2007年7月22日日曜日

わたしたちの夢祭り(7)

 また、息を小さくし続けるような毎日の、けだるい反復が始まった。朝はいつでも姉よりほんの少しだけ早く起きて、簡単な朝食を用意する。姉が出勤してしまうと、部屋の掃除とお洗濯をする。それからは何もしないでぼんやりしていたり、図書館へ行くしかなかった。姉はたまには映画を見に行くとか、街へ出てショッピングをするようにと言ってくれたが、わたしは自分で稼いだのではないお金を、衣食住以外にあまり使いたくなかった。働いてお金を得ることのできないわたしにできることは、お金を使わないこと、それしかなかった。着るものも、下着だけは姉に叱られるので新しいものをバーゲンで買ったが、ほかはほとんど姉のお古を身につけていた。
 とても稀薄な毎日だった。
 三ケ月ほどして、わたしはテレビニュースや新聞の社会面で、彼、優生の顔を見た。母親殺しの青年、それが彼だった。先ず、彼の五十三歳になる母親の死体が発見された。警察は初め、強盗殺人の疑いをもって捜査を始めたが、三日後に事情聴取を受けた二男の彼が母親殺しを自供したのだという。彼は精神科に入退院を繰り返し、現在も通院中であるが、犯行については母を殺せという天の声に従っただけだと言い、それ以上は一切沈黙していると報道された。
 わたしには彼が狂気に操られて行動したとは思えなかった。むしろ狂気を隠れみのにして、正気で母親を殴ったように感じられた。殺人、それも母親殺しを正気というのは正しい言い方ではないとは思うけれど、そうとしかわたしには考えられなかった。
 その後の新聞の小さな記事で、彼が精神鑑定の結果強制入院させられたことを、わたしは知った。
 彼と会っていた時のことがありありと思い出されると、かえってそれがすべての現実味を剥奪され、夢のようにさえ思えた。目の前の現実は、たとえそれが水やりを忘れて枯れてしまったシクラメンであっても、容易にその存在が信じられたが、いったん目の前から遠ざかってしまった存在や出来事は、眠って見る夢と区別することができないくらい、わたしとはかけ離れたものにしか感じられなかった。だからわたしは今も病院にいるはずの優生のことも夢のなかの登場人物のようにしか思い出せない。
 死んだ父や母のことさえそうなのだ。いったい、何がわたしの現実だったのだろう。多分、わたしは初めから生きる気を失っていたのに違いない。病気で働けないのではなく、ただその気がなかっただけなのかも知れない。
 わたしたちを残して、両親が奥多摩山中の林道の狭い支道で排ガス心中した後、一家心中に触れた新聞記事や投書がいやおうなく目にとまることがあった。それらはたいてい、子を道連れにするのは親の勝手をエゴイズムだという良識的意見だったが、わたしには、両親だけが勝手に死んでしまう方がひどいエゴイズムだと思えた。またどんなに負債があろうと、死なないで済む方法はいくらでもあったはずだ。
 それでもふたりが死んでしまったのは、要するに生きる気を失ったのだとしか、わたしには考えられない。だとすれば、今また残されたわたしたちふたりが死のうとしているのは、両親が死に至ったのと同じ回路を、遺伝的気質でもってたどっているにすぎないことになる。
 両親が死ぬ十日前に、わたしたち四人は伊豆の温泉へでかけ、一泊した。それは母の突然の発案で実現した。その前夜に、姉が夢を見てひどくうなされた。わたしは姉と同じ部屋に寝ていたので、姉の、恐怖の底からようやくの思いでしぼり出されたようなうなり声を聞いている。わたしも他愛のない夢にうなされた経験はあったが、うなされて声を出しているつもりでも、実際には声など出ていないことの方が多い。夢を見て大声を発するのは重労働なのだ。だがその時の姉は、殺される獣が全身にありったけの力をこめ、喉をぎゅうぎゅう絞るようなうなり声を出した。この世の終りに出す断末魔の叫びとはあんな声なのだろうか。
