2008年3月13日木曜日

にっちもさっちも

 もしも桐野夏生が純文作家だったら、と思うのは私だけ、か。惜しい。

 私は詩を書こうとして詩を書けない自分に失望して散文の世界へ逃亡を試みた。
 そして今また、散文を書こうとして散文を書けない自分に失望して、詩的表現に逃げようとしている。
 筒井康隆の「脱走と追跡のサンバ」を思い出す。
 あの作品で彼の書くものを読むのを卒業した。

 私が今書こうとしているのは紛れもない「一人称」小説だ。
 一人称なら「一人称単数」に決まっているのだが、実は奇怪矛盾なことに一人称複数小説なのだ。
 まさに一人称の大洪水、大氾濫だ。
 だから、混迷も幻惑もいっそう深くて、一寸先さえも見えず、一人称の海に溺死しそうな感じがする。
 小説など、単に、人間の鬱陶しいエゴの海に過ぎないではないか、と思いながら、その自分の思いにさらに嘔吐感を催す、この無限スパイラル。

 そう、私が書きかったのは私以外の誰にも読解出来ないロマンだった。
 ボルヘスを解った風に言う人間を私は眉に唾をつけて見ざるをえない。私にはボルヘスが理解出来ない。それと同じように、私は私以外の誰もが理解できないロマンを書きたい。そういう自己矛盾、自己撞着のど真ん中に私はいて、にっちもさっちもいかない。



2 件のコメント:

  1. 一人称複数というと、アナトーリィ・キムの「コサック・ダヴレート」を思い出します。あれは奇怪千万でした。
    ボルヘスが理解できないというお話、残雪にしてもそうですよね。だけど、書き手でなく読者として眺めたとき、私は、そうした理解なんかできない作品こそ、愛おしく感じる気がします。読者の私としては、作家や作品を理解などしなくていい。そこに顕れた世界に浸らせてくれればいいとも思います。

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  2. もう、一瞬、一瞬が、「いつ投げ出そう」という気持ちとの闘いです。
    どの部分も理解出来るような作品は面白くないに決まっているのだからと、逆切れ、居直りなどしつつ、前へ。

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