久しぶりに地元書店と全国展開の書店をハシゴしたら、翻訳書の棚にハ・ジンの「待ち暮らし」と「狂気」の二冊が別々の場所に泣き別れ状態で置かれていたので、二冊仲良く並べ直して来た。そういえば、昔は本屋の本の並べ替え、よくやったものです。
それにしても、この翻訳書の少なさ。書店へ足を運ぶ理由がほぼ消滅しました。
小説の視点が一人称で、その一人称が書き手自身である場合、いわゆる私小説ということになるが、そのことに胡散臭さは無いか?
私=書き手。それが読者や世界への誠実の証であるなんて思うのはおかしくないか?
講釈師は見てきたような嘘をついてはいけないのか?
私≠書き手の小説。このばあいの「私」は単なる小説世界内の主人公にすぎないのであって、彼、彼女と実は何ら変わりないのである。けれども、彼または彼女と書くよりも「私」自身に語らせた方が信憑性がある。という錯覚、または誤謬を逆手に取った堂々たる似非私小説、あるいは換骨奪胎風私小説。
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