 翌日の朝食の席で、わたしは両親に聞かせるつもりでそのことを喋った。母は姉にどんな夢を見たのか訊ねた。姉は答えなかった。母が何回も訊きなおすのを、黙っていた父が制止した。それで姉の夢の内容は誰にも知られず終いになったが、しばらくの沈黙の後に再び母が口を開き、夢祭りをしようと言った。父も姉もわたしも夢祭りがどんな祭りか知らなかった。母は、悪い夢を見た時に、それが正夢となって災難をこうむることがないように祈る祭りだと説明した。わたしがどこの国でそんな祭りをしているのか訊ねたが、母はそこまでは知らなかった。亡くなった母の父、つまりわたしたちの祖父が、やはり幼い頃の母が悪い夢を見てうなされた時に、夢祭りをしてくれたのだという。それも料理屋へ母を連れて行き自分がお酒を飲んだだけで、母には枝豆を食べた記憶しかないと言うのだけど。
 母は父に温泉へ行って夢祭りをしましょうと言った。毎日のように債権者がやって来ていることを知っている姉とわたしは、母の思いつきにびっくりしたが、父はそうだねとあっさり応じた。あまりに簡単に温泉行きが実現してわたしは拍子ぬけしたが、後で思えば、両親はそれより以前に死を決意していたからこそ、一家ででかける計画を立てたのだった。
 わたしたち一家四人は、二日後の土曜日に伊豆の修善寺へでかけた。夜の食事の時には、父の許可があって姉とわたしもお酒を何杯か飲んではしゃいだ。楽しかったが、あれは姉のための夢祭りというより、父と母が死ぬための夢祭りだったのだ。
 だけど、何のために父と母は死んだのだろう。わたしには結局わからない。
 両親が死んで半年ほどしてから、わたしは姉が寝静まるのを待って外へ出、公衆電話からある家へ毎晩のように無言の電話をかけたことがあった。毎晩取立てに来て、もっとも執拗に、もっとも乱暴に両親を脅迫していた男が、安穏として眠っていることを想起すると、わたしは許しがたくて眠れなかったのだ。わたしの父はたった六人しか従業員のいない鉄工所を、なんとかきりまわしていただけの個人企業にすぎなかったが、相手の男は社員五十人の鋼材卸会社の専務だった。父は同業の友人の、その鋼材緒卸会社への債務を保障したらしかったが、友人はじきに蒸発してしまった。父が肩代わりすることになった債務は父が承知していた金額の六倍を超えていた。父はだまされていたのだが、印鑑は確かに父本人のものだったので、ほんとうは蒸発した友人をわたしは憎むべきだったかも知れない。だけど、どこにいるのかわからない人間を、わたしは憎むことができなかったので、鋼材卸会社の専務を憎んだのだった。
 何回かは妻らしいひとが受話器を取って、どなたですかと問いかけたが、じきに受話器を取らなくなった。それから次には受話器が上げたままにされ、話し中の断続音しか聞こえなくなった。わたしは作戦を変更し、昼間、学校の公衆電話を使って更にいやがらせ電話をかけ続けた。そのうちに、ある日、おかけになりました電話番号は只今使われておりません、番号をお確めの上おかけ直し下さい、という録音された声が聞こえた。わたしは局に新しい電話番号を問い合わせることもせず、それきり記憶していたそれまでの電話番号も忘れてしまうことにした。
 わたしは、いやがらせ電話を初めてかけた時から自分を嫌悪していた。かえって惨めな思いに囚われるので、その時は二度としないつもりだった。それでも翌日のわたしは、鹿おどしにたまった水が自らの重みに耐えかねて落ちて流れて行くように、深夜の街へさ迷い出た。そして電話ボックスに吸いこまれていって、固く緊張した夜の静寂の彼方に向けてダイヤルをするのだった。

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