2009年2月28日土曜日

ただのオタク

 この頃入り浸っているのは実はここ。 
 音楽の試聴あり、動画(YouTubeが多い)、そしてインターネットラジオもあり、昨夜、Chansons Françaisesというシャンソン専門ラジオを発見。
 ちなみに私はフランス語はまったくダメですが、感で動き回っています。

 動画を見ているうちに、「ボリス・ヴィアンの憤り」の音質の良い動画があり、それからジョーン・バエズがフランス語でヴィアンの「すべての子供たち」と「脱走兵」、プレヴェールの「枯葉」を歌っているのを発見。これは貴重であるから早速外付けHDDに逃がし、それからITune、iPodと移動。
 iTuneにすでに375曲も入ってしまい、1GBに迫る勢いなので、iTuneに入れる曲はすべて外付けHDDに入れて、そこからiTuneに移し、iPodに同期させるという風にした。パソコン内に1GBもの音楽ファイルを置いておくと、どんどん動作が重くなってしまいます。


ジョーン・バエズ「すべての子供たちに」


 締め切りが迫ると、なぜか意識的に文学話題を避けている感じです。

2009年2月26日木曜日

運が悪い

 作品名、作者名はここに表記しませんが、昨夜遅くにデジタル文学館38作目をアップロード。雑誌の方の一行字数が一律でなく追い込みをする設定になっていたのか、字数行数を同じに設定しているにもかかわらず微妙にずれてしまうので、修正しながら進めた。別に掲載誌とそっくり同じレイアウトにする必要もないのだけど。
 校正しながらという変則的な読み方だが、女性性について理科系的生物学的方向からのアプローチがあって新鮮だった。
 登場人物のひとり(女性)が、男とはダメだが同性だったらその気になるかもしれないという発言をしていたが、そういう危ない発言が裏打ちされるだけのものが書かれているので、奇異ではない。むしろもっと先へ書き進んで欲しいくらい。2002年下半期の文學界同人雑誌評の優秀作として転載された作品。(今になって言うのも変ですが、文學界同人雑誌評も捨てたものではありません、でした)

 昨日は仕事中に2トントラックがパンクする不運。交通量が多い国道であるから難儀したが、タイヤを締めているナットが拳骨を握り締めたくらいの大きさなので自分でスペアタイヤに交換するのを断念し、修理工場に電話した。
 下校途中の小学校低学年のこどもたちが、「おじちゃん、どうしたの?」とか、「頑張ってね」とか言いながら通り過ぎてゆく。小学生ってこんなに純真で可愛かったんだと再認識しました。
 なるほど、あのでかいナット、ああやって緩めるのでしたか。単純な梃子の原理ですね。勉強になりました。次回からは自分で交換できるかもしれません。
 外したタイヤを見ると、五寸釘より太い金属棒が突き刺さっておりました(泣)。

 
 

2009年2月24日火曜日

スキャニング

 デジタル文学館38作目の作品推薦があり、掲載誌が到着したのでスキャニング。見開き2頁ずつスキャナーにかけたものが19枚。それをOCRソフトにかけてテキスト・データとする。最近のOCRソフトは、解像度を最大に設定しておけば読み取りミスが劇的に少なく、作業が早い。

2009年2月23日月曜日

相変わらず

 わが家の年寄りはむやみに寒い寒いと言うが、今年も暖冬である。
 一週間ほど前にフキノトウを採って来たら、あればありったけ使ってしまう奥様にすべて天麩羅に揚げられてしまったので、春の楽しみである「蕗味噌」を製造するために、今日、また暖かい日中に採りに畑へ行った。
090222oyamabokutchi.jpg ついでに、土がまったく凍っていないのでヤマゴボウ(食用のモリアザミ)も掘った。これは薄くスライスして「醤油漬け」と「味噌漬けの浅漬け」にする。
 更についでに見れば、昨秋植え替えしたオヤマボクチも枯葉を除けてみれば新芽が顔を見せている。人間を見ていると生きているのがあまり良いこととは思えないのだが、植物の春夏秋冬を見ていると、人間にもまた春夏秋冬があるのだと思えて、少しは赦せる気持ちになる。




 相変わらずヨーロッパの試聴サイトに行って、厚かましくも30秒ではないフルトラックの曲ばかりを延々試聴。
 J・プレヴェールの3枚組みCDで1枚目20曲、2枚目は詩の朗読20、3枚目もボーナスとやらで朗読18、合計58曲(朗読)。
 セルジュ・ゲンスブールが唄うプレヴェール12曲そっくり。
 ミシェル・ヴァニーナという歌手が唄うプレヴェールを4曲。
 それから、セルジュ・レジアニがボリス・ヴィアンの詩を唄っているCDの12曲をそっくり聴いた。

