2006年12月31日日曜日

人間をかくあらしめる者へのサディズム

『悪徳の栄え』
『美徳の不幸』

 実生活のサドの性的嗜好がどの程度サデイスティックであったは余り知らないが、作品を読んでいる限りは、サドの描く加虐が単なる性的嗜好のせいだけにはどうも思えない。
 サドという作家のサディズムが何に向けられているか。
 『悪徳の栄え』は姉ジュスティ―ヌという放埓の限りをつくす女性を主人公に、『美徳の不幸』は敬虔な妹ジュリエットを主人公に書かれている。
 『悪徳の栄え』では姉は男たちに妹を凌辱することを唆しさえする。それが性的であるがゆえにサドは文学上だけでなく、「サディズム」という言葉の上にも名を残した。

 私にはそれが、「人間をかくあらしめる者=神」へのサディズムとしか読めない。
 (サドにはそういう性的嗜好もあり、多分、間違いなのだろうが。)

 それから、男たちにあらゆる凌辱をし尽くされたジュリエットが命を落とすのは落雷によってである。
 田中美知太郎さんはこの落雷を「デウス・エクス・マキーナ」であると書かれていたが、「デウス・エクス・マキーナ」は通常は機械仕掛けの神による安易な解決、安易なHappy Endと解釈されて非難されることが多い。
 この落雷による死は、果たしてジュリエットにとってDead Endなのか、Happy Endなのか? 
 あるいは物語の終り方として必然の終りなのか、安易な幕引きのための終りなのか?

 男たちによって散々いたぶられた挙句に落雷などで死ぬのは悲惨であり、最悪のDead Endである。
 他方、落雷によってこの世の苦難から解き放たれるという視点からだと、雷という名の電気の神によるジュリエットの不合理な死は、ほとんど神の恩寵に近いHappy Endになるのである。
 このように、ひとつの現象に複数の解釈が可能な時代であり、人の死やさまざまな出来事の終り自体がDeadでもHappyでもないような、神のいない平板な時代だから、こういうことを考えること自体が時代錯誤のような気もする。
 ひとりで、黙って考えていればいいことかもしれない。

 少し空いた時間を使って、散文ブログちりぶみへ行き、「エミリーとカレーライス」を読む。「エミリーに薔薇を」みたいなつもりで読み始めたらとんでもない。作者は相当に異能のひとである。理科系の脳で小説を書くとこうなるのかもしれません。

5 件のコメント:

  1. 「偏愛図書室」にサドがきましたか。ちょっと驚きましたが、「人間をかくあらしめる者=神」へのサディスムといわれてなるほどと思いました。たしかに神を挑発しているように見えます。そしてそれはまた、人間をあらしめる者をあらしめようとすることにも見えます。シモーヌ・ヴェイユの神学を思い浮かべました。対極的な表われ方ではありながら、じつは同じ根から出ているように。いや、以前から、ヴェイユとサド、さらにサドの継承者(だと勝手に私が思っている)クロソウスキーが、近しいものに思えていたのです。その根拠が、この記事で見えてきたように思えます。

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  2. 今年初のコメント、ありがとうございます。
    不勉強にしてヴェイユもクロソウスキーも未読ですし、ろくに勉強もせずにサディスムについて感覚的に考えてしまいました。
    「人間をかくあらしめる者=神」へのサディスムというか、思うがままにならない対象への愛憎でしょうか。
    愛と憎悪がイコールになってしまうくらいの。

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  3. クロソウスキーの『ロベルトは今夜』のことを言えば、サドの系譜とはまるで違うと思います。
    フランスの文学者には時としてサドのような人間離れしたエネルギーをほとばしらせる人が出てきます。
    まずラブレーがそうだと思います。サドの後は、アポリネールの『一万一千本の鞭』(これは冗談ではなく)。
    次に、快楽の果てしない追求という意味ではドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オィディプス』。冗談だろうと思われるかもしれませんが、根元にあるものは同じではないでしょうか。
    なお、田中美知太郎氏が具体的に何を言ったか存じませんが、『美徳の不幸』のラストはデウス・エクス・マキーナではないと思います。
    サドは、ジェスティーヌを崖っぷちのギリギリにまで追い詰め、救いの手を差し出さず、ジェスティーヌを蹴り落としたわけです。
    最後に救いの手を差し出すのが、デウス・エクス・マキーナであると思います。
    以上、またまた生意気なことばかりで申し訳ありません。
    是非、面白い本を書いてください。心より楽しみにしております。

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  4. コメント、ありがとうございます。
    未読の作家、作品には手も足も出ませんが、『一万一千本の鞭』は『毛皮のヴィーナス』と一緒に若かりし頃に買って持ってはいます。が、どっちにしても未読ですw。
    >最後に救いの手を差し出すのが、デウス・エクス・マキーナであると思います。
    そうですよね。デウス・エクス・マキーナが登場すると受難した主人公に救いの手を伸べ、ハッピーエンドで終わる。それが一般的です。
     ただ、どうもそれだけではないと私は考えています。
     救われないことが救いであるというような結末。だからこそ落雷で死なす。
     死ぬことが救いである。そのためのデウス・エクス・マキーナ。こんな言い方では、お解りにならないかもしれませんね。
     言いがたいことを言うのはむずかしい、です。今夜はことに「下手な考え休むに似たり」に近い思考の空回りに時間を費やしたものですから、頭が悶死しそうです。軽く一杯ひっかけて休みます。

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  5. クロソウスキーについて、安易な書き込み、面目ないです。仰せのとおり「ロベルトは今夜」がサドの継承などということはあり得ませんね。「バフォメット」のことを考えていたのですけれど。
    「アンチ・オイディプス」についてはなんとなく、ですが、わかる気がしますが、フェリックス・ガタリの単著を2・3読んだ記憶を辿ると、そちらのほうが、まだわかる気がいたします。
    アポリネールは未読にて、お恥ずかしいです。

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