ニーチェは、ギリシャ悲劇がアポロ的なものとディオニュソス的なもの、このふたつの衝動によって成り立っていると断じて、エウリピデスに至って、その合理的精神によってディオニュソス的なものが排除され、アポロ的なもののみに依って成立する傾向をもち、それがギリシャ悲劇の死を招いたと言うのである。ニーチェは他の場所でエウリピデスとソクラテスを悲劇の殺害者に擬しているが、考えようによってはそうかも知れない。
アポロ的、ディオニュソス的という概念はやや蓋然的であるが、ドイツ解釈学派のエミール・シュタイガーが言語芸術の三つの根本的な様式として、抒情詩、叙事詩、劇について用いた概念にも共通項があると思われる。
エミール・シュタイガーは、その著『詩学の根本概念』(高橋英夫訳、法政大学出版局・叢書ウニベルシタス)で、
抒情的様式―透入、
叙事的様式―表象、
劇的様式―緊張、
という図式を立て、様々な検討を行なっている。
��注・彼が抒情的様式と言い、抒情詩と言わないのは、抒情的なものが抒情詩にのみあるのではなく、また叙事的なものが叙事詩のなかだけに、劇的なものが劇のなかにだけあるのではないからである。
シュタイガーの言う抒情的様式と、ニーチェのディオニュソス的なもの、叙事的様式とアポロ的なものには重なり合う部分がある。
たとえばシュタイガーは抒情的様式を「透入」という概念で説明しているが、透入とは感情移入とか一体化に近い意味をもち、「作者」と「作者が語る対象」、あるいは「読者・観客」と「語られる対象」の問に距離が無いかあっても少ないような様式のことである。抒情詩において、作者と詩に書かれる世界に距離がないのは誰にも承知できる。つまり、抒情的様式に支えられている世界では、作者は語るべき対象である人物や物や出来事と同じ世界に存在し、息をしている。それゆえにこそ、読者や観客に情感や共感が成立するのである。
劇もまたその半分を抒情的なものに効果を負っていることも言うまでもない。アリストテレスのカタルシス説を侯つまでもなく、劇中に展開される世界への透入、もしくは一体化がなされてこそ、観客は目の前の単なる舞台上の仮りの出来事を超越し、甦る何ものかを見、聞き、そして感動するのであるから。
一方、ホメーロスの叙事詩などのような、主に叙事的様式に支えられているものには、作者は語るべき世界の中にはいない。むしろ、対象とする世界を見おろせる位置にいて、ひたすら客観的に語るだけである。人間が生き、戦い、死んでゆく様を、まるで神そのひとが語るように語る。対象とする世界とは距離があるのである。
このような、同化と異化(客観化)との関係は、ニーチェが、ディオニュソス的なものから生まれる芸術として音楽をあげ、アポロ的なものから生まれる芸術としてギリシャ彫刻などの造型芸術をあげていることの意味にも通じる。彼がアポロ芸術の粋と見た彫刻は対象との距離なしには成立しない。造形芸術は、作者の内部にモチーフとして内在し、また情念に動かされている問はディオニュソス的でもあろうが、ひとつの作品として完成する過程はひたすら客観化によって支えられ、アポロ的・表象的である。
劇的様式についても、ニーチェとシュタイガーの意見は表現の差こそあれ、同じと言える。劇には対象と同化しようという衝動によって成立するディオニュソス的・抒情的様式があり、また対象を客観化しようという衝動へ働くアポロ的・叙事的様式とがあり、双方が有機的に働いてこそ、劇特有の緊張と解放が成立することになる。
小説を書く際にもこのような広範な意味合いでの叙情的なもの、叙事的なもの、劇的なものを少しは念頭に置いておいても悪いことではないでしょう。
叙情的なものの最も良質なものは「ポエジー」であり、叙事的なものの最も良質なものは「描写」でありますから、小説書きであるからといって叙情的なものやポエジー(詩)をバカにしてはいけません。良い小説は叙情的でありつつ同時に情事的でもあらねばならないのです。
(これは劇の話になりますが、劇的なものというのは、その叙情的なものと叙事的なものとの対立、衝突から生まれるのかもしれません)
��『詩学の根本概念』の表紙画像をアップしようと思いましたが、また下積みになってしまったのか、見つかりませんので、後日発見次第ここにアップいたします。その代わりに、1月5日の記事「田中恭吉」で紹介し損ねた、窪島誠一郎著『田中恭吉ふぁんたじあ――「月映」に生きたある夭折版画家の生涯』(彌生書房・1992年、2,600円)が見つかったので、アップしておきます。
詩誌レイアウト、ほぼ終了。本文24頁中綴じなので、裏表印刷でA4用紙6枚プラス表紙。残るは表紙の画像のみ。
同化と異化(客観化)との関係のところなど、面白く読みました。
返信削除だからこそ、「良い小説は叙情的でありつつ同時に情事的でもあらねばならないのです。」というところで、本当にそうだ、と思いました。「同時に、」というところ、簡単なようで、けっこう、きついことですね。叙情的に傾くのは、案外簡単です。叙事的にばかりいくのも、簡単です。でも、「同時に、」となる按配が難しい。
そこのところが見事に完成された短編として、久鬼高治さんの「東司まで」を思い出します。忘れられない小説です。
なかなか……。
返信削除こういうことを考えたりするものだから「自分の書くものがつまらない病気」になってしまうのです。
ウァーン・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )ナクナ
しかし、天然で傑作が書けるほどの才もなく、結局は表に出ないところで方法論を考えざるを得ません。
九鬼さんといえば、例のU書林から「果てしなく絡む藤蔓」という単行本が出ていて、発行当時に一冊頂戴したまままだ読んでないんですよ。(M本徹さんの「イタリア夢幻紀行」と「師直の恋」もここから出ています)
読まなくてはいけない本が山積になっていって、このままだと圧死しかねません。
U書林のネットショップ、今月4日に開店しました。背景などデザインに首を傾げてしまいますが。
↓U書林ネットショップ「一般文芸棚」
http://8015.teacup.com/younohon/shop/01_01_08/
「果てしなく絡む藤蔓」さっそく、注文しました。彼の作品は、骨があって甘くなくてときには鳥肌が立つほどです。楽しみです。
返信削除まず、書いて見ないことにはね、と私はいつも自分に言います。内容のあるテーマと、登場人物と、視点と、書き出しとラストが決まっていたら、すっと書き出しても、案外言葉が放散しないでくっついてくれるので続けられますが、あまりに空想的な作品は、私などはまったくのアイディア倒れで、10枚も書いたところで、地に足がつかないまま、実にあほらしい出来になり、えいやっと捨ててしまいます。そんなのが過去に数知れずあります。
でも、まず書いてみないとね。
注文されましたか。一階が倉庫、二階が事務所になっているので、出かけていって奪取して来ようかと思っていましたが、夫婦二人きりの会社ですから気の毒ですね。
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