2009年2月21日土曜日

生きるも死ぬも

 問題勃発。ひとりで解決できることではないので、、家庭裁判所へ行き、相談、書類を貰って帰宅。出来るだけ早めに書類をそろえて提出することにする。それが済んだら、もう一度同じことをしなければならない。
 生きるも死ぬも厄介なことであります。(あ、くれぐれも(!!)、離婚問題ではありません、(^_^;))

 またパソコンの電源のご機嫌悪し。電源コードだけでなく、ピンなどの本体の接続部分に問題があるらしい。騙し騙し使っていて、これでダメとなったら買い替えするほかなし。ということで、外付けHDへのバックアップは毎日1回はすることにした。
 音楽ファイルや動画ファイルは全部でGB級の容量なので、皆外付けに移動。

 創作、5行削って6行書いた。プラスマイナスするとたった1行。こりゃ、あかん。

 長男帰省。400ccのオートバイを買うのだと。私は知らんと思ったら、こちらに置いておくので、名義を貸せと。嫌じゃ。(でも夏などオートバイで1週間くらい気ままに旅したい気持ち、解らないでもなし......)

2009年2月20日金曜日

小説から後退

 タイトル・バナーの背景画像を変更したら、アクセスが減ったような気がするのは、気のせい?
 見ようによっては水の中を流れてゆくオフェーリアのような感じがしないでもありませんが。

 しばらく前に入手したル・クレジオの「ロンドその他の三面記事」、「春その他の季節」。まだ読むのが1編だけで停まっている。
 それから昔の「愛する大地」。ジョイスの「ダブリン市民」。井上光晴「だれかの関係」。
 これらを手元に置いてイメージトレーニングのつもり。イメージトレーニングばっかりで、ちっとも前に進みませんが。
 私は、どうも小説から後退して、後ろを振り返ったら叙事詩という地点まで先祖帰りしたいのかもしれない、(ーー;)

 

2009年2月19日木曜日

Wah、ワサビのもやし

090218wasabimoyashi.jpg

 昨年の夏と秋、冷蔵庫にワサビとオヤマボクチの種を入れておいたのを、今日、ふと思い出した。
 オヤマボクチは昨年秋だが、ワサビは確か昨年6月に採種精製し、乾燥させてはいけないというので7月に冷蔵庫に入れたまま、放置してあった。産地によっては秋播きするらしいが、極寒のこの地では秋播きは無理なので、春まで待つつもりだった。
 タッパーウェアに湿気を加えたピートモスを詰め、その真ん中に、ワサビの種やオヤマボクチの種を入れた不織布の袋を入れ、蓋をして冷蔵庫で保存しておいた。それがどうなったかと、開いてみたら、すでにワサビの芽が出ていて、一部、かくのごとくもやし状態。
 仕方ないので箱播きしてみた。しかし、まだ寒いので保温がタイヘン。電熱マットとか、保温マットとか。
 オヤマボクチは昨年、2月播きは発芽率が低く、3月播きがびっしり発芽したので、まだ冷蔵庫に入れたままにしておく。というか、昨年あれだけ植えたので、今年は不要なのだが。




 縦書き表示も出来るテキスト・エディター、VerticalEditorのヴァージョンが2.43になっていたので更新。前のは2.32だった。同人の原稿の400字詰め枚数を確認するのにこのテキスト・エディターを使うことがある。原稿をテキスト・ファイルにしておいて、それをこのテキスト・エディターの400字詰め原稿用紙モードで開けば、400字詰め何枚と何行か、目できっちり確認できる。
 それにしても、まだ同人誌仕様の22行26文字設定で1枚と1行で停止したまま動かない。
 ストーリーとか筋にこだわっているのではないので、明らかに文体、あるいはこの世をどう見るかという視点の問題である。
 こうなれば、文体≒視点を換えながら、気に入った書き出しが書けるまで十でも二十でも試行するほかないのか。

 


2009年2月18日水曜日

パブリック・ドメイン頌

 ブログのタイトルバックを替えた。
 女性が泉の水に浮遊しているのを水中から撮影したものである。なぜか浮遊する女性のイメージが好きで、検索中にたまたまこの写真に遭遇した。1947年という発表年にすっかり著作権が切れているような錯覚を起こし、一度背景として貼り付けた。
 しかし気になってこのトーニ・フリッセルというファッション・フォトグラファーの名前を検索してみたら、 Wikipediaに載っている著名なカメラマンであり、しかも亡くなったのが1988年であるから、当然のこと著作権はまだ存在している。慌てて、背景を以前のものに戻した。

