2001年5月31日木曜日

ヴァージョン・アップも考え物

パソコンを使って同人誌の編集レイアウトをしているのだが、本格的なレイアウトソフトは使わずにWARDで済ませて来た。が、WARD98を2000に変えたらどうも怪しい動きをする。メモリーを増設してとりあえずは十分なはずなのにメモリが不足などという表示が出たり、98だったら何でもなかったことなのに強制終了させられたりさんざんである。いっそ98に戻そうかとさえ思う。だが、98にも納得のいかない動きはあった。ルビは98の方が位置を微妙に調整できてよかったが、2000ではそれが出来ない。ヴァージョン・アップも考え物だ。

2001年5月30日水曜日

この沈黙は不在の向こうに生きのびる

昨夜は頭痛と倦怠感と眠気に襲われて20:00には床に入ってしまった。「馬葡萄の焼酎+ブランデー漬け」を飲み、赤ん坊と同じくらいの睡眠時間をとったら、なんとか元気回復。

久しぶりにE・M・シオランの『生誕の災厄』をぱらぱらめくっていて、ふと、次のような言葉が目にとまった。
……あらゆる罪を犯した。父親となる罪だけを除いて。うーん。おれは、シオランが犯さなかった罪まで犯してたんだ、と。
でもまぁ、「毒をくらわば皿までも」という言葉もあり、結婚しないつもりが結婚し、子供を作らないつもりが作ってしまい、「なしくずしの死」ならぬ「なしくずしの生」である。

人間の生を否定し去ろうとする現象や思念。
戦うよりうなづいてしまう方がずっと楽だし、理にも適っているような気がするのだけど。

あるホーム・ページの掲示板で、ホーム・ページの名の由来を質問されて、ウェブ・マスターがF・サガンの同名の小説をあげ、更にその題名の元であるPaul Eluardの詩の原詩と訳を掲げられているのを見て、Paul Eluardをなつかしく思い出した。安東次男訳の「愛すなわち詩」しか読んでいないのだが、今でも忘れないでいるフレーズがいくつもある。

……ぼくらの眼はたがいに光と   光を投げ返す、それは
もう相手を見わけられなくなった沈黙だ
この沈黙は不在の向こうに生きのびる

……ぼくの手からおまえの眼へ
沈黙が旅をする

……ひとつの貌が 世界中の名に応えること
それがほんとうに必要だった

今夜はポエジーにどっぷり浸かって眠れそうだ。

2001年5月28日月曜日

冷める憤り

枯れ菊や日々にさめゆくいきどほり

同人誌の埋め草に何回か書いた萩原朔太郎の句。その直筆の色紙を飯田市のHさんが所有している。
それを拝見した時に同行した友人と帰路交わした会話
「あれ、いいな。ほしいね」
「まさか、Hさんちに泥棒に入るわけには」
「借りてコピーしようか?」
「コピーでもいいですね」

枯れ菊と、日々にさめゆく憤り。
どんな憤りか?

生きていることの、様々な不都合と憤り。

2001年5月27日日曜日

自分に厳しく他者には優しく

だいたいがひとって、自分に優しく他者に厳しい視線を所有していることが多い。同一の視線で自己も他者も見ることができるひとは少ないと思うのだが、作家はそれができないと困る。同人誌で私小説を書くひとの作品を読んでいてそう思うことが多い。どうも自分に優しすぎる。他者には結構冷静客観的な視線を向けているくせに、対象が自分になるととたんに甘くなる。
小説を書くときは反対だと思う。ことに私小説のように作家自身が作品内に顔を出す場合は、自分には厳しく、他者には優しい視線を向けないと。
うーん。なんか訳の分からんことを書いている。脳の働きが悪い。

2001年5月22日火曜日

愛の位相(異相?)

人間の愛というのはおかしなものである。いや人間そのものがちょっとヘンなのかも知れない。
「わたしはあなたを愛してます」とはいうものの、どうも眉唾な気がする。
正確には「わたしは、わたしを愛してくれるあなたを愛してます」と。
だから相手が自分を愛さない場合は愛さない。愛が相対的なんだ。それどころか憎んだりもするし、あげく殺したりもする。うーん。結局は相手を愛しているんじゃなくて、自分を愛してるだけなんだ。

2001年5月20日日曜日

ありがとう

「真実」とは何だろう?
「真実」が必ずしも人を生かすものではなく、むしろ反対に人が生きることを邪魔するものだとしたら?
気づかぬ振りをしてそっと通り過ぎる?  小説なんか書かず読まず、何も考えず、感じずに?
(正確には覚えていないが、狂歌にこんなのがあった。
ひとの子は寝て起きて食って厠行き子は親になり子は親になり)

「ミリンダ王の問い」(平凡社・東洋文庫)にはこう書かれていて、ニーチェも「悲劇の誕生」でそれを拝借して命題としている。
……「人間にとって至善は?」……「生まれなかったこと。次善は、今すぐ死ぬこと」
うーん、生きるのも死ぬのも同じくらい難しい。

……悲しみはきはまりの果て安息に入ると封筒のなかほの明るし……浜田到5月21日同人誌やホームページのレイアウトをする関係から、それらの行間・字間がとても気にかかる。プリント・アウトされた原稿やネット上に公開された小説などを読むのに、もっとも閉口するのが行間・字間のバランスがまったく考慮されていないケースである。
字間が間延びしていて行間が狭い、これが最悪で読みにくいったらありゃしない。気が弱いから口に出して言わずにじっと我慢して読むのだが、ほんとはつらい。
とはいえ、雑誌のレイアウトもホーム・ページのレイアウトも誰にも教わらずに自己流・無手勝流でやっているのだから、あまりひとのことは言えない。

ボリス・ヴィアンの「赤い草」とチェーホフの「名の日の祝い」を読み直したいと思いつつ、日が過ぎている。あの時代にチェーホフが女性の視点であのような小説を書いたことは驚きである。フェミニスト・チェーホフ。

また就寝前に荷風の「断腸亭日乗」を少しずつ読みたい。
埴谷さんの「死霊」も気にかかっているが、あれを読むと妙に眠気が。頭が悪いせいでそうなのかと思いこんでいたが、ふとそうではないような気がした。実は埴谷さんの文章は小説の文章としてはかなりの悪文なんだと。悪文であっても「死霊」の価値はちっとも下がらないのだけど、バッハの無限カノンみたいに果てしない文章はやはり眠気を誘う。

しかし、それにしてもひとは自我から抜けられないものだな、と。
こうして書かれる文章のすべてが僕の影であって、僕自身ではないのだ。
「kojimaさんが書くものはものすごくネガティヴだ。けれども、背後に確固たるポジティヴを所有していなければ、ネガティヴな世界は書けない」と、長いつきあいの年下の文学友だちは言ってくれた。
それだけじゃないんだけどね、ありがとう。

2001年5月1日火曜日

純文学アーティストリング

トビさんという方が最近始められたウェブリング「純文学アーティストリング」に参加することになった。
ネット上でずいぶん肩身の狭い思いをしている純文系ホームページの輪である。
「文学サイト長野」も当初は「純文学WEB」を標榜した。今更「純文学」などという恥ずかしくもある言葉を敢えて用いるのには理由がある。インターネットは今や個人のあらゆる表現を可能にして盛んであるが、「文学」、「小説」というカテゴリーで検索しても、たいがいは楽しい、明るい、面白いといったホームページが圧倒的に多い。
だからこそ、純文学を冠することになる。