哀しみはきはまりの果て安息に入ると封筒の中ほの明るし 浜田到
(検索にかけてみたら、浜田到ってもう忘れ去られた歌人なのでした。塚本邦雄さんに光を当てられて一瞬の光芒を放って哀しみの海の海面下に沈んだ歌人? いや、短歌界ではいまだに著名な歌人だと思いますが。時は百代の過客にして……ひともその言葉も忘れ去られるのは必定。悲しいですね)
でも、この歌好きだなあ。哀しみが極まりの果てに安息に入ると封筒の中がほの明るいんですよ! ね、あなた。
(追記:名前を間違えていました。(^_^;) 浜田至ではなく浜田到でした)
ところで、勝手にBookmarkさせていただいているchloeさんのブログに、藤枝静男の『空気頭』とミシェル・レリスの『オーロラ』を読まれたと書かれていた。
『空気頭』は、日本的私小説と超虚構小説というむしろ敵対するもの同志が合体した、日本だけでなく世界にも珍しい、いわば怪物デミウルゴスの小説。
だれか、『空気頭論』を書きませんか?
それからミシェル・レリス。なぜか、『オーロラ』、『癲癇』(どちらもオバQならぬ小田Qさんの思潮社刊で、ダンボールを使った函入り)、『成熟の年齢』、『夜なき夜、昼なき昼』(どちらも今は無き、懐かしの現代思潮社刊……今は現代思潮新社)の4冊が手元に。
ミシェル・レリス。カフカのようでカフカでない。カフカでないようでカフカのような、詩に限りなく近い散文を書き、限りなく散文に近い詩を書いたシュール・レアリスト?
クロエさんは『オーロラ』をアブサンをなめながら読んだという。大正解。昔、アブサンをなめずに飲んで腰を抜かしたことがあります。安い軽井沢倶楽部などストレートで飲みながら、詩に限りなく近い散文または限りなく散文に近い詩を、読んでみましょう。
気が狂ったように、難解な翻訳書が洪水のように出版された1970年前後。
思い出すのも忌々しく、また同時に輝かしくもある矛盾に満ちた時代でした。
Nさんの家で長年生活をともにして来た犬のハチが一昨日亡くなったという。
人であれ、犬であれ、身近な存在が命尽きるまで付き添うタイヘンさは同じである。
今まであたりまえにいた者がどこにもいない、悲しみ以外に何もない空っぽ。
供養は「忘れない」こと。
せめて自分が生きている間は、自分の脳裏に彼らが生きて泣いたり笑ったりしていた時の表情を忘れないこと。