2011年11月28日月曜日

だれも住んでいない街

 川沿いの道から山手へと私は歩いていた。
 かつてはこの町一番の繁華街だったこの通りも、いつの間にか店をたたんだ商店が続くシャッター通りになり、そして今ではその後継者も管理者も居なくなった古い商店が一軒、また一軒と取り壊されて更地となり、とうとう更地通りになってしまった。
 直線にして数百mの商店街の道路上にまったく人影が見えない。
 朝の9時頃は介護サービス施設のデイ・サービス送迎車ばかりが行き交っているが、その一時間後は人影もなく、犬や猫の姿さえ見えないゴースト・タウンというか、人間はだれも住んでいない町になってしまうのだ。そのゴースト商店街を通りぬけてさらに歩き続けると、やがて昭和四十年代に造成分譲された住宅地にさしかかる。住民はその当時もっとも稼ぎの多かった公務員や会社員だが、その彼らが子育てを終えてからはずいぶんひっそりしてしまって、碁盤の目のように整然とした道路には人影もなければ犬や猫の姿もない。
 そういえば、この団地に中学時代の恩師が住んでいるはずだったが、生死の消息は耳にしたことが無い。
 どこからかカナカナの鳴く音が聞こえ、私は軽トラックも入れない狭い路地に迷い込んでいた。
「何だかな......」
 そういう声に導かれるようにして、私は一軒の古びた木造一階建ての家の木製の引き戸の玄関に足を踏み入れていた。
「こんなあばら家ですから遠慮せずに上がって下さい」
 という声に呼び込まれるようにして、私はそのあばら家の玄関から居間を通過し、その奥の寝室に入っていた。八十歳なのか九十歳なのか百歳なのか判断出来そうもない老人がベッドに横たわっていた。私がベッドの横に置かれたパイプ椅子に腰を下ろすと、酸素を補給する透明なチューブを鼻の下に固定している老人はつぶやいた。
「あとはもう死ぬだけですな。これ以上生きていてもしようがない」
「あれ、金沢先生じゃありませんか」
「いや、わしは金沢じゃなくて小池だ」
「ああ。小池先生でしたか。それじゃ、人違いですね」
「君は自分の担任の名を忘れたのか、相変わらず記憶力が悪いな」
「私の担任は金沢先生でした」
「今日は山下さんが来ない日でね」
「誰ですか、山下さんって」
「ヘルパーの山下さんに決まってるだろ。お前もこの間挨拶したじゃないか」
「え?」
「私はあまり頻繁に来られませんが、よろしくお願いしますって言ってたじゃないか。お前が帰ったあとでな、山下さんはなかなか優しそうなお子さんですねなんて世辞を言っておったぞ。お前は見た目がいいから得をしている」
 いつの間にか私は、老人の教え子から息子になっていた。
 私は椅子から立って言った。
「それじゃ、帰ります」
「帰る前に、わしを死なせてくれんかな」
 応えずに玄関から庭先へと出て、ふと振り返ると玄関の右端に「小池忠正」という表札がぶら下がっていた。
 

2011年11月27日日曜日

ちょっと強めの決意

 どうも私の書くものは解りにくいらしい。自分でもそれが判っているからあまり書きたくないのだが。

 昔、小学生の頃、めったに学校を休むことがなかったが、たまたま風邪で一日休んで寝ていて、布団のなかで、一日休んだだけで明日も明後日も休んでしまって、ずっと学校へ行かなくなる自分を想像し、翌日まだ熱が十分に下がらないのに無理に登校したことがあった。そうしないとずっと学校を休んでしまうような気がしたからだった。
 こういうブログも、毎日書いていると毎日書くのが当たり前になるし、書かないでいると書かないのが当たり前になる。ブログだけでなく小説も、書けば書くのがあたりまえにあんり、書かなければ書かないのが当たり前になる。
 どちらも人間にとっては生のささやかな習慣の一種なのであって、それを破るのにはちょっと強めの決意が必要になる。




 先日、ネットショップにダッタンそば粉を注文した。この春から毎晩お湯に溶いて飲んでいたが、いつの間にか飲むのを忘れていて、十日ほど前に頭痛がして血圧を計測したら下が95だった。これはいけないと思って冷凍庫に入っていたダッタンそば粉を再び飲み始めたが、もうあまり無いので1kg入れを1袋注文した。仮に一回に5gを溶いて飲むとして、1kgあれば200日分なので十分である。インスタントコーヒーのビンに入れた残りはガスバリア袋に入れて口を固く閉じ、冷凍庫で保存しておく。
 心筋梗塞で死ぬのは構わないが、脳梗塞で生きながらえるのは御免なので、とりあえず毛細血管を強化しておきたいと考えてのことだが、もうそんなことを考える歳になってしまった
 
 

2011年11月15日火曜日

苦手なSNSですが

 アカウントを取得したまま、使い方も分からず「友だち」検索も出来ないでそのまま放置してあったFacebookに少し「友だち」が増えた。
 TwitterにせよFacebookにせよ、そうやってひととつながるのが下手な私には苦手なのだけど、さてどうなることやら。
 そういえば先ほど、いつもの海外の視聴サイトに行ってBill Evansの Waltz for debby というアルバムを聴きはじめ、何気なく曲名が表示されているその真下に目をやって驚きました。
 Facebookのソバの花を背景にした私の写真が表示されていて、コメントを書き込めるようになっているではありませんか。
 すごい。
 ということで、ちょっとコメントを書いて、それからFacebookを開いてみたら、コメントがちゃんと表示されていました。
 でも、なんだか少し怖いですね。自分のパソコンがどこまでも追跡されている感じで。


