どうも人間というのは何を読むのにも自分に引きつけて読まざるを得ないが、私がいちばん身につまされたのは167ページの3行ちょっと。
すべてはまぼろしだ。
この世界のすべてが、もうすでに書かれてしまったもので、いまさら自分に何ができるだろう。できるのはそれを読むことだけだ。
その書物から顔を上げること。そしてはるか天空をふり仰ぐこと。
「ポンパ」と叫べば死ぬのではなく姿を消せる、というなら私も「ポンパ」と言ってみたいところだが、この小説の終わり近く、ポンパの張本人が書いた文章に「ポンパはすでに使い過ぎた。ポンパをやめよ。ポンパを投げ捨てよ」と書かれている。
後に追記や付録があるものの、
叔父の行方は依然として判らない。…というのがこの小説の一応の終わりで、行方は判らないまでも、ポンパにうんざりしてポンパをを捨てた叔父は、多分どこかでポンパもアサッテもないごく普通の生活をしているのであろうと思われる。
ポンパもアサッテも、初めてのそれは世界中を敵に回してもいいくらい衝撃的で感動的であるが、二度、三度と繰り返してゆくうちに徐々に擦り切れてゆき、しまいにはポンパでもアサッテでもなくなってしまう。チューリップ男だって、ずっとチューリップ男ではいられないに決まっているのである。人生の一回性を考慮するまでもなく、チューリップ男がひとりきりのエレベーターの中で逆立ちしたり、チューリップの真似をしたり、性器を露出したりして意味があるのは、一回限りなのである。
いつもは一冊の小説を読むのに十日も半月もかかる私が、この小説を買った日も含めて二日で読んだのには本人がいちばん驚いている。なぜか。
アサッテの人である叔父というキャラクターにも注目したが、「私」が叔父の日記を使いながら小説を書くという構造が面白かったからである。無論、こうして作者らしき人物が小説の登場して何ごとか言ったりする小説が目新しい訳ではない。これまでも書かれている。
第一、ここの書かれている「私」を作家自身とイコールなどと思って読むのは、小説が単にあったことをあったように書くものではなく、作中に書かれているように作為で成り立つものだとすれば、「私」はむしろ作家自身ではないと考えるのが妥当だ。
それに、ここでの「私」が作者自身であれば、単にあったことをあったように書く小説に成り下がってしまうではないか。
私自身も、書かれる人物たちだけでなく、書く人物を「わたし」として登場させようと試みたことがあった。しかも、その「わたし」が男性では書き手である「私」と同一視するような人がいるだろうから、「わたし」は女性に設定したのだった。だから、メタフィクションそのものを狙った訳ではないが、人称を固定して書き続けることに胡散臭さや苦しみを感じていた時期なので、それを回避する方法として書かれる人物たちを俯瞰して書く人物を、書く私とは別に設定、登場させようと目論んだのでした。結局は挫折して、日の目を見ていませんが。(深いため息)
��今夜はいったんここでアップ)
それにしても、読んでいる最中か、読了直後かに、ひとりでこっそり「ポンパ」とつぶやいてみる読者こそ、この小説の最良の読者であろう、な。
あ、夕食後に疲れていったん眠った配偶者が起きてきたので、目の前で「ポンパ」と言ってみた。
「え? 何かおいしいものでも買って来たの?」
だって。
これは手ごわいぞ……(ーー;)
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