 しかし、なんとなく諦めがつかないので、先ほどさらに検索を続行していたら、Wikipediaのこのページを発見。しかもずーっと下の方へ読み進めてゆくと、
「このファイルは、それがトーニ・フリッセルによってアメリカ合衆国国会図書館に贈られたので、パブリック・ドメインである。[1]による使い方の制限なし」
 という表記があるではありませんか。
 という次第でまた背景に設定、ありがたく、使わせていただきます。


2009年2月17日火曜日

この果てしなく無限カノン的ドライブ・チェック

 今日は親しくしていただいているT屋さんの102歳のお母さんの葬儀。
 浅間が噴火したら火山弾が飛んで来て頭を直撃されそうなくらい接近した場所に、今月になって新しく出来たばかりの斎場まで行って、お焼香させていただいた。


 わが家から6軒ほど離れた、同い年のT君が厄介なものを持ち込んで来た。昨夜の赤提灯の無尽の席でそういう話は聞いたが、まさか、今日持ち込まれるとは思ってもいなかった。
 リカバリーに失敗したVAIOのデスクトップ・パソコンである。
 電源を入れてもBIOSの画面が出るだけでF1かF2キーを押せと指示している。どちらを試みてもダメなのでそのまま返そうと思ったが、ふと、リカバリーをしている途中で電源を切ったという話を思い出したので、いったん電源を入れてリカバリーCDの1枚目を挿入し、電源を切って、もう一度電源を入れてみた。それでまたBIOSの設定画面が出るのでF2ではなくF1を押してみたら、リカバリーが始まった。パーティションはいじらず、Cドライブだけのリカバリーを選択したら、そのままリカバリーが済んでWindowsの画面が開いた。めでたし、と思ったが、どうもまだ動作が怪しいので、CドライブだけでなくDドライブまで初期化してみようと、再度リカバリーを始めたらこれが失敗の元で、いつまで経っても延々とドライブのチェックをしているだけで、ちっとも前へ進まない。しかも途中で停まってしまってまた最初から始めたり、ああ、もういやです。
 ひょっとするとT君、これで深夜になって根気負けしてリカバリーの途中で電源を切ったのではなかろうか。ああ、私もこんな作業に付き合ってはいられないのですが......。
 ふと本体の前面に目をやるとプロセッサー1GHz、HDDは60GBはまあ少し前のパソコンだからいいとして、メモリが128MB(嘘! 128でよくXPが動きますね)。これじゃ遅い訳です。今夜のうちにリカバリー、終わるでしょうか(泣)。
 ただ待っているのもつらいので、しつこいようですが相変わらず偏愛する歌い手の唄を聴いて過ごすほかないのです。

 わあ、シンデレラの馬車がカボチャになる時刻(もの皆リセットされてしまうかもしれない恐怖の00:00分)の数分前に、ようやくリカバリーが終了しました、\(~o~)/バンザイ。
 XPは、ハードウェアは接続すれば勝手にドライバを選んでくれるので楽ですが、インターネット接続やメーラーの設定や、ソフトウェアのインストールやらの更新は、パソコン所有者が自分でしなければなりません。それくらいは自分でして下さい。



2009年2月15日日曜日

それが問題

 ダイアナ・クラールの Temptationがかっこいいと思っていたら、トム・ウェイツもTemptationを唄っていて、ここでフルトラックで聴けるので聴いてみた。
 いや、話はあべこべで、Temptationはもともとトム・ウェイツが作った曲であり、それをダイアナ・クラールが唄っているのだ。
 それにしてもトム・ウェイツのオリジナルはすごい。
 ダイアナ・クラールがかっこいい唄い方とすればトム・ウェイツはかっこ悪さの極致。彼のかっこ悪さは、ひょっとするとブコウスキーやセリーヌのかっこ悪さに通じるのかもしれないと思った。三人とも極めつけの酔いどれ詩人である。

