芝居の世界では小道具と呼ばれていて、たいていはリアリテイを保証するためにさりげなくそこに置かれているだけでさしたる関心も寄せられないことが多いのだが、これまで読んだ小説に登場した果物の幾つかが、小道具の範疇を超えていまだに強い印象で存在しつづけているので、そのことについて考えてみた。
『蜜柑』といえば芥川龍之介の短編だが、井上光晴が「文學界」の昭和五十六年四月号から五十九年十二月号まで連載した掌編四十編をまとめた「だれかの関係」(昭和六十年文藝春秋刊)にも、『林檎』と『ナイヤガラ』が登場する。
芥川の『蜜柑』と井上の『林檎』には、作品の場の設定という点で明らかな類似がある。それは、どちらも舞台が列車の中であるという点である。
『蜜柑』では、芥川と等身大とおぼしきインテリが、列車で乗り合わせた田舎くさい娘が窓から弟らしき少年に向かって蜜柑を投げる場面に奇妙に感動するというか、衝撃を受けた詳細が描かれている。
井上光晴の『林檎』はどんな作品かというと、若い男とその同行者である少女が列車の座席に並んで座っている。列車が急停車する。跳び込み自殺があったらしい。ふたりの向かいの座席に座っている男が、横に置いたズック鞄から林檎を取り出し、器用に手でふたつに割って若い男にその半分を差し出す。彼はそれを断る。男は半分を食べ、残る半分を自分に話し掛けた少女に差し出す。若い男の頭は、少女が林檎を咀嚼する音と甘酸っぱい匂いでずきずきする。彼は今朝少女に出会って、「ねえ、何処かへ連れて行ってくれない」と声をかけられただけでドライブ・インで定食をいっしょに食べ、その二階で彼女を抱き、そしてあてもなくふたりで列車に乗ったのだった。
やがて事故処理の済んだ列車が動き出す。ふと彼は、あの女のことを考えはじめる。自分よりかなり年上の、二十七、八の女の部屋に彼は七ヶ月の間通ったのだったが、二週間前に「もうこないで」と言われた。その翌日、さらに三日おいて訪ねてみたが、女の部屋の明かりは消えたままだった。昨夜行ってみると、彼があきらめたものと安心したのか電気がついていた。
「ままごとはおしまい。そんなこと位わかるでしょう」
そう女に言われた彼が、彼女の首を絞めたらしいことが分かる。殺人という人間的か非人間的かよく分からない行為をさりげなく済まし、女の部屋を出たその足で彼は少女を拾い、列車に乗ったのだった。
そして『林檎』は次のように終わる。
...
.三分間停車、というアナウンスがひびいた。かなりの客が降り、旅行鞄や土産物を下げた客がホームを動き回りながら列車に吸い込まれた。
「ああ、この温泉知ってる」少女はいった。
「姉さんがきたことあるのよ。会社の旅行でね。温泉饅頭貰ったからおぼえているんだ」
「姉さんがいるのか」彼はいった。
「本当は違うんだけどね。ただの親戚だけど、姉さんといってたの」
列車が動きだすと、少女はポケットから小さな櫛を出して髪を梳いた......
芥川の『蜜柑』では、インテリが無知蒙昧そうな田舎娘に自分にはない何かを発見して視点が変わるという、まさに近代インテリのアキレス腱のようなものが見てとれて、それはそれで興味深いのだが、井上の『林檎』にはそういった作家自身の感動の類いは一切表出されていない。
作家井上はむしろそういう情動には身を置かず、ひたすら記述するだけである。芥川同様に、列車の中というシチュエイションと、果物という同じ小道具を用いながら、井上は芥川と同じような小説は書かなかった。芥川のように解釈を挟むこともない。現代人であった彼はひたすら記述した。フランス語でエクリチュールなどといわれると何のことか分からずにどぎまぎしてしまうが、要するに記述か叙述のことだろう。その意味では井上は立派な記述者、すなわち作家であったと思われる。
『ナイヤガラ』は、洋服ブラシの訪問販売をしていていた十七歳の少年庫治と訪問先の四十四歳の人妻牧子が、その後も週に一度か二度、外で会うようになり、食事をしては港の岸壁で時を過ごしている。そのほんのわずかな時間が描かれているのだが、庫治が以前勤めていた常陽楼という中華料理店の話から、親子ほどに年齢の離れているふたりの痴話や心の駆け引きに至り、会話がもつれて途切れた途端に、庫治は物も言わずに駆け出して岸壁から姿を消してしまう。三十分ほどして牧子が「まさか、ああいうやり方でさよならはすまい、という疑いに捉われ始めた時」、紙袋を抱えた庫治が戻って来る。袋の中身は会津若松産のナイヤガラである。どこかで洗って来たらしく水気の滴る青い葡萄をつまみながら、会話が再開される。
牧子が明後日の金曜日に会いたいというと、庫治は都合が悪いという。すると牧子は来週はわたしの方に都合があって会えないという。紹介出来ないので残念だが、会話が言葉の字数以上に豊富な情報や心理をはらんでいて、それを読み取るのが楽しくなる。
『蜜柑』、『林檎』、『ナイヤガラ』、いずれもそのまま短編映画になってしまいそうな小品だが、ぼくの頭のなかではすでにワン・シーン、ワン・ショットが映像化されていて、そこに会話のひとつひとつが生きた肉声で響くのである。
私も、林檎が題名に含まれる「死海の林檎」という題名だけ虚仮脅しな小説を書くには書いたが、がっかりするほどの駄作であった。
果物ひとつ、物ひとつで傑作が書ける作家はやはり偉い。
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