2008年7月5日土曜日

ふたりのゲオルク

 ひとりは、知るひとぞ知る『レンツ』を書いたゲオルク・ビューヒナー。
 もうひとりはゲオルク・ハイム。
 彼の『狂人』という小説を一編読んだだけなのだが、その異様な切迫感だけが今でも意識の海の底の底に残って、眠っている。
 奇しくもこの二編、同じ本、川村二郎編「ドイツ短編24」(集英社)に収録されているのです。
 昭和46年発行の古々しい本ですが、日本の古本屋などで検索すると相当数ヒットしますので、入手困難な本ではありませんし、買って損はないと思います。

 文学というものが、マスとしての人間、あるいはミニマムとしての人間の双方、両極性を、見、感じ、共感し、考えるリアルな言語表現システムであると想定するなら、あるいは文学は人間という存在の自己矛盾、自己撞着に寄り添い伴走してくれる稀有な芸術であると想定するなら、このふたりのゲオルクは見事にわれらの伴奏者ではないかと思うのです。

 物書きというのは、一人称、二人称、三人称、すべてを通底するもの=存在としての共通項を探索しながら、同時に誰とも共通しない=存在としての個(性)を提示すべきではないでしょうか?
 単に身過ぎ世過ぎのために書く職業作家でもなく、名を知られたくて書くのでもなく、なぜ、われわれのような不合理極まる存在が誕生し、生き、そして死んでいかなければならないのか?
 そこまできちんと書かないで、何のための文学、何のための小説だろう。そうでない文学や小説など、今、ただちに滅びてしまっても一向に構わない(などと考えるのは不遜?!)。



2 件のコメント:

  1. 心から、共感します。
    これを認識するのとしないのとでは、まったく意識が違いますね。
    手探りしながら、書いていきます。

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  2. どなたかは存じませんが、コメント、ありがとうございます。

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