 ↓は、それとは別の「Waltzing Matilda」という曲。






 今夜10:40から30分間、NHKで大阪文学学校の小説クラスの合評会を取材した番組が放映され、見た。毎週一回集まって二編ずつ合評されているというのは実に羨ましい。
 それにしても、二人の作品の合評が取材されていたが、どちらも二人の創作の原点である過去の実人生に回帰していったことに、実は不満。殻を破る、あるいは自己をさらけ出す、そういった方法論は日本固有の「生きること=書くこと」、すなわち私小説的立ち位置に戻れということにほかならず、どうも感心しなかった。
 私には書くことは生きることとイコールではない。むしろ生きられないことを知り、生きることを断念したしたところから書くことがスタートするのであって、だから、生きること=書くことでは決してないのである。
 (偏屈な少数意見に過ぎません)
 そういえば午前中、村山由佳がインタビューされている番組がちらりと目に入り、彼女の声が聞こえた。彼女が田舎暮らしをやめて都会のマンション暮らしに戻った理由を、田舎暮らしは癒されてしまって書くエネルギーが失われるような意味合いのことを言っていた。
 まったくその通り、田舎に暮らしていると、一杯の紅茶があったり、一枚の手打ち蕎麦があればこの世などどうなってもいいみたいな、つまらないものと自分の大事な人生を引き換えにしてしまう危うさがあるのです。
 都会に暮らして神経を尖らせ、いつでもイガイガした存在であること。それこそが小説という言語表現の最大のエネルギー源なのかもしれないと思うと、絶望的。
 いや、そうではなくて、多分、ボクシング同様、いかにハングリーかなのかもしれません。自己のあり方、この世の在り方にどれだけ不満足=ハングリーであり得るか、それが問題。


 今日も午後2時間ほどチエーンソーを振り回した。
 おお、そういえば昨日は金曜日の13日で、絶好のチエーンソー日和だったではありませんか。

 創作、遅々として進まず。
 多くの読者に読まれ、共感される小説など書けるはずもなく、たったひとりの読者だけををイマージュして書くべし。
 たったひとりの読者ってだれ? って......、それは言うまでもありません。

 ジョイスの「ユリシーズ」最終章を真似て、改行無しで段落もひとつだけというのはどうだろう?

 2行半だけ書き加えたが、明日、また削除する可能性99%。

 

2009年2月14日土曜日

実に単純原始構造

 明日、借りている菜園の南側にはびこっているニセアカシアを伐るつもりだったが、雨降りらしいので、今日と明日の仕事を交替させて、午後、チェーンソーなどを持参して陽を遮るアカシアをバリバリ伐りまくった。ただし、南斜面の下の道路沿いに電柱、電線があって、大きな木は電線側に傾斜しており、伐れば電線にのしかかりそうで危なくて切れない。ワイヤーとウィンチがあれば牽引しておいてこちら側に倒れるようにできるのだが、いずれにしてもこういう作業はひとりではなくてもうひとり助手がほしいところです。薪と灯油兼用の風呂釜を持っているT朗君に声をかけてみよう。
 気温が高めとはいえ、夕方には汗びっしょり。どうも、文章など書くより、こういう単純な肉体労働の方が性に適っているらしい。体を動かせば頭も動くという、実に単純原始構造。

 夜、インターネット回線の調子が良さそうなので、海外の例のミュージック・ウェブへ行く。またプレヴェール作詞のシャンソンを聴き、その後、ボリス・ヴィアンのJazz演奏を集中的に聴く。こんな田舎で、居ながらにしてヴィアンのトランペットやトロンピネットが聴けるなんて、幸せです。
 普通、試聴といえば30秒が普通だが、なかにはCD一枚丸ごとフル・トラックで聴けるものがあり、10曲、一枚、そっくり録音した。本を読みながらなので一曲ごとの録音ではなくて一枚そっくり。10曲で少ないせいか、時間は30:17で、27,6MB。後で一曲ずつ編集ソフトで切り出してそれぞれ別ファイルにしないと聴くのに都合が悪い。
 ヴィアンのジャズについて何か書いてあるかと、この本を久しぶりに開いた。この本、もう一度よま直さなければならないが、定価6,500円(!!)で本文485頁(!!)。

vianhyouden.jpg

そしたら......

viancanadatv.jpg

 あれ、このヘンテコリンな弦楽器に見覚えが......あ、この動画です。ヴィアン、さすがにちゃんと英語で答えてます。







 そういえば、ジャック・プレヴェールの「ボードレール」という詩に曲がつけられて、セルジュ・ゲンスブールが唄っております。B・バルドーらしき画像は邪魔でありますが。



2009年2月13日金曜日

ファイルの整理

 あれこれ、ダウンロードしたflvファイルが52もたまっていたので、フリーソフトを使ってflvファイルから音だけを抜き出し、MP3に変換した。その上で外付けのHDに逃がしたり、iTunesに登録してiPodに同期させたりした。
 先日来頻繁にアクセスしているヨーロッパのあるウェブサイト、この頃は接続が途切れることが多く、危なくてファイルのダウンロードが出来ない。アクセスする時間帯を変えてみる必要がある。

