2009年12月3日木曜日

謝恩蕎麦会、その他

 母親の茶飲み仲間に蕎麦会をと話したら全員が乗り気ということで、月末を過ぎてからと返事をしたら2日にどうだと言う。
 人間という奇妙な存在は、齢を重ねれば重ねるほどに他者への想像力を喪失し自分の都合だけに生きる動物であるらしいので仕方なく了承し、今朝、朝食すぐに蕎麦打ちを開始。
 人数は6人というので、お年寄りだし800gくらいでいいかと思ったが余ったら蕎麦会の会場を提供してくれたA子さんの家に置いてくればいいので1kg打ってみようと思った。しかし、自分の昼食もついでにと思って外二八で、ソバ粉1kgつなぎ200gで打つことにした。こねるのはいいが、延しは90cm×90cmの板なので二回に分けることにした。
 午前8時開始で、すべて切り終えて片付け終わったのが9時半。母親と蕎麦、そばつゆ、ざる、などを車に載せて車で2分くらいのA子さんの家に届け、茹でるのは自分たちでお願いしますと伝えて、お役御免。
 午後になって帰宅した母に聞くと、母の分まで2人前食べてしまった方がいるという。それも半分とかではなく全部。母は「私はいつも食べているからいいわ」とか言って、仕方なくおにぎりを食べたという。ま、いちばん年寄りである母とお付き合いしてくれている皆さんへの謝恩蕎麦会ですので、それでいいんですが。
 
 

 
 私の好きな彼の2曲がアップされていた。
 5年前のロンドン公演らしいが、その歌い方もだけど1曲目のその左足の過剰な動きに思わず大爆笑。Come on Up to the Houseとは、いつまでも現われない神への憤りの歌ではないかとさえ思ってしまう。
 背中に神を負っている民族=人間と、無神論的無政府主義的民族=人間とでは、やはり背骨の太さが違います。神を背骨にしている人間=民族の方がずっと骨太。神を背骨に持たない日本人はどこか骨細でひ弱でありますが、それはそれで仕方ありません。

 あれれ、この動画、たまたま接続が切れてしまいますね。その際はこちらこちら

 リアリズムの小説の胡散臭さに背を向けたはずが、気がついてみればフィクション(虚構)の胡散臭さにも直面してしまっていて、身動きが取れない。
 こんな状況でなおも書かなければならないものがあるとしたら、それは何なのだろう? ストーリーとか構成とかモチーフとかモチベーションとか、そんなことはどうでもよくて、人間というこの奇妙な存在の吐息、荒い息そのものが描写できればいいのではないか。
 文章は作家の呼吸のようなもの、でもある。
 つまらない小説を書くくらいなら、安いウィスキーなどを呷りトム・ウェイツの狼のうなり声のような無頼な歌を背中で聴きながら、無頼なブコウスキーの詩や小説を読んでいる方がずっとしあわせなのかもしれない。
 あるいは反語的に、作家はすべからく無頼であるべき、なのかも、知れない。
 
 でも、自分で書いて、自分で読んでもつまらなくない小説を、一度くらいは、書いてみたいものです。

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