2008年2月14日木曜日

現実ではなく虚構を、書かずに生きてしまうような

 一晩に5枚というのは調子に乗ったらの話で、ほとんど前へ進んでいるんだか停まっているんだか判断がつかない状況。
 やはり主人公を女性にしたのがまずかった。昔書いた女性が主人公のものと変わりないではないか……とか。
 書き始めたら、小説の外側から考えたり感じたりしていてはダメ。外側に置くのはコントロール機能だけで、残りはそっくり内側に入ってしまって、女性だろうが、こども、年寄りだろうが、憑依しちゃわないと。いったん覚めると難しいですが。
 物書きというのはどこか多重人格的で、その世界を冷たく見つめるひとりと、その世界に入り込んで人物の思考や感覚をともに生きて伝えるひとりと、少なくともふたりは必要なのだよね(と、自分で自分に同意を求め)。




 暖かくなったら、このブログから植物関係の記事を別にブログを設置して移行しようかと考えている。文学記事より植物記事の方が多いので、こちらは更新回数が週一くらいになるかもしれないけれど。
 ちなみにブラウザのお気に入りの上の方、「管理ウェブ」「文学ウェブ」のすぐ下にあるフォルダ名は「ソバ」、「ルバーブ」、「オヤマボクチ」「ワサビ」など妙な植物名が続いている。
 今日も夕食後一時間ほど、ワサビの種の採取から播種までの貴重な記事を発見して興奮してしまいました。
 普通、貴重なノウハウなのでネット上になど公開しないはずなのだが……頭が下がります。
 インターネットは悪魔の道具でもありますが、天使の道具でもあり、この記事はまさにインターネットが神の道具でもありうることを実感させるものなのであります。

 やはり私は『ブヴァールとペキュシェ』を最後まで読まずに、自身がブヴァールかペキュシェとして生きることになってしまったのです。つまり、現実ではなく虚構を、書かずに生きてしまうような……。
 傍目には何の意味もなく価値もないことにむしろ情熱を燃やす。
 本当は小説も限りなく意味も価値もないことに近いのだけれど、書かれた言葉は意味を持ち、価値を持ち始める。それゆえか、厄介なことになぜか小説にだけは情熱が燃え立たない。
 それというのも、すべてを肯定してしまう自分がいるのだ。
 すべてを肯定してしまう視点に立っていては小説は書けない。

 などとネガティブなことばかり書いて、定期的に読んでいただく方の創作意欲を殺ぐことになりはしないかと、どうも、心配です。
 ブログを休んだ方がいいのかも。

 さて、ネットを切断して、もう一度一太郎を開き、これまで書いた分を初めから読み返します。書けなければ読み返す。それしかありません。

2 件のコメント:

  1. ありがとうございます、と、まず言ってしまいます。
    書くときの分裂を的確に指摘されました。小説には現実的価値などない、まして私の書くものになど、あるわけがない、と思いながら、やはり邪に、価値を探ってしまうから、辛くなる。
    そうだったのです。「私」がなにを書こうとなにも変わらないのです。これを自分のなかに刻み込んでいれば、書き継げます。継げるずです。継ぎます。

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  2. ふふふ、自分に向かって言っているんですが、Lydwineさんも似たような境遇なのですね、ウァーン・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )ナクナ(毎度おなじみ、またやってしまいました)。
     何か、小説という魅力ある存在を目の前にしてもちっともその気にならないimpotentなおじさんの心境です。

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