 それにしても、結構ネット上を危なく綱渡りして歩いているので、この頃はマメにウィルス検索をする。さすがにウィルスは検出されないが、スパイウェアは結構検出され、削除されている。スパイウェアといってもどこを見たか追跡されるクッキーがほとんどらしいのだけど。



 あれれ? いつのまにか曲が増えています、というか、ほとんど全曲アップロードされているのでは。



2009年2月11日水曜日

「宿命」、あるいは「悲しい風景」

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 一陣の風が吹いたら、ボロボロ風化して、本でも紙でさえなくなってしまうような、表紙カバーも小口も天地も日焼けし酸性化した古い選書がある。
 萩原朔太郎「宿命」(創元選書24)昭和16年3月24日四刷、定価壱圓四拾銭、古書価格400円

 これはいったい、アフォリズム詩篇というべきか、散文詩篇というべきなのか?
 
 

 鏡のうしろへ廻ってみても、「私」はそこにいないのですよ。お嬢さん!


 そう。どこを探しても「私」などどこにもいないのだということを、あの時代、朔太郎はすでに知っていたのだった。

 

 人が家の中に住んでいるのは、地上の悲しい風景である。


 うーん、私はこれから書こうとして書けないかもしれない小説に、恥も外聞もなく「悲しい風景」という題名をつ付けようとしている(自分で自分を、こらぁ!)。

 
 父と子供

 あはれな子供が、夢の中ですすり泣いていた。
「皆が私を苛めるの。白痴(ばか)だって言ふの。」
 子供は実際に痴呆であり、その上にも母が無かった。
「泣くな。お前は少しも白痴(ばか)じゃない。ただ、運の無い、不幸な気の毒な子供なのだ」
「不幸って何? お父さん。」
「過失のことを言ふのだ」
「過失って何?」
「人間が、考へなしにしたすべてのこと。たとへばそら、生まれたこと、生きていること、食っていること、結婚したこと、生殖したこと。何もかも、皆過失なのだ。」
「考へてしたら好かったの?」
「考へてしたって、やっぱり同じ過失なのさ。」
「ぢやあどうするの?」
「おれには解らん。エス様に聞いてごらん」
 子供は日曜學校へ行き、讃美歌をおぼえてよく歌っていた。
「あら? 車が通るの。お父さん」
 地平線の遠い向ふへ、浪のやうな山脈が続いていた。馬子に曳かれた一つの車が、遠く悲しく
、峠を越えて行くのであった。子供はそれを追ひ駆けて行った。そして荷車の後にすがって、遠く地平線の盡きる向ふへ、山脈を越へて行くのであった。
「待て! 何処へ行く。何処へ行く。おおい。」
 私は聲を限りに呼び叫んだ。だが子供は、私の方を見向きもせずに、見知らぬ馬子と話をしながら、遠く、遠く、漂泊の旅に行く巡礼みたいに、峠を越えて行ってしまった。
 (以下、略)




浅間山&デジタル文学館&From Russia With Love

 ちょっと雲が邪魔ですが、今日は噴煙が多めです。はやり北西の風に吹かれて軽井沢、群馬方面へ流れていっています。真南のわが家の方へは滅多に噴煙は流れて来ません。


 画像をクリックすれば別ウィンドウで拡大表示されます。090210_2asama.jpg

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 デジタル文学館第37作目に推薦された作品を掲載紙からスキャニングし、そのテキストデータを元にhtmlファイルとpdfファイルを作成し、アップロードすればいいだけにした。
 それにつけても、女性の書き手は元気でパワーがある。
 私のようにニヒルやネガティブの海に溺れそうになっている者は、そのパワーの十分の一でもあやかりたいもの。
 作者からOKが出ましたのでリンクを張ります。
 「慶賀の客」垂水薫さん(「照葉樹」6号より転載)