2011年11月13日日曜日

恐るべきWord

 ようやくボランティアでレイアウトしている雑誌のレイアウトが終了。月曜日には印刷会社へデータを送る段取りになる。
 それにしてもWordは怖い。託された原稿のほとんどはWordでひとりだけtxtファイルだが、Word原稿のひとつに矢印の図形を使ったものがあった。それをWordで開いたのだが、どうもその図形が納得できないのでぎりぎりだが執筆者に確認を入れさせてみた。するとやはり、図形が90度回転してしまっていて、縦の矢印が横に、横向きの矢印が縦になっていた。
 恐るべきWord! 同じWordを使っていながら、それぞれのパソコンに接続されているプリンタが異なるとレイアウトが崩れることがあるのだ。

 ちなみにそのことに気づいた私は、途中から一太郎に乗り換えました。

2011年11月10日木曜日

佐久間慶子『川向こうの預言者』

 「繋」6号(大阪府・10月10日発行)

 雑誌を送っていただいてすぐに読み始めたのだったけれど、じきに日常の多忙に紛れて中断し、この頃になってようやく読了した。
 ただし、末尾に「それぞれの修行編・了」と記されているので、そうか、これで終わりではなく、更に別の編が続くのだなと思うと感想が書きにくくなったが、楽しみが先送りされてわくわくもし、以下、思うがままに書き残しておこうと思う。

 先ずは、「百花繚乱...」といい「川向こうの預言者」といい、佐久間さんて何てデフォルメされた存在としての人間を描くのが上手なんだと感心した。
 そしてこの二作を拝読しながら、1932年にアメリカで制作・公開された『フリークス』 (Freaks)という映画を思い出した。
 この映画は文字通りの肉体的畸形を負っている彼や彼女たちが主人公であったのだが、佐久間さんの「川向こうの預言者」に登場しているのは、そういう肉体的・物理的畸形を負った彼や彼女たちではない。
 いや、やや常識的数値を超えた肥満や痩せである彼女や彼が登場してはいるのだが、そんなことは問題ではない。これに近い肥満や痩せは現実に存在している。
 問題は、記録する者として選ばれた「わたし」が直面した、この宗教団体とも邪宗とも言えないほどの小さな怪しい宗教グループの構成員のひとりひとり、すなわち肥満体の「預言者デブリ」、あるいは今にも死にそうに痩せた「修行者ガリリ」、あるいはアリアドネーさながら独特の迷宮ダンスを踊る「神の踊り子フルフル」、意味があって無い言葉を発し連ねる「空洞詩人カラン」、そんな彼らがどことなくだが、決定的に普通の人間ではないことである。
 彼らは、映画「フリークス」の彼らのような肉体的・物理的畸形としてのフリークスでは決してない。けれども、彼らは人間という名の存在としては不確かな、畸形=フリークスである。
 にもかかわらずである。そんなフリークスな彼らが何と生き生きと描かれていることか。私が佐久間慶子さんを賛嘆するのは、このような現実には在りない畸形=フリークスとしての人間を活写していることである。
 一人でも多くの書き手=読み手に読んで欲しい小説であることは間違いない。


きれいは汚い、汚いはきれい

 読みかけのまま中断していた小説を読了。感想を書きたいのだがまだ続きがあるらしいし、一種の存在論としてのフリークス(畸形)という論じ方になるので、書き方が難しく、簡単には書けそうもない。
 それにしても、女性がこういう小説を書くというのはある種の脅威であり、また刺激的だ。彼女が書いた小説も十二分にフリークスな小説でいったいどんな評価をされているか気にかかっている。


111109iceburg.jpg

 昨日、今日の寒さにもかかわらず、庭の片隅で咲いているアイスバーグという名の白薔薇。
 この端正かつ純白な美しさと、畸形的存在としての人間。
 今更ながら、ハムレットのなかの「To be, or not to be」に負けず劣らずの、シェイクスピアの『マクベス』のなかの「きれいは汚い。汚いはきれい」という魔女たちのセリフが思い出される。
 人間は天使でありつつ悪魔である。そのせめぎあいを書いてこそ文学。

2011年11月9日水曜日

貧者に不可欠のツール

 この頃またここでJazz聴き放題。ジャンル別、年代別、楽器別などなど。
 今夜はどこをクリックしようか。
 New Orleans Jazzもこんなに洗練されてしまっているんだ。

 そしてここに行けば様々なアーティストのアルバムが聴き放題。
 今やインターネットは、私のような貧者に不可欠のツールであります。

2011年11月8日火曜日

ストレス

 ようやく自分たちの雑誌が出たと思ったら、ほかの雑誌のレイアウトが待っていた。
 何か、ストレスを感じる。多分、原稿の依頼の仕方が下手なのだと思う。今は誰もがパソコンを使って書く時代なのだから、字数・行数・段組・頁数などをきちんと伝えて依頼すればいいのに、アバウトな依頼をするから、さあ収拾がつきません。

 そういえば、あるひとの小説を読みかけのままソバの収穫やらにまぎれて中断していた。続きを読もう。
 

2011年11月7日月曜日

web版をアップロード

文芸誌「出現」第3号・web版をアップロードしました。掲載作品はpdfファイルですので印刷して読むことも出来ます。

文芸誌「出現」第3号

2011年11月4日金曜日

発送作業

 ようやく雑誌の発送作業が出来た。個人発送分、会で発送する分をメール便で明日発送。
 とはいえ、新しい雑誌にして表紙をカラー化したのを機会に発行部数を減らしたので、送付先はかなり絞った。
 まだ、web版をアップどころか、まだファイルが出来ていない。といっても、これもHTML版はやめてpdf版だけなので、一太郎からpdfに書き出しするだけなので、そう時間はかからない。でも、今日は朝からずっと体を動かし放しなので、明日にしよう。