2008年1月9日水曜日

ウサギの拙速

「胡壷」6号、感想

「象のテラス」ひわきゆりこさん
 読みやすい小説でした。
 最初に頁をめくったところで、破線による仕切りがあり、四つの視点を持つポリフォニーの小説かと思いましたが、そうではありませんでした。
 視点は一貫して「わたし」にあり、何らかのRelationがあった三人の人物について、破線でひとりずつ区切られて人物の名を提示して書かれています。
 この構成だとユウコ、サトル、ミアさんそれぞれと「わたし」との交流が夾雑物無く描かれていて、小説として誰にも解りやすくなります。
 初めと終わりの「わたし」を書いている部分では、ユウコ、サトル、ミアさん、三人全員とRelationが無くなった「わたし」の寄る辺なさがうまく表出されています。
 人生には、こんな風に簡単に、不意にRelationが切断されてしまい、誰ともつながっていないただの「個」に戻ってしまう瞬間がありますが、ユウコ、サトル、ミアさんという三人とのRelationの切断を重ねて描くためには、こうしてそれぞれとの交流をオムニバスな書き方で通すという方法が効果を出しているのかもしれません。
 ただ、こうしてきっちり戸を立てて、それぞれとのRelationを書く方法のほかに、ひとつの時の流れの中にユウコ、サトル、ミアさん、皆を混ぜて捏ねてという書き方もあるなァと考えたのですが、どちらが良いかは判りません。
 ユウコという少女の、「わたし」の部屋への訳のわからない登場の仕方や消え方が、詳しい説明などなくてかえってリアリティを感じさせました。一から十まで書いてしまうよりも、訳のわからない現象は訳がわからないままに提示するのに徹した方が強いリアリティを保持できるのかもしれません。ユウコを登場させたことで作品の現代性が裏打ち強化されたと思います。サトルとミアさんだけだったら、解りすぎて作品としてスカスカになってしまったような気がします。


「水の音」納富泰子さん

 いつから、あんな水滴が耳の奥に落ちるようになったのだろう。
 という書き出しが実にうまいと思いました。一種の言葉によるAttractionのモンタージュで、「あんな水滴が耳に落ちるようになったって? あんな水滴? 何、何?」とこの一行で読者の関心をattractしてしまいます。
 納富さんの作品、「薔薇のように」では密閉された空間での湿気やカビ、「渦」では風がまるで目に見えるように描かれていましたが、今回はまさに作品のあちこちに水が目に見えるように書かれています。小説のモチーフとは一見無縁な描写のように思えますが、しかし、人間を描写する以上にこういう人間以外の事象の描写が、小説をしっかり下支えしているのだと感心しました。
 人間の描写で面白かったのは、歌曲のレッスンに通って来る舜美が主人公の生活、精神領域まで侵食してゆく様でした。風水など信じて他人にまで押し付けてくる不気味さがよく現われていました。
 冬瓜とか、リュウの介護のことなどは作者自身の生活から出て来ている素材ですが、さすがは納富さん、リュウについてもちゃんと客観化して書かれており、ベタベタした私性などどこにも見られず安心して読むことができました。腐った冬瓜の水が溜まっている光景も、あちこちにさまざまな水の場面を配置したこの作品ならではで、まるでその腐った冬瓜の水が美しい止水(死水)のように見えてしまいました。これって納富マジック?

 納富さんの作品を読ませていただいていつも感心するのは、人物ばかり書かないで、人物と同じかそれ以上に人物を囲んでいる事象をきちんと書き込まれているということです。
 私などは人物の言動を描くことのみに汲汲とし、それだけで終わってしまいますので、羨ましいかぎりです。

 (終わりに余談ですが、水の音といえば、タルコフスキーの映画「ソラリス」の、バッハのオルガン曲(BWV 639 )が流れるタイトルバックが終わって最初のシーンは、藻がゆらゆらしている小川の映像でしたが、その流れる水の音が妙に強調されていて印象的でした)


