2008年5月29日木曜日

「冬女夏草」よこい隆(「木曜日」No,24)

 「木曜日」No,24がお手元に無い方は、デジタル文学館に「冬女夏草」がアップロードされていますので、そちらでお読み下さい。PDF版はA5縦書き二段組で、よこいさんからデータを提供していただきましたので、「木曜日」No,24のレイアウトそのままです。縦書きでお読みになられたい場合、印刷してお読みになられる場合などにご利用下さい。

 先ずは題名であるが、今年2月頃によこいさんのブログ『読書雑記』で、手塚治虫、戸川純、田中恭吉などの名前が飛び交いながらこの題名に決まってゆく過程を、同時進行で戸川純が唄う映像まで交えて拝見していたので、とても感慨深いものがあります。
 振り返ってみれば、この時期から3月末まで(私は締め切りすぎてもなお......)、よこいさんとkairouさんと私とは、お互いに何ごとかを反射しあいながら小説を書こうとしていたのだった。(と考えれば、稀有な創作体験ではありました)

 さて、この小説、書き出しの4行からして不思議な文章である。
 ひとしれず過ぎた風に鳴る江戸風鈴の冴えた音に似て、凛と立つおまえの眼が、冴えを映して冷めたままわたしを見るから、週間予報によれば、その日は雨になりそうだと言って、パソコンの画面に視線を逃がした。

 ん? おまえの眼が冷めたままわたしを見るから、週間天気予報によれば、その日は雨になりそうだと言って、パソコンの画面に視線を逃がした? 
 何?!
 似た感触は他の文章にもあって、たとえば129ページ上段後ろから2行目からの
 また立ち上がり、ショットを呷りかけるから、いい加減にしろという代わりに、腕を払うつもりが、真紅のチャイナドレスのシルクをパンと鳴らしただけで、おまえは、気にとめずにひと息に干した。蛍光灯の光が跳ねるシルクには、黒い曼珠沙華。

 うーむ、言葉の関節を外した挙句のかっこ良すぎる体言止めが、あまりに素敵。
 とか、次の段落
 そして男が、「土曜日な」とおまえに言い、お前は視線を泳がせながらも、かすかな笑みを浮かべ、同じ言葉をくり返す男に、「わかりました、おねがいします」と、やはり視線は泳いだまま、誰の顔も見ずに答えたその土曜日に、雨が降るだろうと天気予報は言う。

 よこいさんがお好きな野坂昭如の、あちこち関節が外れながら言葉が延々と繋がって行く文体に似ているような、似ていないような。似ているといったら野坂にもよこいさんにも失礼なので、やはり、似ていない。
 この作品の概ねはもう少し短いセンテンスでてきぱき書かれていて関節が外れてはいないのだが、ところどころで関節が外れそうな場所があって、むしろそれが新鮮に感じられたのは、だいたい小説というのはお行儀の良い文体で書かれていて、お行儀が良いゆえに没個性的にならざるを得ないのだが、こういう関節外れの文章は意外と個性を発揮するのである。

 もうひとつ気にかかるのはこの小説が「おまえ」という二人称に乗って書き進められている点で、思わずM・ビュトールの「心変わり」を想起したが、私はこの二人称小説を読んでいないので「冬女夏草」と「心変わり」における二人称の扱いが、どう共通していてどう違っているのかを比較できないのが、実に残念でならない。
 ただし、「冬女夏草」で「おまえ」の言動を物語っているのは「わたし」である。「わたし」もこの作品に登場しているのである。
 つまり「わたし」が「おまえ」の言動を語っているのがこの『冬女夏草』という作品なのである。「おまえ」は歌舞伎町で働く中国人女性であるが、ではこの作品で二人称を借りて物語っているらしい「わたし」は誰なのか? 作者「よこい隆」なのか、そうではなくて作者「よこい隆」が「おまえ」を主人公とする物語を書くために仮構した一人称にすぎないのか?


 そう、もう一点注目すべきは、作者はこの作品で、つい、物語ってしまっているのでした。

(物語るのはエンタテインメント作家に任せて、われわれはひたすら描写すべき宿命にあるのではないでしょうか) 130頁上段、後ろから7行目からの3行。
 今の話となんの関係があるのか、と、おまえが問うようで、降りしきる雨に、暗渠になった蟹川が溢れだすのだ、と物語を続ける。花道通りに、薄く雨の膜が張る。

 そう、「わたし」が「おまえ」の物語を物語ってしまったのでした。
 奇しくも、5月8日の『読書雑記』で聡明な作者自身が誰に言われるまでもなく先回りして自己批評してしまったように。
なんのための二人称なんだ! なぜあんな書き方をしたのか?!
「おまえ」が語り出さなきゃいけなかった。それでこそ、あの時間の使い方も活きたはずだ。
そうすれば、一人称と二人称が相対化されて、書き手と語り手を乖離できたはずだし、物語も膨らんだだろう。
ちゃんと、「おまえ」に語らせるべきだった。


