだけに甘んじていなければならない、そんな考えにわたしはとらわれていたから、わたしと同じように無職のままリズムも抑揚もない毎日をおくっている彼には、やはり黙っていても通じるものが多かったのだ。
彼の父親は建設会社を経営していた。大学を出た兄が大手の建設会社で三年勤めた後、入社し二年で専務になった。その父親と兄に彼は言われた。仕事をしなくてもいい、良いことをしなくてもいい、とにかく悪いことだけはするなと。
《その日から、僕は何もしないことがいちばんいいことだと自分に言いきかせて来たんだ》
二月に、新宿御苑を散歩した後で、近くの喫茶店で向き合っていた時に、そんな話を彼はした。
《だから、僕は外に出てはほんとうに彼らの迷惑になるようなことは、何ひとつしてない。彼らに知られずに良くないことはしているが、知られない限りはしていないと同じことだし》
《何だか息がつまりそうな話ね》
《だから、家では僕は狂人になるんだ。木刀で障子を壊し、テレビを叩き壊し、両親をぶちのめし、僕は荒れ狂ってクズカゴに火をつける。そんな時、僕は自分で狂気を演じているような気もするし、案外狂っている自分の方がほんとうの僕自身であるようを気もして、ますます危険ぎりぎりのところまでいってしまうんだ》
彼はコーヒーのお代わりを頼み、ガラス窓の外に目をやった。雪が舞いはじめていた。
《君は僕を気違いだと思う?》
《わからない》
《わからないことはないはずだよ》
《心を痛んでいるのは確かだけれど、気が変だなんて思えない》
《どんなに病んでいても、それが外に出なければ病気ではないんだよ。僕がどんなにひとを殺したいという願望を持っていても、それが僕の胸に収まっているうちは無いのと同じなんだ》
《今日は何だかへンね》
《ああ、今日の僕は少しへンだね。家に帰りたくない気分だな。これから軽井沢へいかないか》
《軽井沢? 今から行っても、帰って来れないでしょ、だめよ》
《親父の別荘があるんだ。泊まればいい》
《だめよ、姉に言い訳できないもの》
わたしたちは十二時五十分には上野駅にいて、列車に乗りこんでいた。わたしは喫茶店から姉の会社へ電話し、友達の家に泊まると言った。姉は仕事中のためかあれこれ詮索しなかったが、わたしに泊まりこむような親しい友人などいないことは知っているはずだった。その頃、姉にも恋人がいたので、妹のでたらめにも寛容でいられたのかも知れない。
軽井沢に着いて、わたしは今まで体験したことのない寒さに震えあがった。風が無数の針のように顔に吹き当たって痛かった。来なければ良かったと思った。帰りたがるわたしを無視して、彼はわたしをタクシーに押しこんだ。
十分も走らないうちにタクシーは止まった。道の両端は針葉樹が立ち並んでいて、あたりは薄暗かった。新雪は風に吹き飛ばされ、古い雪が固く凍ってガリガリと音をたてた。歩くと転びそうなのでわたしは動けなかった。タクシーが帰ってしまうと、風の音だけが耳をふさいで、わたしはますますそのまま東京へ帰りたくなった。
「寒いから早く入ろう」
彼は珍しく声を出して言い、さっさと歩いて暗い森のなかの別荘の玄関に向かった。
「鍵はあるの」
わたしは彼の後について転ばないように歩きながら、訊ねた。
「ああ、いつも持っているんだ。ひとりで時々来るから」
玄関に入るとホールがあり、右手にダイニング・ルームがあって、わたしたちはそこに入った。風が吹いていない分だけ暖かい気もしたが、それも束の間で体がしんから冷え始めていた。彼はじきに暖かい空気を送り出して来た温風ヒーターの前に椅子を置き、わたしを坐らせた。それから、セントラル・ヒーティングのスイッチを入れに行き、しばらく台所で音を立てていたが、紅茶の入ったカップをふたつ両手で運んで来てテーブルに置いた。
「プランディを少し多めに落としたから、飲むといいよ」
「ありがとう」
「もう少し寒くない時期にすればよかったね」
「ええ」
「食料品も買わずに来てしまったし、今日の夕食は外でしよう。僕がひとりで来た時に行くレストランがあるんだ、まだ誰も連れて行ったことがない」
「そんなのいいわよ。それより何時間かいたら東京へ帰りましょう。最終電車でもいいから」