懐かしい。あの、ロシアの女性スパイ。
当時としては斬新だったタイトル・バック。





2009年2月9日月曜日

ストーリーの舟、時間の舟

 今日は家族の買い物の運転手をつとめただけで、後は何もせず。
 iTunesにあれこれMP3ファイルを追加したり整理した上でiPodと同期。もう300曲近く入っているのだが、まだ容量の1/4か1/5くらいしか埋まっていない。恐るべし。
 このまま元のMP3ファイル全体をパソコン内臓のハードディスク内に置いてはパソコンの動作が重くなるだけので、外付けのポータブル・ハードディスクにすべて移動させた。今後は音楽ファイルを追加するためにはいちいち外付けのポータブル・ハードディスクを接続しなければならないが、それも仕方ない。
 Zetteの曲、3曲発見したので、持っているCDの1曲とあわせて4曲。後は無理なようだ。CD自体が1975年発売だものね。
 先日発見したカトリーヌ・リベイロの「「プレヴェール唄う」と、セルジュ・レジアニの「ボリス・ヴィアンを唄う」をiTunesに登録し、iPodに同期した。ただし、iPodで聴くよりもパソコンのiTunesで聴く方が多い。外付けのスピーカーが少しチャチであるが、我慢我慢。


 小説、どうも集中力が拡散してしまう。長いものを書こうなどと意気込まず、カフカの「観察」のようなものでいいくらいの気持ちでいよう。そうそうあの文庫本をまた手元に置かないと。
 ストーリーの舟に乗らないにしても、時間の舟に乗らない訳にはいかないだろう。
 もしも時間の舟に乗るさえも拒否するのだったら、小説ではなく散文詩になるほかないだろう。


2009年2月8日日曜日

マタイ受難曲

 午前中、親戚の青年の訃報が入る。午後、弔問に行く。これまでの人生で精神的にもっともきつい弔問となった。自死である。葬儀も焼香だけでは済まない模様で、直らいの席に座ることになったので、ますますきつい。

 夜、マタイ受難曲を聴くともなく漫然と流しつづけた。

2009年2月7日土曜日

心ここに在らず

 ジャック・プレヴェールの詩だけを歌っているアルバムが結構あって、イヴ・モンタンがいちばん有名だが、ほかにもセルジュ・ゲンスブールやらレジアニやら、ずっと捜索中のプレヴェールの詩にセバスチャン・マロトが曲をつけたものを妻のゼット・マロトが歌っている12曲、そのほかにカトリーヌ・リベイロが詩プレヴェール、曲セバスチャン・マロトの12曲をアルバムにしているのは知っていたが、それが今夜、フランスのウェブサイトで、12曲のうち10曲がフルトラックで聴くことができた。2曲だけが30秒の試聴で、そのうちの「ハイド・パーク」が30秒しか聴けないのはちょっと残念だった。
ただしカトリーヌ・リベイロとゼット・マロトのアルバムで同じ曲は「ハイド・パーク」一曲だけである。
それにつけても、ゼット・マロトの曲がネット上では見つからない。セバスチャン・マロトはもう亡くなっているらしいし、こちらもなかなか検索にひっかからない。

 わぁ、しかし、このウェブサイトはどうなっているのか。
 セルジュ・レジアニの「ボリス・ヴィアンを歌う」という12曲のアルバムも発見。
 ジャック・プレヴェールとボリス・ヴィアンの曲が一枚に仲良く収まっているCDまであるではないか。
 ボリス・ヴィアンのJAZZまでも。というか、ジャック・プレヴェールとボリス・ヴィアンがらみのCDがムチャクチャあるではありませんか。 
 あ、これまで30秒しか試聴できなかったゼット・マロトの「唄っているのは私じゃない」も発見して、ついに聴いてしまいました。
 ウァーン・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )ナクナ。
 心ここに在らず。フランスのこのウェブサイトに、しばらく入り浸りになりますので、悪しからずよろしくお願いいたします。

2009年2月5日木曜日

精神のロマン?

 昨夜はグールドの「ゴルトベルク変奏曲」を聴きながらパソコン。
 今夜はほんとうに久しぶりに「ブランデンブルグ協奏曲」聴きながらパソコン。
 いつもは目が回るようなカノンやフーガを聴くことが多いので、整然とした「ブランデンブルグ協奏曲」がかえって新鮮で、昔さんざん聴いた3番をまた繰り返し聴いてしまった。
 その後、さらに「マタイ受難曲」のなかのErbarme DichをYou Tubeで検索したら、こんなにあるのというくらいあり、順に聴いてゆくのが楽しみ。
 (自分が死んだら、斎場でクルト・レーデル指揮・ミュンヘン・プロ・アルテ管弦楽団の「音楽の捧げもの」のなかの「王の主題による各種のカノン」か「無限カノン」を流してもらうのが唯一のお願いでしたが、葬儀無しで、火葬の間にこのErbarme Dichを流してもらうだけでいいような気がして来ました。今のうちにCD-Rを作っておこう)




