「収穫の神の罪」。
この短編をネタバレしないように書くのは、とてもむずかしい。最初から謝っておきます。
短編だがⅠ、Ⅱ、Ⅲに分かれており、しかも途中か最後まで読んでから、時制がバッハの無限(無窮)カノンのように繋がっていて、実際には時制はⅡ、Ⅲ、Ⅰの順であり、終りがまた最初に繋がるという面白い構造をしていることが判る。
しかもⅠでは、いきなり腹を刺された男が登場する。これはまるで映画、あのエイゼンシュタインの「アトラクションのモンタージュ」だ。いきなり腹を刺された男が広場に現れ、何だ何だと読者を有無を言わせず作品世界に引き込んでしまう、なかなか巧妙なAttractionのモンタージュだ。だからこそ時制をひっくり返す必要もあったのだろうが。
幕のような雨のなかを、白いスーツを着て襟のボタンホールに赤いカーネ-ションを挿した男が、腹を刺されて村の広場に現れ助けを求める。だが、村人は誰ひとり男を助けようとしない。男は助けを求めながら、ふらつき、転び、這って教会の扉までたどり着くが、そこも鍵がかけられている。男は泥と血のなかに倒れこんだ。
Ⅱは村のカフェが舞台で、ひどい旱魃で村全体が苦しんでいることが判る。村長も旱魃のため経済的苦境に陥っており、その解消のために本人の了解無しに娘を肉屋と婚約させようとしていることも判る。またこの村が戸数27戸しかなく、村として成立せずに町に吸収され、村長も不要になることも判る。
Ⅱはアリストテレスいうところのアナグノリシス=認知のための章だといえる。
(だとするとアリストテレスいうところのペリペテイア(筋の急転)はどこか? Ⅲで雨が降って、村長が肉屋に娘との婚約を反古にする場面である。)
そしてⅢでは村の収穫祭での村長の演説がある。村長は演説の直後に娘と肉屋の婚約を発表することになっていた。
演説を終えたか終えないかのうちに、雨が降り出した。これで旱魃から救われると知った村長は肉屋に娘との婚約破棄を伝える。肉屋は白いスーツで襟のボタンホールにカーネーションを挿し、村中から嫌われていたせいかカービン銃さえ携えていたのだが、そのカービン銃で村長を撃ち、姿を消す。
そして、祭のテーブルに置かれたイノシシの丸焼の脇腹に切り分けるために刺さっていたナイフを、「海辺のクジラ」の主人公であり、カフェの経営者であるクジラが引き抜いた。
そしてクジラはあかりで照らされた静かな広場をあとにする。
この最後の場面がバッハの無限カノンのようにⅠに戻る仕組みになっている。しかもⅢからⅠへ戻る間におそらくクジラが肉屋を殺害したであろう実行行為は済んでいて、われわれは実際の殺害場面は知ることが出来ない。刺された肉屋が苦しみ、のたうち、助けを求める場面は展開されるが、刺す場面は巧妙に省略されている。だから本当は誰が犯人か判らない。読者が想像するしかないのである。
次の「いけにえ」はそういう技巧にこらず、ほぼ直球勝負で、古代ギリシアからの生贄の儀式を思わせるような、わが家で飼っていた牛を殺さざるを得なかった親子の状況を描いていてなかなかいい短編になっているが、ギリシア悲劇を少しでもかじった者にはこの父親にディオニュソスという名前を付けるのは勘弁して欲しいなという気がいたします。
「「冬の猟師」。雪で村に迷い込んできた猟師たちの、村から出る前の、村人を集めての雪の中の行為がひたすら怖い。そう、怖い短編、です。
この短編連作集は、フォークナーやジョイスなどの仕事の仕方と同じで、ひとつの村を舞台にしていますが、語る視点を十九も設定してポリフォニーでもってひとつの村=世界を表現しようとしています。
「わたし」なり「彼(または彼女)」、あるいは名前を付けて「何のなにがし」とか、そういうひとつの固定した視点で世界を語ることには限界と胡散臭さがありますが、こういう無数の視点から全体を浮かび上がらせようという方法に、私も強い関心をいだいています。
(こういうことは、全作読み終えてから書いた方がいいのですが)
wha、12日のGoogleのタイトルロゴの背景、ムンクの「叫び」だった。しかもカーソルを持って行くと、Edvard Munch Birthdayという文字が。
今年二月発行の「ジャン・メリエ遺言書」(法政大学出版局刊、31,500円)が、何と古書検索で3冊もヒット。それでもまだ高くて、22,000円、24,000円、25,000円、(-_-;)、い、一万円以下になるのはいつでしょう。ならないでもっと上がる可能性の方が高いです。
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