「帰らないよ。お姉さんだっていいって言ったんだろ」
わたしはその別荘に自分がいることに現実感がなかった。姉とふたり暮らしになってから、わたしはほとんどあの古びた木造モルタル造りの、六畳ふた間に台所、バス、トイレのみの粗末な空間に生きて来た。こんな別荘を持てることはすてきなことには違いないが、胸がむかつく思いもした。誰もが皆、別荘を持っているというのなら話は別だけれども。
わたしは椅子をテーブルのそばに寄せ、紅茶を飲んだ。
「ここではテレパシーなしでも話せるのね」
「そんなこともないけど、ほかに誰もいないだろ」
「でも疲れるわ、声を出さずに脳と脳で直接会話するのも」
「ああ」
彼は曖昧に応えて立ちあがり、ステレオ装置の電源を入れてテープ・デッキにカセット・テープを差しこんだ。バッハのブランデンブルグだった。彼には話したこともないのに、わたしの好きなバッハがかかったことにわたしは驚き、そして嬉しかった。バッハにはわたしに欠けている絶妙なセルフ・コントロールがあった。わたしは部屋の隅にあったロッキング・チェアを中央に出して坐り、揺れながらバッハを聴いた。わたしはそんなにたくさんの音楽家を知らないし、クラシックなどそう聴いてもいなかったが、バッハだけはどの曲を聴いても海が凪にかかるように気持ちが鎮まるのだった。
体が暖まったわたしはいつしか眠っていた。
目覚めた時には、外はすっかり暗くなっていた。わたしたちはタクシーを呼んで、彼が名を告げたレストランへ行き、食事を済ませた。
そして再び別荘に戻ったが、たいした会話もかわさず、テレパシーも使わず、ただ静寂に身をゆだねていている時間の方が長かった。
「あのレストラン、ご夫婦だけで経営してるのね」
「ああ、夏のシーズン中はアルバイトが入るけどね」
「でも、ほんとうにおいしかったわ」
「腕はいいんだ」
「もったいないわね。夏はともかく、冬はお客が少なくて」
「あのふたり、夫婦じゃないんだよ。どちらも妻がいて、夫がいる」
「そうなの。でもすてきな夫婦に見えるわ」
「もう七年になるんだ。あそこで店を開いて」
「そう。ここ、静かね。ひとりで来ている時、怖くない?」
「怖くないさ」
彼はそれでまた黙ってしまった。
「何か話して。静かすぎて、頭のなかが痛くなりそう」
「昔、昔、その昔」
「なあに、それ」
「昔話さ、君のほかには誰も聞いたことのない」
「聞かせて」
「昔、昔、その昔。高い、高い雲の上の神様の国で、心やさしい天使たちがおおぜい、それは平和に、楽しく暮らしていました。でも、ある日のこと、『全能であり全知であるわたしの光を拒む、暗闇の世界である雲の下を見てはいけない。おまえたちは、いつでも太陽と青空とわたしだけを見て暮らすのだ』と、日ごろ、神様からきつく言いつけられていたのに、ひとりの若い天使がその掟を破り、こっそり雲に穴をあけてはるか下の地上を見おろしたのです。
するとどうでしょう。地上では、あちこちで、意味もなく、訳もわからず、たくさんの人間たちが、死んでゆくのです。ひとがひとを殺すも見えました。天使は死ぬことはありません。′だから、姿形はほとんど天使そっくりの入間が死んでゆくのを見るのは、初めてのことでした。あまりに無残な死でした。若い天使は、人間がそんな風に死んでゆくのが悲しくて、思わず大粒の涙をこぼしました。ところがその涙のひとつぶが、ひゅーっと勢いよく地上へ墜ちてゆく間に凍りつき、鋭くとがったガラスのようになって、キラキラ美しく虹色に輝きながらどんどん墜ちていってしまい、おうちの庭で砂遊びしていた三歳の坊やの頭に突き刺さってしまったのです。かわいそうに、坊やは天使にも負けないくらい美しくあどけないほほ笑みを浮かべたまま、死にました。
