2006年12月29日金曜日

赦しも癒しも無い文学

 フラナリー・オコナー、『秘儀と習俗』の「自作について」を読んでいてすっかり目が覚めてしまった。
 終りから3行目。
 それから、私の書くものが、恩寵も悪魔も信じない読者たちに読まれる、ということにも私は気づいた。
 あ、これは自分のことを言っている、と、ピンと来た。

 数日前に送られて来た同人誌をざっと目当たりで通読し、五作のうち三作にうんざりした。なぜかというとその三作が皆、どこか、自己を赦されたい、癒されたい、肯定したい、肯定されたいといった「自己えこひいきの視点」からのみ書かれているのが読み取れ、実に不愉快だからである。
 他の二作は自己を描いてもきちんと客観化されていて、そういう不快感は生じないし、むしろ実に気持ちが良い。なぜかというと自己を書くのも他者を書くのも同一の視点から書かれている、すなわち客観的に書かれているから。
 三作はその点、まるでダメなのである。三作とも私小説と判断して良い小説なのだが、よくもまあこれだけ自己肯定の上にあぐらをかけたものだと感心する。同人誌に発表される私小説が読むに耐えないのは、ひとえにこれが原因だ。
 私小説というものが、書き手が現実に体験したことを嘘偽り無く書いた真実の作品、などと思うのは間違いである。彼らは自分に都合の良い視点に立って書いているだけであって、自己の真実の姿など彼らにはまったく見えていないのである。

 とはいえ、文学とは人間を癒し赦し肯定してくれてこそ文学なのであって、赦しも癒しも無い文学なんて読まれないし売れないし肯定されないだろうなと思う。
 太宰治は、天才的に自己を責め、また同時に自己を赦す術に天才的に長けていた。
 どこで読んだか記憶していないのだが、三島由紀夫が、作家には「責める作家」と「赦す作家」がいるが、太宰はひとりでその両方が出来た作家であるような発言をしていた。自分で自分を責めて、自分で自分を赦してしまう、自作自演のマッチポンプ作家である。だからこそ彼は、バカにされながらもずっと読み継がれる作家なのである。
 ただし最後にはそういう自分をきちんと責めて死んだ。これは認めたい。
 ドストエフスキーでさえ、この現実世界のありようを徹底的に責めて責めて責めて、最後には赦しを提示した。この赦しは確かに神々しい恩寵である。

 と考えれば
 赦しも癒しも無い文学というのは埴谷さん言うところの「不可能の文学」の範疇か。

 恩寵も悪魔も信じない人間には
 赦しも癒しも無い文学がふさわしい
 と思うのだが……

8 件のコメント:

  1. こんばんは、おじゃまします。
    「自己えこひいきの視点」から書かれた小説を、私は、温泉小説と呼んでいます。湯につかった自分だけが気持ちよく、ふやけて出てくる…。
    ところが、自分で私小説を、書こうとすると、見事に温泉小説になってしまい、嘘の上塗り、書く意味無し、まだまだ、ド~ンと腹が、据わっておりません。するりと逃げる自分が見えます。磔にでも、してもらわないと、どこまでも、逃げるつもりのようです。
    太宰のお話、知りませんでした。そうか…、いまは責めるけど、あとで赦すから、と考えれば、逃げたい気持ちも、和らぐかしら、などと狡賢く考えてみました。良い話を聞きました。メモメモ…。
    「赦しも癒しも無い文学」は、読者が代わりに引き受けて、赦し、癒す場合も、あるように思います。鏡のように、読者自身を、そのままに照らし出す、こういう文学も、好きです。

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  2. itu:kairouさん、おはようございます。
    こんな怪しい洞窟の奥深くまでようこそおいで下さいました。
    その「温泉小説」の典型を二つも読んだら猛烈に頭に来てしまって、ずいぶんと荒れた文章になりました。
    眠りながら反省して、今朝になって部分削除をしようとパソコンを起動したら、kairouさんにご投稿いただいたので、ありゃ、削除出来ないや、ま、いいか、と (^_^)
    「温泉小説」という言い方、私も使わせていただきます。
    鏡のように、読者自身を、そのままに照らし出す文学。
    そうですね、それがいちばんなのかもしれません。
    というか、虚構と現実がきちんと照応していないと温泉小説みたいに読めない小説になってしまうのかな。

