『重力のお友だち』よこい隆(「木曜日」23号)
純文学の多くの小説は視点がひとつ(一人)に固定されていることが多く、それが作品の信頼性を保障しているように考えられているが、実はそんなのは錯覚的神話にすぎなくて、前世紀には視点を固定せずに書かれた傑作がたくさんある。
この『重力のお友だち』も作品の視点はひとつだが、それが登場人物の誰かに固定されている訳ではない。
ある時は母親の頭の上から母親のことを描写し、カズくんの上空からカズくんの行状を描写し、更には、登場まもなくカズくんに蹴られ、運悪く打ち所が悪くてそのまま死んでしまった、死後のコータロウの山中での転変の様子までを読者の眼前に差し出している。
現代小説が拘束されている「視点」という重い問題の重力から、この作品は自由であり、自由自在に人物を上空から語っている。
かつて丸山健二がやはり死者の視点というか、死者の頭の上に視点を据えて書いた小説があったが、あれでさえ固定焦点レンズであった。が、『重力のおともだち』は、固定焦点ではなく母親、カズくん、コータロウ、あるいはチンピラであれ海辺でしゃがみこむおねえちゃんであれ、誰でも自由自在に書ける多重視点の小説である。
この試みが、私にはかえって新鮮だった。無論、このことは作者自身が承知して行なった確信犯的創造行為である。
ことに、母親とカズくんの書き方はスカスカというか(うふふ)普通であるが、コータロウの部分が出色である。
コータロウが地球の重力の涯にまで転がってゆく様子まで目に浮かんでくる。
また、冒頭に置かれた「コツンンン、コツンンン」という聞きなれないオノマトペが何事が起こっているのかととわれわれをattractする。それが更にリフレインされる。
母親とカズくんと三人で暮らしていた日常が裂け、地球の深淵が開かれてゆく音なのかもしれない。
コータロウの身体は、カズくんの周囲を二度回って勢いがつくと、頭と地球儀をまえにして、フワリと宙を飛んだ。すこし傾げた。脛に木の幹があたった。とたんにバランスをうしなったコータロウは、つぎの幹に頭を打ちつけた。細く尖った枝が、絶えずコータロウを突いた。腐葉土の枯れた音がコータロウの身体を包み、コータロウは、名もしれぬきのこをなぎ倒しながら、急な傾斜を転がって落ちていった。地球は丸いから、どこまでもまっすぐにいけば、もとのところに戻ってくるのだと、カズくんはコータロウに言ったのだった。毛布の外には、冴え冴えとした闇。
コツンンン……
コツンンン……
(199頁下段後ろから9行目から12行)
晴れたままの山のなかは、陽を浴びた木々や土が水分を吐き出して、純白の靄がユラユラと立ちのぼっていた。コータロウの身体は、微小な生き物たちの忙しい作業場と化していた。生き物たちは瞬間ごとに増殖しているまたそれよりも大きな生き物たちは入れ替わり立ち代り、コータロウを少しずつ運んでいく。しだいにコータロウは、蓑をすり抜けて、地に滲みだし、溶けていく。微小な生き物たちの活動で蓑のなかは熱を帯び、山から立ちのぼる靄に紛れて、コータロウの蓑からも白い湯気が起こっていた。蓑のなかで、発する熱にもむらがあり、かすかな気流が立っている。気流はコータロウに寄り添う地球儀に雲を起こし、雨を降らせる。
野犬が、匂いを嗅ぎつけている。
(204頁下段後半)
ここの斜体にも要注意!
気流はコータロウに寄り添う地球儀に雲を起こし、雨を降らせる。
この表現に何か感じません?
