やはり、「憑依」ではない。
物書きは登場人物に憑依も同化もいっさいしてはならない。いちばんしてはならないことだ。
物書きは、作品に対峙するひとつの視点、ひとつの叙述体としてのみ存在しなければならない。
と考えてみるとさっさと思い切りがつき、書きかけのふにゃふにゃを書き続けることを諦め、「小説書きかけ」フォルダに入れた。
本当は入れるまでもないというか、残さない方が身のためなのだが、それでも少し冷ましておこう。
ということで、気分変換とイメージト・レーニングのため、J・コルタサルの『遊戯の終り』のなかの「河」を読んだ。といっても4ページにも満たない掌編。(もっとも「続いている公園」なんか、たった2ページだがすごい)
長さは問題ではない。ひたすら叙述するだけでいい。そう思って、もう一度スタート地点へ戻ります。まだ40日の上、時間はあります。
以前、ばりばり休みなく書いていた頃、カフカの「観察」がバイブルのような位置にあったことがあった。そしてカフカの断片張りの散文詩めいたものを書き、それが核となって小説になったというケースがいくつもあった。
そんな風に散文詩に近い文体で小説を書きたいなんて思うからにっちもさっちもいかなくなるのだけど、未だに書くことをやめないでいるのは、自分が気に入った小説を書きたい、ただそれだけなのだから、妥協がいちばんいけない。
そう、自分のためにだけ書こう!
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