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  3. いたく恥じ入っております。
    まず、自分のブログタイトル。恩寵の何たるかをろくにわきまえもせずに・・・。ただ、恩寵といったとき、私にとってはヴェイユの、「神を待ちのぞむ」という姿勢、すなわち恩寵はこない、神はこない、だから待ち焦がれるのだ、という、矛盾のなかの恩寵があります。
    もひとつの恥じ入りが、我がぬるま湯の「温泉小説」。かねてより、ある同人に、「貴方は男を書くな。女を書いていたほうがいい。たぶん、男を書くと、照れちゃってるんだろう」と言われてきたことを思い出し、男の私が男を書けないこと、男を書いたときに表われてしまうぬるま湯ぶりが言われていたように思えます。
    恥ずかしいです。
    恥ずかしいということが書ければ、それもまたひとつのありようだとは思うのですが、恥を書くことは、すなわち自己の客観視でもありましょう。むむむむ・・・。

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  4. いいえ、lydwineさんが恥じ入る必要は、さらさらございませんよ。
     オコナーが言っている恩寵は、まあキリスト教でいう恩寵なのでしょうが、どうも私はよく理解できていないのです。キリスト教自体をそう深く知りませんし。
     いよいよ今夜あたりから、オコナーのエッセイと並行して「オコナー短編集」と「善人はなかなかいない」の短編集二冊を読み始めます。それでも恩寵は簡単には理解できないかもしれませんが、言葉にはできなくても何か感じ取ることはできるでしょう。
     そういえば、私も男というより自分を書くのが大の苦手&大っ嫌いです。
    こんな自分のどこをどう書けばいいのであろう!?(自爆しそう)
    もしも小説というものが自分を書かなければいけないものだと規定されたら、今すぐ、即刻ペンを置き、文学なんかにさよならする所存、というくらい自分など書きたくないです(爆)。
     これから蓼科山のそばの標高1750mの峠越えをしてきます。何か峠周辺は吹雪いているような、厭な予感……。

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  5. お久しぶりです...。体調壊しててやっとなんとか復調したところです。euripidisさんのブログは読みやすくて勉強させてもらってます。「責める作家」と「赦す作家」のくだりを読みながら私が好きな三島由紀夫はどちらなのだろう〜と思っています。私は太宰も三島も没頭して読みましたがただ、「天才だな..」と思うばかりでした。私って本当に駄目です。
    でも「温泉小説」って言葉は私にもよくわかりました。苦しみながら読むことしばしばです。私も肝に銘じてなくては...。

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  6. ryoさん、体調を崩されていたんですか。年末年始は生活が不規則になりますのでお気をつけ下さい。
    三島は責める作家でしょう。赦しとは無縁の作家で、責めて責めて、とうとうああいう形で自死するような形で決着をつけたという感じです。
    太宰の責めと赦しも表裏一体で、赦されたこと自体がまた責める原因となって、あれはあれでタイヘンです。太宰も一種の天才ではあります。
    「温泉小説」については、誰でも多少は思い当たるところがあると思います。
    ryoさん、あまり苦しんだり肝に銘じたりしない方がいいですよ。あまりネガティブになると、私のように歌えないカナリアになってしまいますので、くれぐれもご用心。

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  7. 「恩寵」という言葉は、手元の国語辞典をひくと、「神仏、主君などのお恵み、慈しみ」と書いてありますが、私はそういうふうには狭く考えていません。上からくるものではない。この世の宇宙規模の空間におのずから存在する光明、というふうに理解し、オコナーに関しても、そう受け取っています。宗教なんて、生きるためのたまたまの方便だと、私は思うのです。カトリックだろうが仏教だろうが、人間の真実は宗教では決して変わることのできない存在だし、究極のところでは、信仰などは解体されるしかない。
    ただ、独りで耐えられないほど苦しいときに、信仰で救われるような気持ちになるのは悪くはないよね、と思います。
    だから、私の「恩寵」は、すごく曖昧だし、便利な言葉ですね。とてもちっぽけな人間臭い可愛い恩寵があり、また、人智を超えた物凄い恩寵もある。範囲が広い。恩寵という希望の兆しがないと、人間は生きられないのではないか、それこそが「たどり着くべき視線の先にある」ものとして、人は苦しみながらも小説を書くのではないか、と考えています。すべては形も何もはっきりしない、人の思いではないでしょうか。死ねば空になる人間の、生きている間の大事なもの。

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  8. おはようございます。
     昨夜、「渦」を拝読し、その後、佐賀の山を背にした古い農家の、空き家で展開されたイメージが写真の現像のようにじわじわと定着して来ています。
     素晴らしい作品です。
     皆様も是非読んで下さい。鳥影社にメールでオーダーすれば誌代+送料で直接郵送してもらえますので。

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