 のように書いておきながら、舌の根も乾かないうちに「胡壷」6号掲載作のうち二作分をここにアップしてしまいます。
 あらすじとか紹介せずにいきなり書いていますので、作品を読んでいない方にはチンプンカンプンだと思います。お読みになりたい方は「文芸同人誌案内」の「胡壷」のページからお申し込み下さい。

 どうも、亀の鈍足なのか、寝ていて不意に目覚めてビュンと走り出したウサギなのか? 怪。

5 件のコメント:

  1. 「胡壷」の作品、きちっと読んでいただきありがとうございます。
    入手法の紹介もしていただいて、重ねて感謝いたします。
    拙作「象のテラス」は、なんでもバランスを取りたがる性格の故かもしれません。ひとつの流れの中に3人の登場人物を織り交ぜると、誰かが主で他は従になりそうです。自分の人間関係でも、誰かが特別ではなくそれぞれが大切だし、それぞれの付き合い方があります。並列にした方が私としては捉えやすかったです。登場人物3人の分量もバランスよく同じくらいにしたかったのですが、それは無理でした。
    納富さんの作品は五感を揺すりますね。あの独特の描写や表現が生き生きとしています。私も羨ましい。

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  2. 有り難うございます。
    映画の「ソラリス」字幕から映像になるのをしばらく見ました。あの、いかにも冷たそうな透明な水の音を聴き、バッハの哀調のある曲にあわせて、繰り返しそよぐ水草を見ているうち、なんだかとても懐かしい気持ちがしてきたのですが、たぶん、あの冒頭部分を見た人は、皆おなじ感覚を持ったのではないかしら、と思います。
    「ソラリス」の、この最初の情景は、記憶の海が見せた幻影なのか、それとも本当の故郷の家の映像なのか、と今も考えます。
    私の作品に対しての温かいご感想、感謝いたします。「リュウ」と「冬瓜」が、作者の実体験であるにもかかわらず私的にべったりしていない、というご意見、すごく嬉しかったです。丁寧に心を開くようにして受け止めてくださったこと、感謝いたします。たぶん、欠点もいくつもあることでしょう。
    今回は、私は気力が落ちている状態でしたので、そういう状態をそのまま受け入れて書けばいいかも、と思いました。今度のは納富らしくない、というご意見もいくつか戴いています。
    「象のテラス」は、人間関係を何よりも大事に考え、他人に対して飾らずに真摯であるひわきさんらしい作品だと思います。ユウコという子供に、とてもリアリティを感じました。

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  3. ひわきさん、Nさん、感想を書かせていただくまでに時間がかかっていますので、もう少し緻密に読んで緻密な感想をと思うのですが、生来の性格でどうも大雑把な感想で申し訳ありません。
     ひわきさん、性格って、やはり書くものに影響しますよね。私もこの性格が相当邪魔しています。
     Nさん、今度のもNさんらしい作品ですよ。

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  4. そうですね。性格は影響しますよね。でも、自分が思っている自分と、他人が思う自分とにズレを感じることもあります。私はうじうじした気の小さな性格で、作品にもそれがはっきり表れていると思うのですが、誰もそうは見てくれません。納富さんのご指摘は、そういう面もあるな、と納得しました。
    この年になると居直って、この性格で勝負するしかない、と思うようになりました。いまさら変えられませんもの。自分をしっかり掘らなくては。

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  5. ひわきさんが「うじうじした気の小さな性格」というのは私もちょっと信じがたいですが、考えてみれば物書きは繊細な部分も持ち合わせていなければいい作品は書けませんしね。
     バランス感覚だって必要ですし。
     いっそ、かつての神の視点で複数の人物を書いてみるのもいいかもしれません。私も一人の人物の視点で書いたのでは「固定焦点レンズ」撮影された映像と同じで、不公平というか、一面しか表現していないのではないかという不満を感じています。
     神の視点が古いというのなら、開き直って虚構世界の叙述者という視点でもいいですが。

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