2009年1月15日木曜日

模写でなく描写

 Lydwine.さんの1月12日の記事である「物語」「人間」「描写」考を読んで、そうなんだよなと激しく共感し、つい書く手が止まった(いや、正確には、もうずっと以前から止まっていたのだけど......)。
 確かに、今となっては「物語」も「人間」もどこか胡散臭くて、そのあたりに重心を置いた小説など、プロアマかかわりなく読めたものではないし、恥ずかしくて書けるものでもない。

 だからひたすら描写するほかないのだが、かといってVIDEOカメラを回して映るものすべてといった方法を取ったのでは、それも描写ではなく現実世界をただ模写したにすぎないのではないか?
 
 ほんとうの描写って?(と思わず蹲る......というか、実はこの十年くらいずっと書けずに蹲っているばかりで......すみません)

2 件のコメント:

  1. 昔、おニャン子クラブにスタジオ内で写生をさせるという企画がありました。その際、今や夫の秋元康の絵本を出している、当時美術大生だった高井(現・秋元)麻巳子が、ステージに上るほんの数段の階段をUPで描いたそうです。
    VIDEOカメラで映しても、なお、そこには、空間を切り取るという、主観が働くのではないでしょうか? まして、切り取られたものですら、すべてを書くことはできないでしょう。映像には匂いがありません。触覚がありません。それらを感じさせる工夫はありますが、所詮は映像か音声によるだけです。同様に、文章にするなら完璧な模写などありえないはずです。浅間山のなだらかな傾斜のなかにも、すこしずつ起伏がある、そのすべてを文章が描き出すことなどできず、そこには、描写するものの取捨選択が働かざるを得ません。そうしたときに、描写の取捨選択の基準が、物語あるいは主題に依存したとき、伝えるべきものが伝わればいい、浅間山の何合目に出っ張りがある、なんてことは、物語や主題に関係ない、といってしまったとき、描写が力を失うのではないだろうか、と思いました。
    それゆえに、あえて、3つのうちの「描写」こそ核に据えたいと書いたわけです。
    模写でもいいんです。euripidesさんがなにか見るとき、それはeuripidesさんだから眼をつけ、見出すものになるはずなのです。それはきっと、私のそれとは違うのです。そのときに、私は、同じものの中に別のなにかを発見することになるのですから。物語や主題に依存しない、euripidesさんだから見出してしまう対象、あるいはその見え方の描写があればよいのです。
    などと、偉そうに書いてしまうのは、自分への鼓舞であります。

    返信削除
  2. Lydwineさんの.自分への鼓舞というお言葉に共感・同感・親近感を感じてしまいました。
     確かに、「誰」(人間)のどんな「物語」が書かれたかはすでに問題外であって、小説の根底は「人間」のどんな「物語」がどのように描かれるか=すなわち描写にかかって来るのは、実は古くも新しくもなく、芸術の存在理由なのではないかと思っています。絵(映像)であれ、音楽であれ、詩や小説などの言語表現であれ、この世にある存在や展開される現象をありのままに叙述すること=すなわち「描写」。
     確かに、「模写」もまた意識的な「描写」の一種独特な形態ではあります。
     日本で独特な進化を遂げた「私小説」、それが「人間=私」の個の「物語」であるという図式を簡単に肯定する訳にはいきません。たとえばかつて島尾敏雄が書いた物語、あるいは車谷長吉氏が自己を否定しようとしているのか、自己否定しようとしているのか、さっぱり判らない「私小説」を無碍に否定し去ることは出来ないにしてもです、このように「私的」でしかあり得ない「人間」の。lこのように単純運極まりない「物語」を書くだけの小説なんて要らない。そうですよね、Lydwine.さん。
     浅間山の頂上付近に妙に尖った角のようなものがあることを、高性能のズームレンズで確認した私は、しかし、それを写真やVIDEOカメラではあっさりアップロード出来ても、言葉でリアルに表現することは不覚にも出来ないのでした。
     かつて、結局は二流哲学者でしかなかったニーチェは言いました。
    「存在と現象は美的現象としてのみ是認される」
     これをわれわれヘボ小説書きの言葉に換言してみれば、
    「存在=人間」」と「現象=物語」は、美的現象としてのみ是認される。
     この「芸術=美的存在・美的現象」理論を覆そうとした作家がドストエフスキーであったり、フラナリー・オコナーであったり、現代日本の桐野夏生であったりして、プロ・アマ限らず「人間」やその「物語」を単に肯定的に書きたがっている物書きや批評家のことなどどうでもいいではありませんか、と言ってしまいたくなりました。
     だからこそ、それをいかに「描写」するか、それだけがわれわれに残された道。
     
     (などと偉そうに書いてしまうのは、自分への叱咤であります)

    返信削除