しかし、フランスのドゥ・マゴ賞 (Prix des Deux Magots) の受賞者を見ると、第1回のクノーの翌年に受賞している。
第1回 1933年 レーモン・クノー Le Chiendent (『はまむぎ』)
第2回 1934年 ジョルジュ・リブモン=デセーニュ Monsieur Jean ou l'Amour absolu (「ジャンあるいは絶対の愛」)
絶対の愛ってどこかA・ジャリの匂い芬々なのだけれど、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ は絵も描いて版画もしているらしいので一筋縄ではいかない。しかも、彼の詩や散文の翻訳はネット上でもあまりみつからない。
井上光晴の掌編「お菓子の時間」(「だれかの関係‐40の短編集」昭和60年・文藝春秋刊)を再読、いやこれで五読か十読か、何読めなのか判らない。
単行本でたった6頁の短い作品。
このスタイルのもっと向こうに自分が書いてみたい形があるような気がするのだけど、それは幻想であって、ほんとうはそうではないのかもしれない。
フォークナーの「八月の光」、あるいは途中で読むのを挫折した「サンクチュアリ」、あるいは短編集のいくつかに見られる狂気や暴力。そろそろじっと我慢して、「サンクチュアリ」を読むべきなのかもしれない。あのポパイを乗り越えないと、F・オコナーが書いたものの本質にも迫れないだろうし、これから書こうとするものも書けないに決まっている。
(アメリカの作家って結構バカにしてきましたが、フォークナーとF・オコナーだけはバカにできません。単純に好きなのはフィッツジェラルドだったりして......Wahaha。
「あなたは他者を破壊し、自分をも破壊してやまないわね」
左利きの母は携帯電話を左の耳にあて、右手で唇にルージュを塗りながら、その合間にそんな占いババのようなことを大声でわめいていた。また、始まった。ドレッサーの鏡に向かっている母の髪は長く、これじゃまるで魔女そっくりだし、食事や睡眠のサイクルがめちゃくちゃな上に薬漬けで、すっかり頬がこけてしまった母はまるで女装したイエス・キリストのように貧相で、ふと死相そっくりと感じさせもする。母はまったくパンドラの箱から出てきたとしか思えない。こんな母親から生まれたのだから、わたしもまたパンドラの箱の中にいて飛び出す時期を窺っているにすぎない子なのだろうか。
わたしもまた母に似てあのように淫乱かつ天上天下唯我独尊な女なのかもしれない。そう思うとむやみに不安になって、わたしは健人の携帯に電話した。朝食もほったらかしで、親子で男に電話している朝の光景なんて、何てすてきで、何て愚かしいのだろう?
Wha! また? いかにもつまらないので、こんな書き出しはDelete。これじゃ明晰すぎる。
すでに人生の下り坂をごろごろ転がり始めた身としては、何らかの賞を得たいとか、だれかに認められたいとか、作家として認められたいとか、それはもはや邪魔なことでしかない。
「ああ、よく、ここまで書いたね」、と、読む自分が書いた自分に率直に言える、そういう小説を1篇でも書きたい。1篇でも書けたら、こんな人生、十字路で遭遇する悪魔と交換してもちっとも惜しくないのだけど。
小説(散文)であろうがなかろうが、詩であろうがなかろうが、ひとつのエクリチュールでありさえすればいいのではないか? 小説などではなくただの叙述(エクリチュール)であると、そう思えばもう少し気楽に書けるような気がしないでもないのだけどね。
フィッツジェラルドといえば、何度目かしりませんが、「グレート・ギャツビー」がまた映画化されるそうです。
返信削除私の記憶は、パッと見は貧相極まるのに、稀代の美男子ロバート・レッドフォードの影が薄く感じられたほどのミア・ファローですが・・・。
ゼルダ・フィッツジェラルドの小説に触れてみたいと思っているのですけど、\8,190もする「ゼルダ・フィッツジェラルド全作品」を買う勇気はないのですよねぇ~。
「女装したイエス・キリスト」ってフレーズは、素敵です。
うううう、私もそろそろそういう時期なんですよね。
あっ! そろそろ同人たちに、今年も出すよの呼びかけメールを発信しなきゃ!!
え、また映画化されるんですか。皆さん、「グレート・ギャツビー」は、映画など見ないで小説で読みましょう(って)。
返信削除わ、「ゼルダ・フィッツジェラルド全作品」,8190円!! 欲しいけど、簡単に注文できませんね。