2008年12月13日土曜日

物書きが「権威」に寄りかかるのは

 どうも物書きの癖に妙に権威を有難がるひとがいて閉口する。
 たとえば、十年も二十年も前に文學界同人雑誌評でベスト5に入って転載されたことを、いまだに口にしたり書いたりしているひとがいたり、たとえば、ベスト5に入って転載されたことでほんとうの自分の姿を見失って、人生の歯車が狂ってしまったひとがいたり、それらを実際に見聞している身としては、物書きが自己の目で判断するすることを放擲してしまい、その筋の権威が言ったこと、書いたことを、ものぐさ坊主の胡散臭いお経のように有難がっていて、そんなことで文学という究極の自己表現が成り立つものかどうかと、ひとこと言っておきたい。

 私は、むやみにプロ作家の名を振りかざすような物書きの言動には、必ず眉に唾を塗ることにしている。
 自分の意見ではなく、プロ作家の誰それがこういった、ああいったなどと言ったり書いたりするのは、彼が自分の考え・意見を持たないことの逆説的証明に過ぎなくなってしまいます。

 どんなに拙くても、自分自身で考えたこと、感じたこと、生きたこと、そして書こうとしたこと。それこそが大事なんだけど......。


2 件のコメント:

  1. 以前、すべての文章を引用で成り立たせ、「なんとなくクリスタル」ではないけれど、すべてのセンテンスに脚注で引用元を明示する小説を目論んだことがありました。そこには、自分の科白もすべて、「誰それは、こう言っているね。どこそこにこう書いていたよ」と言った言葉だけになれないか、“自分”と言ったものを消し去れないかという夢想がありました。
    言葉が意味を纏った記号であるならば、しかし私が何かを言おうとするとき、かねて存在する言葉の意味に依存しなければならない何も伝え得ないという点では、すでに、既存であるところの言葉というものが持つある種の権威に寄りかからざるを得ないということもまた確かです。そして、思考が言葉に頼っているならば、“自分”もまた、そうした依存のなかで成立している。
    私は、言葉を使って自己表現するより、むしろ言葉を使って自己を消し去りたいと思っているようです。だから人称にこだわっているのかな・・・。

    返信削除
  2. >私は、言葉を使って自己表現するより、むしろ言葉を使って自己を消
    し去りたいと思っているようです。だから人称にこだわっているのかな・・・。
     む。
     言葉を使って自己表現。
     むしろ言葉を使って自己を消し去りたい。
     むむ。
     
     私が理想としている小説の書き手の姿は、隠れ蓑を被って自分の姿を見えなくした天狗のような、そういう立ち位置で書けたらなあと思います。
     自己なんか表現したくないんですよね。
     むしろ他者を表現したい。
     これはかなり痛烈な欲望ですが、どうしてか他者を表現できずに自分を表現していたりして、それがおぞま鹿ったりして……(崩れました。実は毎月15日恒例の赤提灯から帰宅したばかりでして、とほほ)。

    返信削除