2001年7月27日金曜日
ワープロのフォーマット
スタインベックの短編集が見つからないまま、かつてジョージ・オウエルの「1984」と「動物農場」について書いた文章を探しはじめたが、これも見つからない。パソコンどころか、初代のワープロで書いたものなので、たとえばフロッピーがあってもフォーマットが1DD形式なので、当のワープロがすでに市の埋め立て地の地中深くにある以上は読み出せない。暑い夏のさなかにもう一度初めから書き出すのはつらい。
2001年7月25日水曜日
なんとか夏ばてから回復
スタインベックの短編で「白いうずら」というのがあって、読み直したいと思ったがかんじんの本が見つからない。文庫本なのでどこにまぎれたか? 見つからないとなおさら読みたくなる。明日、もう一度探してみよう。
2001年7月20日金曜日
しろうとDTP
ふう。ようやく、しろうとDTPが終わった。いずれにしてもWINDOWS・WARDでDTPはタイヘンだ。かといってページ・レイアウト・ソフトは高い。それにCPUやメモリーももっとUPしなくてはきつい。何度も再起動しながら、騙し騙しの作業。テキストだけだったら楽なのだが、写真や表紙絵などの画像が入って、しかもそれが印刷用なのでファイルサイズがむちゃくちゃ大きくなる。で、パソコンが止まりそうになる。
今日も友人からの手紙にこう書かれていた。
「時間を有効に使って、小説をたくさん書いて下さい」
うーん。ほんとうはぼくは小説を書くのが好きじゃないのかもしれない、と思った。自分が書いたもの、書くものに対してとてもネガティブだし。何がいやだって、自分が書いたものを読むことほどいやなことはない。こういう人間が書くこと自体、無理のかたまりだ。
この頃、ちょいとメンタルなエネルギーが低下しているようだ。今夜は早く寝よう。
今日も友人からの手紙にこう書かれていた。
「時間を有効に使って、小説をたくさん書いて下さい」
うーん。ほんとうはぼくは小説を書くのが好きじゃないのかもしれない、と思った。自分が書いたもの、書くものに対してとてもネガティブだし。何がいやだって、自分が書いたものを読むことほどいやなことはない。こういう人間が書くこと自体、無理のかたまりだ。
この頃、ちょいとメンタルなエネルギーが低下しているようだ。今夜は早く寝よう。
2001年7月12日木曜日
気がつけば不思議
小学校時代に何が嫌いといって「日記」ほど嫌いなものはなかった。夏休み、冬休み、最後まで残っていたのが日記。仕方なくまとめて、しなかったことをいかにもしたかのように書いた。泳いだとか、カブトムシを捕ったとか、何ちゃんと遊んだとか。つまり、日記とは実際にしたことを書かなければいけないと思っていたのだった。三日坊主どころか、一日で休みのすべてを書いて澄ましていた。(昔から嘘つきだったのだ)
そんな人間がここではずいぶん長く続いている。
遅まきながら、永井荷風の「断腸亭日乗」を読んでから日記が単なる行動記録でないことを了解した、その賜物か?
人間を外側から書く小説は、一個の人間の言動を書くことで人間の真の姿を描き出そうとする。人間を内側から書く小説は、一個の人間の思考や感覚の働きを描くことで真の人間の姿を描き出そうとする。
前者は小説のオーソドックスであり、後者は「意識の流れ」に代表されるタイプの小説。
どちらから攻めるにしても、本当の人間の姿、本当の世界を提示できればいいのだと思う。
個を描いて個を描くに終始しては誰にも理解、共感されない。
徹底して個を描くことで、すべてのひとに通じる存在としての共通項を獲得しなければ、文学が持つ普遍的価値はありえない。
「文学」なり「小説」、それを構成する「言葉」は、誰ひとり同じではないという固有の姿を描きつつ、それを、同時に、同じ人間として共有する存在のエレメントとして提示しなければ、文學とか小説は存在の通底器(ブルトンの言う)、水準器にはなりえないだろう。
暑いので汗を流し、缶ビールを飲んでパソコンの電源を入れたのが間違いの元で、かなり青臭いことを書いてしまった。やはり、今日ぼくは仕事した、暑かったとでも書いた方が無難だったような気がする。
明日の晩には削除したくなるだろうことが、ほぼ確実。
そんな人間がここではずいぶん長く続いている。
遅まきながら、永井荷風の「断腸亭日乗」を読んでから日記が単なる行動記録でないことを了解した、その賜物か?
人間を外側から書く小説は、一個の人間の言動を書くことで人間の真の姿を描き出そうとする。人間を内側から書く小説は、一個の人間の思考や感覚の働きを描くことで真の人間の姿を描き出そうとする。
前者は小説のオーソドックスであり、後者は「意識の流れ」に代表されるタイプの小説。
どちらから攻めるにしても、本当の人間の姿、本当の世界を提示できればいいのだと思う。
個を描いて個を描くに終始しては誰にも理解、共感されない。
徹底して個を描くことで、すべてのひとに通じる存在としての共通項を獲得しなければ、文学が持つ普遍的価値はありえない。
「文学」なり「小説」、それを構成する「言葉」は、誰ひとり同じではないという固有の姿を描きつつ、それを、同時に、同じ人間として共有する存在のエレメントとして提示しなければ、文學とか小説は存在の通底器(ブルトンの言う)、水準器にはなりえないだろう。
暑いので汗を流し、缶ビールを飲んでパソコンの電源を入れたのが間違いの元で、かなり青臭いことを書いてしまった。やはり、今日ぼくは仕事した、暑かったとでも書いた方が無難だったような気がする。
明日の晩には削除したくなるだろうことが、ほぼ確実。
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