いわゆるリアルな世界ではなくネット世界を舞台にした小説を書こうと数年前から考えているのだけれど、ちっとも前へ進まない。
ハンドルネーム・blue eyes=青木眸と男ふたりの人物イメージはできているのだが、どうにもネガティブすぎて身動きがとれない。男のひとりが怪しい教祖になってしまったのでますます制御不能になってしまった。
グレン・グールドがプロデュースしたラジオ番組「北へ」、あるいはバッハの「王の主題による各種のカノン」のような、ポリフォニックな小説。それは人称を固定した書き方では不可能なので、結局は章ごとに人物=視点が入れ替わって当然だろう。
ジョイスだって「ユリシーズ」はひとりの人物に視点を固定せずに書いた。しかも彼はこう言っている。
……わたしの物語に、灰だめや古びた雑草や臓物の臭いが立ちこめているとしても、それはわたしの責任ではありません。わたしのきれいに磨かれた鏡で、アイルランド人たちに自身を見させることを阻むようであるなら、あなたはアイルランドの文明の流れを遅らせることになると痛感しております……
と嘯ける図々しさ。
そうなのです。『ユリシーズ』に下品な部分が描かれていたとしても、それはジョイスが責めを負うべきものではなく、きれいに磨いた文学の鏡に映っただけなのだ。 ジョイスはただそれを書いただけなのだ、と。つべこべ言う必要はない。作家は現実を映し出す鏡であればよろしいのだ。
午後、母親を連れて自家菜園へ。家に居ては足が痛い、腰が痛いと騒々しいくせに畑に行くとどこも痛くないらしい動きをしていて苦笑してしまう。
でんすけ西瓜の蔓上げをし、総太り大根とねずみ大根の種まきをし、草刈機で西側のRhubarb二列を、太くて長い優れた株ひとつだけを残して刈り払い、ミニ管理機で耕起してしまう。50粒播いた「Glaskinsの永遠」の中から、本当に見込みがありそうなのはたった二株だけ、甘く見ても十株を植える場所を作るため。Rhubarbは、種では50が50すべてが親の形質を受け継ぐのではなく、それぞれが勝手な形質を以って成長を始める。それを身にしみて理解したので、種子からの増殖は断念せざるを得ず、株分けに軸足を移す。無論、種子も理想の個体を探すためにはまだ探索を続けるが、それは千分の一、万分の一の個体探しのためであって、理想の個体が見つかったら株分けに勤しもうと思うが、これは実は、老年になって小説を断念した後のささやかな愉しみ。
明日、またMyソバ畑に行ってみよう。もう花が咲いているか、楽しみ。
ドストエフスキーの「一杯の紅茶さえあれば、世界がひっくりかえってもかまわない」という心境に酷似している。小説よりもソバの花が大事、と言ってはいけないのでしょうか?
あ、alzheimerさんも、宮沢賢治の「眼にて云ふ」について書かれました!
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