たとえば文學界同人雑誌評が無くなったとしても、われわれは書くことや同人誌を発行することをやめないであろうけど、私は書くことだけを大事にしている訳ではない。
これまでにも繰り返し書いているが、書くこと(創作)と読むこと(批評)は右足と左足に相当し、双方がお互いを反映しあってこそ誰も書いたことのない小説にたどり着くことが出来るのだと私は信じている。自分で書いて、自分で読んで、考えて、感じて、さらに書いて読んで、そうしてこそ誰かが書いたものの再生産でない小説が書けるのだ。
そんな青臭い考えを、半ば自棄になって思い切り遠くに投げ飛ばしながら、今夜はちょっとした夢想をした。
ひわきゆりこさんの「文芸同人誌案内」によって全国の文芸同人誌の動向が見えるようになって来たし、私が司書となっている「デジタル文学館」に、今後アーカイブされる作品が多くなれば、発行部数が数百部で入手困難な同人誌に掲載された秀作も自宅に居ながら読めるようになる。
でもまだ、何かが足りない。
それは「批評」だ。
商業誌の末尾に申し訳程度に置かれた、おためごかしな、読者獲得のためのシステムとしての同人雑誌評や、何事かの目的や打算や他意がある寸評や印象批評では断じてなく、純粋に作品を読んで感じ、考え、解釈し、書くという、創作をバックアップする純粋な「批評」が決定的に欠けているのだ。
批評の不在は創作の低迷を招き、創作の低迷は批評の不在を招く。
(何か利いた風な言い方で済みませんが、ほんとうにそうなのだと思います)
そこで考えられるのは、同人誌の書き手だけで相互批評をする会員制の場を設けることである。場所は無論、ネット上であるが、状況に応じてその相互批評を印刷された会報を作ることなど造作もない。アナログとデジタルの双方を有機的に生かしてこそ会員の資格は、みずからが小説を書き、また自分以外の書き手の小説を読んできちんと文章化、すなわち批評出来ること、それだけが条件である。
あわわ、これは、眠って目覚めたら記憶にもないであろうはずの、一夜の夢想にすぎません、(ーー;)
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