薄汚れた野犬が、蓑の上から、コータロウに鼻をすりつけ、そのたびヒクヒクと鼻梁に皺を寄せる。もちろん、お母さんもカズくんもそれを知らない。野犬が毛布を咥えて首を振ると、コータロウの頭が地球儀に当たって音を立てた。そのとたん、野犬は足を滑らせ、傾斜を転げ落ちていった。コータロウはまた取り残された。 (206頁下段1行目から)
コータロウの死体の腐敗もこのように描写されれば美しくさえある。何もリアルに腐敗を描写すればいいというものでもないのである。
また、斜体にしたもちろん、お母さんもカズくんもそれを知らない。に注目!
前の文章にいきなりこれを突っ込んでくるよこいさんの度胸というか、図々しさというか、超絶技巧というか。これって、映画の技法でいうところのモンタージュじゃありませんか?
ところで、一点だけ個人的好みから出る不満を言わせていただけば、次の2行は絶対に作品の終わりにこそ置いて欲しかったです。
やがてコータロウは、眼に見えぬ小さな生き物たちに分解され、昆虫たちに運ばれて、地球に溶けていった。 (206頁下段、13~14行目)
文芸同人誌案内の掲示板にも投稿してこようっと。(あ、よこいさんにPDFファイルを送信してもらって、表のサイトのデジタル文学館にアップ・ロードしようかな)
あ~! 嬉しい!!!!!!!
返信削除斜体部、そこに触れてもらえるのは、率直に感激です。そのためのスカスカ文章ですらあった、といってもいいくらいです。
泣けました。
終わり方、悩み抜いたあげくの、放り出し・・・。それなら逆に、もっと早く終わる手もあった、とは先般Nさんからもご指摘を受けました。これは新たな、今後の創作の際に、使えるアイデアだな、と。
いや、放り出さなければいいのですけどね。
ありがとうございます。
たびたびお邪魔しちゃいます。
返信削除更なる書き込みで進化を遂げる記事、感謝です。
デジタル文学館のお話、これでよければ、喜んで差し出します。ご検討のすえ、その気でしたらメールでもいただければ、あのまんま、カット入りですけれど、PDFを差し出します。
PDFファイル、送って下さい。
返信削除そうすれば紙版の「木曜日」を持っていない人にも読んでいただけますから。
(しかし、Adobe Readerがインストールされていないひと、いますか? HTML版も必要かな?)
ほんとうは無料HPスペースを借りて、広告付きでもいいから、「文芸同人誌案内・付属デジタル文学館」とか開設したら面白いでしょうが、作品の選定がむずかしそう(それが原因で破綻しそうな気もします)。
相変わらずの歌舞伎町ネットカフェゆえ、明日、遅くともこの週末中には発信します。(ほんとうにいいのかなぁ・・・、あんな作品を載せて・・・。恐縮気味)
返信削除HTMLは作ったことがないのですが、ワードやテキストのファイルなら、用意できます。正直に言うと、PDFも、「木曜日」全体に結合したものしか残っていないのですが、ワードが残っているので、すぐに作れますので、ページ番号も振りなおしておきます。
デジタル文学館のような場所は、やはりおひとりで、「俺(私)が決める!」と言い切る度胸が、なければ困難だと思います。広がれば広がるほどに、困難になる。こんな言い方は、現在のデジタル文学館が閉じた世界みたいで申し訳ないですが、euripidesさんのように、独断できる人がいなければ破綻は免れないでしょう。
これって、巨大な同人誌にも同じことが言えそうですね。かつての「文藝首都」には、編集委員がいたそうです。「AMAZON」さんなどはどうしているのでしょうね???
日本ペンクラブの「電子文学館」は会員が自己応募したものを無条件でアップしている感じですよね。
返信削除それでいいのかもしれません。妙に選考とかしたら揉めること必定ですから。
「文芸首都」は中上健次みたいに体がごつくて声のでかいひとの意見が通っていたのではないでしょうか。
わが県内のS文学賞選考でも自信たっぷりにでかい声で発言すると、意外とすんなり通ってしまったりします。
「AMAZON」さんはもっと民主的だと思いますが、最終的には主宰者の判断でしょうね。