それを見た若い天使は、自分のせいで坊やが死んでしまったので、気が狂ったように泣き叫んで、雲の果てまで走りました。そして、そこから一気に身を投げたのです。するとどうしたことでしょう。それを見ていたほかの天使たちの顔も暗い悲しみに満ち、誰もが皆、口々に自分があまりにしあわせな天使であることを恥じて、神様が大声で制止するのもきかず、ぞくぞくと、雲の淵から身を投げてしまいました。天使たちが墜ちた場所は、とある海の入江でした。だから、そこはいつしか人間たちに天使の入江と呼ばれるようになったのです。そんな訳で、その日から、雲の上にはひとりの天使もいなくなってしまいました。神様だけが、ひとりさびしく雲の上にいるのです。でも、その神様も老衰でお亡くなりになった、そういう噂もあるようです。だから、今、わたしたちに見えるのは、静かで波ひとつない天使の入江と、そして、青い青い空と白い白い雲だけです」
語り終えると、彼はサイド・ボードからブランデーとグラスをふたつ、取り出した。
「飲まない?」
「ワインくらいしか飲んだことがないの」
「それじゃ探してこようか」
「いいわ。あなたと同じで」
味や香りなどをたしなむ余裕もなく喉をおりていったブランデーが、ここちよく熱かった。仕事もなく、生活の匂いのしないふたりが、こんなにのんきにしていられることが現実とも思えず、わたしは不安な気がした。どこか、何かが変なのだ。
「残酷な話ね」
「何が」
「今の、天使の集団自殺のお話」
「ああ」
「何ていう題名なの」
「天使の入江」
「そう。題名もすてき、内容もすてきだけど、でも残酷だわ。天使の涙で子供を殺すなんて。作者は誰?」
「知らない」
「本で読んだんじゃないの」
彼はわたしの目をみつめた。
《病院に入院している時、開放病棟でいっしよだった患者のひとりが、毎日つぶやいていたんだ》
「そうなの」
《もうひとつ、今度は楽しいのを聞かせようか》
わたしはうなづいた。
《日曜の森の泉のほとり、気だてのやさしいモリアオガエルの小さな小さな喫茶店で、約束通りデイトした、ひと見知りするカタツムリの彼と、ひと見知りするカタツムリの彼女。
木の葉の椅子に小石のテーブル、甘い朝露のジュース。これで二度めのデイトというのに、ひと見知りする彼ら、こんにちは、良いお天気ですねと言ったきり、初対面のようにそっけなく、ちょこんと向き合ったまま坐っている。殻に閉じこもってちっともお話しない。
やや、いいかげんにしてくれよ、あのふたり、朝からあのままだ。マスターのモリアオガエル、ひとごとならず気をもんで、いらいらピョンピョン、いらいらピョンピョン、がに股のままカエル跳び。そのたんびカウンターの天井に頭をぶつけ、ギャッと叫んで目をまわす。
それでも不思議なことに、ひと見知りする彼ら、次の日曜も、その次の日曜も、そのまた次の日曜も、のろのろ、のろのろ、やって来るモリアオガエルの喫茶店。けれどもひと見知りする彼ら、いつまでたっても見知らぬ同志のようによそよそしく角をひっこめあい、そんな風にして、一年が過ぎ、二年が過ぎ、九十九回会ってもまだひと見知りする彼ら、心がやわらぎ、みつめあえるようになるのはいつでも夕暮れ、さよならを言う時刻だった。接吻さえも一度もできなかった、家の遠い彼女が門限に間に合うためには、のろのろ、のろのろ、たっぷり三時間は必要だったから。
やれやれ、同じことのくりかえし、全然進歩がない。あのふたり、千年たってもあのままだ。見ているだけで胃が痛む。顔青ざめたモリアオガエルは、やけくそになって跳びあがる。神様、と叫んで跳びはねて、たんこぶだらけの頭をまたぶつけて失神する。
けれどもひと見知りする彼ら、ひと見知りしないためには、ずっといっしょにいるのがよかった。ずっといっしょにいるためには、結婚するのがいちばんよかった。だから結婚した、ひと見知りする彼ら。もちろん式はひっそりと、ミミズク神父の木の上の教会で、招待客はモリアオガエルただひとり》
彼はふっと息を吸って、ブランデーをかなり多めに口にふくみ、そして飲み下した。
「楽しいわ、これは。これも同じひとから聞いたものなの」
《そう》
それはほんとうに嬉しくなるようなお話だった。だがわたしは、テレパシーがなければ彼とわたしもカタツムリの彼と彼女みたいなものだったろうと思ってしまった。多分、わたしたちはただお互いを一瞥したまま、言葉もかわすことなく、通りすぎていただろう。
《残念なことに、この話にはひとつだけ重大な間違いがあるんだ。カタツムリは雌雄同体で、彼も彼女もなかったと思うよ》