 激しく同感いたしました。
 そう、「わたし」が物語るのではなく、もっと「おまえ」にも語らせるべきだったと、私も強く深く、思ったのでした。


 (と、ここまで書いて睡魔に襲われてどうにもなりませんので、もう一点、「ここ、いいよね」という個所については、また後で追記いたします、  ) 




追記

 以下に私が「ここ、いいよね」と思った、いかにもよこいさんらしい描写をいくつか引用いたします。
 ほんとうに、背筋がぞくっとする個所があるよね。

 おまえは、外階段から、歌舞伎町の景色を眺めたことがあるか? 女のタガログ語、酔客の声、女声の片言の日本語、どこからと行方もしれず声が届く。ビルの屋上に、プレハブが長屋みたいに建っている。西新宿の高層ビルが、宇宙を区切っている。詰め込まれた小さな宇宙だ。開いたドアから、臙脂の天鷲絨の椅子が覗く。タガログ語はそこから聞こえてくるらしい。見下ろす四角い屋上の群れには、プレハブにさえ光がなくて、ビルの隙間から洩れるように光彩が立ち昇る。道を歩いていれば、光は降るように、あたりを埋め尽くすのに、上から見下ろすと、意外に暗い。ここではときに、自分の羽も、フェアリーダストも信じていない女が飛ぶ。

 店の片隅には、黙ったまま、見えもせず、視線だけの女が、そっと店内をうかがっている。

 背の低いビルの屋上は暗く、その暗がりには、見えない女たちが揺蕩っている。ときに、スッと、空へ昇るものもいる。かと思えば、昇りきれずに、暗がりの宙に靉靆く。靉靆いて、ビルの隙間から立ち昇る灯りに、陽炎う。

 またひとり、見えない女がユラユラと屋上をゆくと、やがて飛んだが、その女は空へ向かわず、光る谷底へ吸い込まれた。谷底で、最初に悲鳴と怒声が聞こえ、そのままザワザワと落ち着かない。屋上に揺蕩う女たちも、宙に靉靆く女たちも、ざわめいた。気がつけば、わたしと肩をならべて、見えない女がコンクリートの手すりに肘をついて新宿の街を見ている。眼が合うと、誘うように、悲しそうに、躊躇うように、笑った。


 そして終わりの部分。
 パソコンの画面は開いたまま、黙すおまえのまえに立った。おまえからユラユラと立ち昇る陽炎のような透明の影は、ココナツのように甘く、だけどサラサラに乾いた香りがする。ユラユラと動くのは、おまえを取り巻くなにかで、おまえは、表情ひとつも変わらない。と思うと、おまえが眼球だけで見上げて、口角を優しくあげた。おまえの匂いが強まる。花粉を撒き散らしながら、真っ赤な花弁がメイズのように入り組む一輪の大きな花が、おまえのなかに咲いているから、そっと抱こうとしたのに。
 冬が終われば、きっとおまえは濃緑の丸いケシ坊主に姿を変えて、やがて細粒のケシ粒を風に乗せるだろう。


4 件のコメント:

  1. ありがとうございます!
    間接、外れてるでしょおぉ・・・。これ、じつは前っからの癖というか、私が陥るところなんですよ。日本語って、述語が最後に来るけど、助詞や接続詞次第で、述語を省いても意味が通じちゃうんですよね。そう思い込んで、ポンポンと述語を省いちゃったりするんです。で、わかんねぇ、って言われてちゃう。ようするに自己満足なんです。
    そして、二人称の使い方ですよね。せっかく「おまえ」という人称を使ったのだから、一人称の「わたし」が書き手や語り手ではない、小説のなかの人物に相対化されていかなければ、この書き方の意味がなかったのですよ。ご指摘のとおりです。
    > ではこの作品で二人称を借りて物語っているらしい「わたし」は誰なのか? 作者「よこい隆」なのか、そうではなくて作者「よこい隆」が「おまえ」を主人公とする物語を書くために仮構した一人称にすぎないのか?
    ここを作り上げていくためには、どうしても、「わたし」の相対化が必要だったはずなのです。
    考えが足りていなかったです。
    というわけで、思っていたところに、ナイフを突き立てるご批評、ありがとうございました。感謝!!!

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  2. 済みません、まだ書きかけのままアップしてしまいました。誉めるところが後回しに……。
     ナイフなんか突き立てていませんよ~。
     後ろからこちょこちょ、くすぐっているだけです。

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  3. 進化を遂げている。ますますありがとうございます。気障な文章だなぁ、と思っていたのですが、好意的に読んでいただいて、救われました。
    それから、前のコメントは言葉が足りてませんね。ナイフのように鋭いってことで。

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  4. いやいや、気障というより、詩的でさえあります。
     散文にもポエジーは必要なんですけどね。

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