2007年1月30日火曜日

何事も起こらない小説

 フラナリー・オコナー作品集『善人はなかなかいない』(横山貞子訳・1998年・筑摩書房)の最後の一編、「よみがえりの日」を読み、ようやくこの本は読了。

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 「善人はなかなかいない」、「強制追放者」、「森の景色」、「家庭のやすらぎ」、
 この4篇は明らかな殺人行為によって小説が終わっている。「強制追放者」だけはもう少し巧妙に仕組まれた作為によって殺人が行われるが、他の3編は銃による射殺であったり、岩に頭を打ちつけてであったりする。 
 「よみがえりの日」では、直接的な殺人行為はない。
 田舎の小屋にも住めなくなったプア・ホワイトである老人タナーは娘に引き取られ、都会のアパート暮らしをするようになったがどうにもその生活になじめない。
 娘が出かけた隙に田舎へ帰る旅に出ようとして、タナーは階段を下りる途中で足を踏み外し、階段の途中に、頭を下に向けて着地した。しばらくして、先日隣室に引っ越して来た黒人の男とその女が、瀕死のタナーをのぞきこむ。
 やがて買い物から戻った娘がタナーを見つけた。
帽子が顔にかぶさり、頭と両腕が手すりの柱から突き出ていた。両足は、さらし台にかけられた人のように階段の吹き抜けにぶら下がっていた。
 この引用部分を注意深く読んでみれば、タナーが階段を踏み外して頭から落ちて死んだという状況とは違う描写がなされている。
 帽子が顔にかぶさっているし、頭と両腕と両足のある場所も変である。誰がそうしたかは明白である。この作品、前4作のような積極的な殺人ではないにしても、これもまた消極的な殺人ではないか。
 この作品集、収録されている5編すべてが、殺人または登場人物の死を以って作品が終わっている。
 昨夜、
やはり、結果として何事かが起こる小説を書かなければいけないのだ。
と書きはしたものの、何事かが起こって終わる小説というのは、どちらかといえばもう古いタイプの小説ではないか。何事も起こらない、何も変わらずに終わる小説の方が今日ではリアリティがありはしないかと思っていたが、さて……?
 

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