「そんなこと、わたしにはどうでもいいことだわ。かわされる言葉が少なくても何かが通じる、そのことがうれしいの、とても。だから、あなたもテレパシーはやめて話してほしいの、今夜は》
わたしたちの声を出しての会話は、だけど時間を費やす割りには相変わらずぎこちなく終った。
十一時にはなっていなかったが、疲れたわたしは彼に案内されて二階の和室に行った。彼は蒲団をふた組並べて敷いた。寒いからと言い、電気敷き毛布をシーツのしたに入れ、更に階下から温風ヒーターを運んで来て電源を入れた。わたしは彼が持って来てくれた、彼のパジャマに着替えて蒲団にもぐりこんだ。
明りが消えて、静寂に身をゆだねて目を閉じると、やはり自分の体が浮遊しているような感覚がした。隣の蒲団のなかで彼も仰向けになっているはずだったが、わたしには、彼もわたし自身も、まるで見捨てられた役立たずの人工衛星みたいに、それぞれが異なった宇宙空間に浮遊している、そんな風にしか感じられなかった。
眠れないまま長い時間が過ぎたような気がした。
彼がわたしの蒲団にすべりこんで来た。わたしは動かなかった。彼の手がおなかに触れ、そして小さな胸を覆った。それから先、わたしは彼の動きを拒むこともなくじっとしていた。だが、彼は途中でわたしから体を離した。
「どうしたの」
彼は答えなかった。温風ヒーターのかすかな明りが映える彼の横顔は天井を仰いでいた。
「どうしたの」
わたしはもう一度訊いた。彼はわたしをみつめた。
《僕は不能なんだ》
《嘘》
《嘘じゃない。君なら大丈夫かも知れないと思ってたが、やっぱりだめだった。ごめん》
《謝ることなんかないわ。わたし、そんなことどうでもいいもの》
その夜、わたしたちはただ抱きあったまま眠った。
それだけでもわたしは十分に満ち足りていた。
それから一週間して、わたしは彼に会った。だが彼の頼りのテレパシーがその日はまったくきかなかった。異変に討づいた彼は、次に会う日を決めてわたしと早々と別れた。
次に会った時も結果は同じだった。ついにわたしたちはテレパシーでは話せなくなったのかも知れなかった。更に翌週会う約束をしたが、彼はその日一時間待っても現われなかった。
それきり、わたしは彼に会っていない。半月に一度行く病院でも姿をみかけることがなかった。
カタツムリの話、面白いです。
返信削除かえるのマスターが、やきもきして頭をぶつけるところなど、情景が、とても鮮明に浮かんで、思わずにやけてしまいました。
でも、人間の二人はどうなるのだらう。。。
あれは、ジャック・プレヴェールに『葬式に行くカタツムリの歌』というのがありまして、それじゃこちらは「カタツムリの結婚」で行こうと張り合った結果です。
返信削除こちらが本家↓です。
『葬式に行くカタツムリの歌』
J・プレヴェール
いちまいの枯葉の葬式に
二匹のカタツムリが出かけていく
黒い殻をかぶり
角(つの)に喪章をまきつけて
くらがりのなかへ出かけていく
すてきな秋の日暮れどき
ところが いやはや 行き着くと
もう春だ
死んでいた葉が
みごと生きかえっていた
二匹のカタツムリは
すごくがっかり
だが太陽がついている
どうぞどうぞ
と太陽は彼らに話す
お掛けください
よろしかったら
ビールをどうぞ
お気に召すなら
どうぞ パリ行き観光バスを
今夜発(た)ちます
旅行気分になれましょう
けれど喪服は脱いでください
と申しますのも
喪服は見た目に暗くうつるし
故人の思い出話をけがすようなものなので
それはかなしいこと 楽しくはない
色ものに着替えてください
あなたの生活の色どりに
すると歌いだす
声をかぎりに歌いだす
けものたちみんなが
木々が 植物が
いのちあるほんものの歌
夏の歌を
そしてみんなが酒を飲み
みんなが乾杯し
すごく愉快な宵
愉快な夏の宵になる
そして二匹のカタツムリは
自分の家へ帰っていく
たらふく飲んで
ひどく感激し
ひどく幸福な思いになって
ちょっとばかりふらつくが
月は彼らを見まもっている
あの空の高い所で。
(嶋岡晨訳・飯塚書店・プレヴェール詩集より)