2008年5月14日水曜日

久々の偏愛図書室

 中嶋たかしさんの「21の物語」を紹介するページを復活させることにした。
 版元新○社は倒産してB芸社がそっくり買い取る形になったようなので、版権も移動しているのであろう。中嶋さんご自身とも直接コンタクトする術がないが、隠しページの形で復活すればあるいは検索されて気がつかれるかと期待して。

 以前、やはり小説を書かれるR子さんから、その大切な物書き仲間である中嶋さんのこの本をいただいて、すっかり魅了された。
 どことなく山川方夫の作品を彷彿させるさせるような、しゃれて詩的な掌編が21も並んでいた。 正直言って、S社からの出版では惜しいと思った。
 そこで中嶋さんの了解を得て、数編ずつ立ち読みという形なら版元も了解ということでアップロードしたのだったが、いつまでも立ち読みでもあるまいとリンクを外してしまった。

 その後のR子さんは今も書くことに専念できない現実にあり、中島さんもまた、馘首されていなければ福岡市内の学習塾講師をされながらパチンコをされているか、馘首されていればパチンコ・プロとして生きられているのか......。

 実は、R子さんは福岡市出身、中嶋さんも福岡在住である。
 やはり、福岡は文化・文学の根が強い土地柄であると感嘆せざるを得ない。
 多分、御柱に熱を上げる諏訪湖周辺に同人誌が異様に多いのと同様、血沸き肉踊るような祭りを伝統文化とする地には、文学も深く強い根を張るのである。
 どうしてって? 文学もまた、あのように血が沸き肉踊るようなパッションを必要とするからです。パッションとは、情熱であるとともに受難(受苦)でもあり、それは創作の過程にそっくり当てはまりまるのです。
 生きることにパッション(情熱)の強い人間ほど、パッション(受難・受苦)もまた強く大きく訪れる。ドストエフスキーの主人公たちがそうである。生命力の強い人間ほど自己に対する絶望も強く深い。文学の存在理由は、まさにそこにあるのではないか。
 



 という次第で、このブログを反復して訪れていただいている、両手の指で数えられるほどの希少な皆様だけに、無名だけれども、だからこそかえって私が偏愛する書き手、中嶋たかしさんの本を紹介させていただきます。
 とりあえずは古いままままのHTML版のままのUPですが、いずれ近い将来、全作品をPDF縦書き版でUPしようと思っています。
入り口はこちら
中嶋たかし「21の物語」 



創作MEMO
 
 短編「赤い靴」の着想。童謡の「赤い靴」が背景に流れている。
 主人公、生まれは東京世田谷の高級住宅街だが日本人ではなく、成人して父母の国の親戚の男と結婚、横浜から出国。戦争を挟んで、その結婚生活が破綻して帰国。
 日本人男性と再婚したものの先立たれ、今は特別養護老人ホームで暮らす。
 あれれ? このままだとただのド演歌的リアリズム小説にすぎないではありませんか。もうひとひねり何か必要、or, 没!
 

2 件のコメント:

  1. 中嶋たかしさんの「21の物語」は以前も読んだことがありました。今回は、ゆっくりとひとつひとつを味わって読んでいます。なんと優しい、透き通った草の露のような叙情でしょうか。
    「パッションとは、情熱であるともに受難(受苦)でもあり、それは創作の過程にそっくり当てはまるのです」というお言葉、本当にその通りだと思いました。情熱よりも受難のほうが大きいときもありますが、どうやってそれを表現するか、ということにまた情熱を燃やします。
    演歌は踏ん切りが悪くて全く好きではありませんでしたが、坂本冬美という歌手は、その踏ん切りの悪さを、粘った情熱でひとひねりもふたひねりもして、芸術に近い歌にしあげているな~、と思います。たまたまネットで映像と歌を聴き、感心しました。

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  2. You Tubeで、歌手名で検索すると面白いですね。
     受難、受苦というのはキリスト教的な意味合いもありますが、すでに古代ギリシアの時代から認識されていた概念で、生まれて来たこと、命を受けたこと自体がパッション(受難・受苦)であるという視点はすごいですよね。
     日本の私小説的・自然主義的リアリズムにもっとも欠けていて、あまりにも脳天気すぎると感じられるのは、こういう「存在を否定しかねない視点」を所有出来ないという点にあると思っています。要するに自己否定の視点が存在しないのですね。
     金太郎飴みたいに、どこを切っても、初めも終わりも真ん中も自己肯定という、あまりにも皮肉に仏教的な。

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