 実に唐突だが、意識は流れるものではないと思っている。
 だから、「意識の流れ」という手法とはちょっと違う。違うけれど、「意識」を「精神」と言い換え、その動きをロマンと捉えて描写する。
 「精神」が感じ、考え、動き、闘争し、様々なムーヴメントを起こす、それが小説という名のロマンなのだと、そういう小説を以前から夢想してきた。
 われわれに残されているのは、フランス語で言う「レシ」ではなく「ロマン」。それも人間を外側から描くロマンではなく、内側から描くロマンなのだ。
 ヴァージニア・ウルフ、ジェームス・ジョイス、ウィリアム・フォークナーを読んできたのも、そういう視点からだった。
 突き詰めれば、人間を外側から描くのも内側から描くのも同じなのだろうけど。

募集中止情報

 N文学賞という県内のローカルな賞について調べたいことがあって、先ほど主催する新聞社のウェブサイトを見に行ったら、今年から作品募集を中止するという告知文に行き当たった。
 わが誌に受賞者が複数いるし、さびしい気もしないではないが、まあこの辺で終わるのが妥当なのかもしれない。

 

2009年2月3日火曜日

「照葉樹」(福岡市)6号、感想

「トワイライト」水木怜
 前半は、睦夫という64歳のジャズバー経営者と34歳のピアニスト麻美という、親子ほどの年齢差のふたりがどのような関係を築いてゆくのかとひきつけられて、前へ前へと読み進めた。
 けっこう細部をつめて書いておられるので、どのような展開があるか、期待が持てた。
 が、途中、麻美と杉尾という商社マンの仲を疑うあたりから、これはエンタテインメント系の小説なのかなと感じはじめた。その後、保険勧誘のいきさつが書かれ、終わりの4行で、あ、やっぱりそうだったんだ、と納得した。後半はサスペンスものなのでした。そういう意味では最後の4行は決めるべく決められた着地点にぴたりとおさまっている。
 残念なのは、作品半ばころからこういう結末をあちらこちらで示唆するような場所があり、ある意味ではこの最後は読者にとうに見透かされてしまうだろうということでした。

 これは余談ですが、麻美がそうせざるを得ない状況というものを描き出すために、睦夫の視点からではなく、麻美の側から書いたとしたらどうだったのだろうと考えてしまいました。それだとまったく別の小説になってしまいますが、睦夫の側から見た麻美というのが、どうも外側から浅くしか捉えられないのに歯がゆい思いをしました。
 でも、120~130枚の長さを一度も立ち止まらずに読ませた筆力と根気には感心しました。

「三叉路」垂水薫
 読み始めてじきに、この天上天下阻むものもないであろう一人称ひとり語りに爆(苦)笑させられました。
 そしてじきに、以前、自分がブログなどに書き散らしたJ・ジョイスの『ユリシーズ』の最終18章の「ペネロペイア」を思い出してしまいました。
 くだくだ説明するよりいいと思うので、その書き出しを少し引用します。

 Yesだって先にはぜったいしなかったことよ朝の食じを卵を2つつけてベッドの中で食べたいと言うなんてシティアームズホテルを引きはらってからはずうっとあのころあのひとは亭しゅ関ぱくでいつも病人みたいな声を出して引きこもっているみたいなふりをしていっしょけんめいあのしわくちゃなミセス・オーダンの気を引こうとして自ぶんではずいぶん取り入っているつもりだったのにあのばばあと来たらみんな自ぶんと自ぶんのたましいのめいふくを祈るミサのため寄ふしてあたしたちにはなんにも残さないなんてあんなひどいけちんぼあるかしらメチルをまぜたアルコールに4ペンスつかうのだってびくびくものでいつも自ぶんの持病の話ばかりあれやこれやそれから政じの話や地しんのことやらこの世の終わりのことやらうんざりするおしゃべりばかりまずすこしはたのしみましょうよ世の中の女がみんなああいうふうになったらどうしますか水着やデコルテのわる口を言ってたけれども......(集英社文庫・丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳)


