優生。彼とは手を握りあうこともなかった。会っても恋人と言えるような会話などろくにした記憶もなかった。主体性のないわたしは彼の行く場所について行き、まるで幽霊がふたりデイトしているみたいに静かにそこに居ただけだった。
彼と会ったのは、大学病院の神経内科待合室だった。壁に沿って置かれている長椅子に坐っていると、ずっとわたしを凝視したまま目を離さない若い男がいた。初めはわたしもその視線を無視していたが、それは涼しい目で、わたしをみつめているというより、わたしを透過してわたしの後に何かを見ているのだと思わせた。わたしも彼をみつめた。そのうちに、彼の切れ長な目からわたしの目へ何かが伝わり始めたのだった。
《君はどうして、ここにいるの》
確かにそう言っているようにわたしには思えた。
《どうして僕の質問に答えないの》
わたしは驚いて、彼の目に向かってやはり目で答えるつもりで思った《失神する病気なの。時と場所と状況もわきまえずに倒れてしまう》
《失神》
《そう、気を失って倒れてしまうの。わたしの意思とは無関係に》
《神を失くす病気か、羨ましいな。僕なんか四六時中、神に監視されたり命令されたりしてるんだ。余りにうんざりするので、この間は母親を張り倒したばかりなんだ、神の命令を装って》
《羨ましいなんて言わないで。倒れた時はただわたしがわたしでなくなるだけだもの》
《その方が幸せさ。僕はいつでも僕が僕でなくなるにはどうしたらいいか考えている》
《わたしはいつでもわたしでありたいと願っているわ。あなたは?》
《何が?》
《あなたはどうしてここにいるの》
《退屈だからさ。僕は隣の精神科でもう診察は済んだ。気違い予備軍って訳、驚いた? 向こうの椅子がいっぱいなのでここに坐っていただけ。家に帰る気分でもないし》
その時わたしの名が呼ばれ、彼との無言の会話は中断された。診察室で、わたしは医師の決りきった質問には上の空で彼との会話について考えていた。わたしが目の前に坐っていた彼との間に勝手に会話を想像していたにすぎないか、それとも言葉に頼らない感応が確かにあったのか。残念ながらわたしの妄想に違いないと思うほかはなかった。 十五分ほどで診察が済み、廊下に出ると彼はまだ同じ椅子に坐っていて、わたしは思わずクスリと笑ってしまった。彼はにこりともせずわたしをにらみつけていた。わたしはカルテと処方せんの入ったビニール・ケースを伝票受付けに出すために、そのまま一階のホールへ行こうと思った。
《待ってくれよ》
わたしはぞっとした。彼の口は動いていなかったのだ。まだわたしを見続けている彼を無視して、わたしはエレベーターのある方向に向かって廊下を歩き始めた。
彼はわたしの後をついて来るのだった。わたしは怖くなった。エレベーターのなかでまた彼の声が聞こえたらどうしようと思ったが、看護婦さんや患者さんたちが七人乗り合わせたので、そ知らぬ顔でわたしも乗ることができた。それでも彼はわたしから目を離さなかったので、わたしは彼に背を向けるように体をずらした。彼の声は聞こえなかった。
伝票受付けを済ませたわずかの間に彼の姿は見当たらなくなっていた。わたしは安心してホールの広い待合室で会計と薬の順番を待った。どちらも順番が来るとアナウンスされるが、ぼんやりしているわたしは聞きのがしてしまうことが多かった。急いで帰る必要もなかったし、部屋に一日居るよりは、このホールの雑踏で様々なひとたちを見ている方がよかった。だから月に二回の通院も欠かさなかった。
あっ。いつの間にか向き合いの長椅子に彼が坐っているのをわたしが認めると、同時に彼の声がまるでヘッド・ホーンを耳に当てている時のように、頭のなかの中央で響いた。わたしは思わず彼の目に注目してしまった。
《君は僕を避けているね》
《いいえ》
《だけど、君は意識して僕を見ないようにしている》
《ごめんなさい。怖いの、とても》
《僕が?》
《そうじゃなくて、こんな風にあなたとお話できることがひどく怖い。わたしひとりの妄想のように思えて》
《それは違う。妄想なんかじゃないんだ。僕にも君の声が聞こえる》
《テレパシー?》
《そうだ》
《あなたはいつでもこんな風にひととお話してるの》
《いや、僕も今日が初めてだ。あそこで何気なく考えたことに、思いがけず君の反応があったので僕もびっくりした》
《やっぱり怖いわ、こんなこと》
《君の隣の席があいたけど、そこに坐ってもいいかい》
彼の言う通り、わたしの右隣に腰かけていたはずの中年の女性がいなかった。彼に向かってこっくりうなづくと、彼はわたしの隣に並んで腰を下ろした。だけど、彼はすぐにはわたしに口をきかなかった。
「おかしい」
しばらくして、聞きとれないくらい小さな声が、彼の口からもれた。彼は立ちあがってわたしに顔を向け、後ずさりしながら向かいの椅子のあたりでとまった。
《どうもおかしい。どうやら僕たちのテレパシーには一定の法則があって、その条件にかなった時だけ通じるらしい。ちょっと試してみるから、ぼくから目を離さないで》
彼は、更に後ろ向きに歩いて受付けのカウンターの前を通り過ぎ、顔の輪郭が判断出来ないくらい遠くへ行った。そして足早に戻って来て、さっき坐っていた向かいの椅子に腰をおろした。
《やっぱりそうだ。君の隣に並んで坐ったら通じなかったし、向き合っていても、余り遠く離れてしまえばテレパシーはきかない》
《わたしはその方がいいわ。だって、いつでも、どこでも通じるのでは、うるさくてノイローゼになってしまいそうだもの》
《君は嫌なのか、こんな風に誰にも気づかれることなく会話ができることが》
《そんなことはないけど、でもわたしは今でも半信半疑だわ、こんなこと。わたしは非科学的なのは余り好きじやないし》
《向き合ってせいぜい2~3メートル前後の距離だね。それも、目と目が合っていなければだめみたいだ》
《おかしいわね》
《何が》
《あなたの目、輝いている、子供が何か夢中になって話している時のように》
彼は怒ったような顔をして目を伏せ、しばらくして再びわたしを見た時には元通りの表情になっていた。彼が気を悪くしたのは確かだったが、わたしは彼と話をするのが煩わしくなった。
《わたしは今日のあなたとの不思議な体験を、やはり夢としか思えないと思うわ、この病院を出て家に帰ってしまえばありえない夢》
《夢じゃないさ。僕たち以外の、例えば、今、君の隣に腰をおろした、顔色の悪い、教師みたいな感じの男、彼にはまったく非現実的なありもしないことでしかないだろうけど、君と僕、ふたりにとっては、ごまかしようのない現実なんだ》
《疲れたから、もう目を閉じていいかしら》
彼は残念そうな顔をしたが、黙ってうなづいたので、わたしはうつむくようにして目を閉じた。そうすると更に、疲れがそうさせるのか、頭が通常の重み以上に重く感じられ、わたしはますますひどく前のめりの格好になってしまった。わたしは腕を組んで、椅子から転げ落ちないように上体を支えた。
わたしにはテレパシーなどどうでもよかった。体が正常にさえ働いてさえくれれば、ほかに望むことはなかった。その時わたしはまだ十九歳になったばかりだったし、まともに毎日勤めに行くという希望も捨ててはいなかった。仕事も与えられずに、ただ、病院や図書館や部屋で時を浪費しているのは、つらいことだった。
会計を済ませ、薬局で薬袋を手渡されるのを彼は待っていたが、わたしは彼の前に立ち、きっぱりと声を出して言った。
「わたし、これで帰りますけど」
彼は小さな声で言った。
「もう一度、あの椅子に坐ってほしいんだけど」
彼は声を出して話すのは苦手なのかも知れず、わたしの顔から目をはずして言った。わたしは彼の言うままにした。すると彼はわたしの顔を見すえて電波を発信したのだった。
《多分、またこの病院で会えるかも知れないけど、そうじゃなくて、外で、一週間に一度、僕と会ってくれませんか》
《いいけど、毎週なんて無理よ。二週間に一度くらい、いえ、そんな風には決められないわ》
とりあえず、来週の今日に会う約束をし、わたしたちは並んで病院の玄関を出た。そこから駅まで十分近く、彼はわたしにひとことも口をきかなかったし、駅のホームで、わたしが連絡橋を渡って彼とは反対のホームへ行こうとしても、何も言わなかった。わたしは彼に向かっておよそ二メートルの間隔をとり、はっきりと言った。
「さよなら」
彼は口を動かさずに応えた。
《さようなら、また来週。待っているよ》
それから、向こうのホームの鉄柱に痩せた体をあづけるようにして立っている彼を、わたしは隣のホームでずっと見ていた。
やはり、彼の言う通り、距離が少し離れすぎているのか、彼の声はわたしの頭まで届かなかったし、わたしの質問も彼には通じなかったみたいだった。
《あなたの名前は何ていうの。わたし、聞いてなかったわ》
わたしはホームに電車が入って来るまでずっと、彼に向かって頭のなかで言い続けた。彼もわたしから目を離さないではいたけれど、時々、ホームの屋根に挟まれた空に気をとられて顔をあげるような素振りをした。その表情は一度も話したことのない未知のひとのもののように感じられ、わたしには病院での彼とのテレパシーが、やはりわたしだけの白日の夢に傾斜して行くように思えた。もしも夢でないにしても、ふとそれが通じなくなる日が必ずあるという予感がした。
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