 といった句読点、改行無しの文章が文庫本で17頁続きます。

 垂水さんの「三叉路」には句読点も改行も普通にあって、この「ペネロペイア」の訳文の、ちょっと慣れるまでの読みにくさはありません。
 しかし、女性一人称の激烈で圧倒的な独白体に終始している点では共通していると言えます。
 しかも、眠いといいながら、車を運転しながら、なおかつ休まずしゃべっていることの不自然などどこかに忘れて来てしまったかのように、この主人公はひたすらしゃべる。とてもおかしくて何度も笑ってしまいました。
 ただひとつ難点は、ずっと一本調子ということでしょうか。ややもするとかなり躁状態にあるおばさんが眠らずしゃべりつづけているといった、ちょっと軽い感じで続いてしまいがちなので、少し抑えた部分、あるいはしっとりした部分があったりしたらどうでしょう。
 案外、ジョイス張りに句読点改行無しだったら面白かったような気もしますが、でももうジョイスに先を越されてしまっているので二番煎じのそしりを受けてしまいますしね。でも、人間てこんなものかもしれないと思わせる、面白い着想の作品でした。

「慶賀の客」垂水薫

 一読、怖い小説である。凡庸な男性読者には、ことさら怖い。
 (気がついたらなぜか、照葉樹6号の3作品はみな主人公や副主人公の女性が怖い。女性の怖さを表現しようと目論まれたのだったら、どの作品も成功であろう)

 「慶賀の客」で圧巻なのは、77頁の、美也が叔母にとって因縁の着物の袖を引き裂く場面の描写である。叔母と美也ふたり分の憤怒が袖を引きちぎる行為に凝縮されている。
 垂水さんに才能を感じるのは、こういう密度の濃い描写力なのです。叔母の印象が希薄であったり、叔父が人間として薄っぺらであっても、それを補って余る描写がそこにはある。こういう部分がありさえすれば、短編は完璧でなくてもいいのだと思いました。
 

2009年2月2日月曜日

天に向かって上昇するオルガンの音の螺旋

 今日午後の浅間山です。
 右斜め下の方向(軽井沢方面)に向かって灰が降り、雪が縞模様に融けて黒っぽくなっているのが見えます。
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 ブログが壊れての修復作業や浅間山の小噴火報道なども一段落し、今夜は先日のオランダの教会で演奏されたバッハのオルガン曲30曲をBGMにしながら、小説の感想を書いている。
 オルガンによっては重すぎたり暗すぎたりして陰湮滅滅たる気分になってしまうこともあるが、ことにバッハの曲の場合は明るく清明で、天に向かって螺旋をひたすら上昇してゆく軽さがなければならない。このハーグの協会のオルガンはかなりそれに近い。ただの荘重ではいけないのである。押しつぶされてしまいます。
 感想、2作目に突入。

電池を充電

 朝のニュースで浅間山が小噴火したとのニュースが流れていたが、雲か煙かに阻まれて浅間山がまったく見えない。噴火の音も聞こえませんでしたし、位置が真南ですので降灰もありません。噴煙は概ね東から南東の方向に流れます。

 午後になってようやく雲が切れて見えるようになりました。裏のお宅のガレージの上に顔を出していますので、横着をして家の中から写真を撮ってみました。
 昔から派手に噴煙を上げるのを目の当たりにしていますので、これくらいの煙は普通です。
 デジカメの電池を充電しておかないといけない。デジカメで動画も撮れるのを思い出した。

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2009年2月1日日曜日

ただいま調整中

このブログ、不具合が生じていますので、ただいま調整中です。

��追記
ようやく、調整が終わりました。落ち着いて考えてみたら、テンプレートをいったん初期化してもう一度テンプレートを入れなおせばよかったのでした。自前ブログはこれがタイヘンです。





 勤務地が首都圏になった長男がまた帰宅。大宮から新幹線で1時間なので、不意に来る。お母さんは彼の机の上にパソコンや本を積み上げているので、大慌て。
 お父さんは、彼のためにまた蕎麦を打った。二八蕎麦で加水率55%。次回は蕎麦はやめておくことにします。いくら蕎麦好きでも飽きた模様。

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冷汗

 このブログの投稿後のページ反映とか、再構築といった動作がかなり重くなってしまったので、改良するつもりでいろいろいじっているうちに、テンプレートが壊れて左サイドバーが何も表示されなくなってしまった。どうにも直らなくてすべて、これは新たにインストールし直さなくてはならないかと腹を決めたところ、ある方法を考え付いて試したらサイドバーが復活した。ただし、まだ以前そのままには戻らなくて、INDEXページ左サイドバーのいちばん上にあったカレンダーが表示されない。ただしアーカーブ・ページの左サイドバーにはカレンダーが表示される。もう面倒くさいので、しばらくはこのまま。