前者は書き出しでは結末がまったく予測がつかない。夫婦、祖母、孫三人の六人で車でフロリダに旅行することになっていたが、祖母は、脱獄囚がフロリダに向かっていると言う新聞記事もあり、本当はフロリダへは行きたくなかった。が一家はアトランタを出発し、フロリダに向かう。途中、祖母が若い頃一度訪れたことのある大農園屋敷に寄って見たいと思い、家族の関心をそそるために嘘を言った。その家には秘密の壁板があり、北軍のシャーマン将軍が攻めてきた時に、その家伝来の銀器を隠したのだと。そのためにこどもたちまでその屋敷に行きたがり、結局一マイルほど戻ってさらに舗装してない脇道を走ることになった。しかし、ひどいデコボコ道を行くうちに自動車が堤防の下の谷に転落し一回転してしまった。
そこへ、大型で古く、霊柩車のような古い車がやって来た。三人の男が乗っていた。
彼らは新聞に書かれていた、みずから「はみ出し者」を名乗る脱獄囚だった。そのことに気づいた祖母がかれらに向かってそのことを言ってしまう。「はみ出し者」が残る二人に命令して、先ずは父親と息子が森へ連れて行かれ拳銃の音が二発聞こえて来る。さらに、赤ん坊を抱いた母親と娘が森へ連れて行かれ、また悲鳴と拳銃の音がし、もう二発射撃音がする。
その間ずっと、「はみ出し者」と祖母のイエスについての会話が断続的に続けられる。
そして、祖母が「はみ出し者」に撃ち殺される際の描写はこうである。
男に向かって祖母はつぶやいた。「まあ、あんたは私の赤ちゃんだよ。私の実の子供だよ!」祖母は手をのばして男の肩に触れた。「はみ出し者」は蛇にかまれたように後ろに飛びのいて、胸に三発撃ちこんだ。それから拳銃を置き、眼鏡をはずして拭きはじめた。
こうして、朝アトランタを出てフロリダへ旅をするはずだった一家は、思いもよらず、皆、脱獄囚に殺されて死んでしまった。そういう小説である。
何も悪いことなどしていないはずの一家が思い懲罰を受けたように生命を奪われた。実に旧約的な死でもある。罪と罰の釣り合いが取れていればまだ納得も出来ようが、一家の死はそうではなく、まったくの不合理である。
また「強制追放者」では、白人のショートレイ夫妻と黒い人と呼ばれる労働者たちを使って農園を経営しているマッキンタイア婦人の農場に、カトリックの老神父の斡旋でポーランドを強制追放された一家が労働者として入って来る。そのポーランド人であるガイザックは、機械に強く勤勉でマッキンタイア夫人は彼を雇用したことを喜んでいた。
しかし、やがてガイザックが故国ポーランドの収容所にいる16歳の従妹を、旅費の半分を持つという条件で農場で働く黒人の青年との間で結婚の約束を交わす。それを知ったマッキンタイア夫人のガイザアックへの印象や人間評価が正反対に変換する。一方で、働き者のポーランド人を得た夫人はショートレイ夫妻を解雇しようとする。それを知った夫妻は解雇を言い渡される前に車に荷物を積んで農園を去る。しかし不運なことにショートレイ夫人が車中で心臓麻痺を起こし、死ぬ。
妻を失ったショートレイは農園へ戻る。マッキンタイア夫人が一日伸ばしに解雇を伝えられずにいたために、ガイザックはまだ農場で働いていた。
ある朝、ガイザックが小型トラクターの下に上半身をもぐりこませて仕事をしている時、ショートレイは別の大型トラクターをバックさせ、その進路を小型トラクターの方へ向けた。それから小型トラクターから飛び降り、ブレーキをずらして軽くかけ、農機具置場に戻った。
黒人の青年とマッキンタイア夫人の目が動き出した大型トラクターに先を見る。ショートレイ本人も信じられないほどゆっくりと首を回し、見た。
そして、
夫人自身は大声をあげて強制追放者に危険を知らせようとしたが、そうはしなかった。自分の目、ショートレイの目、黒人の目がおなじ表情をおび、永年の共謀の視線となって凍結した。ポーランド人の背骨がトラクターの車輪の下で砕ける。その音が夫人の耳に届いた。男二人が助けにかけ寄り、夫人は気を失った。
二作ともひとがひとによって殺害される場面が、まるで物が壊されるのと同じように描写される。ガイザックの死もまた「罪と罰のバランスが取れない不合理」に満ちている。
かくしてフラナリー・オコナーの小説は、生半可な気持ちではとうてい通読できない極めつけのハードボイルドと化す。
彼女はなぜ、このように殺人を多く取り上げ、描写するのか?
私はふと、ギリシア悲劇の殺人場面を思い出した。
古代ギリシア悲劇では殺人そのものは舞台上では演じられない。これは単に古代ギリシア人の美意識だけの問題ではなく、ギリシア悲劇の伝統的コンヴェンション(約束事)である。
『オレステス』で、アガメムノンを殺害した妻とその愛人がエレクトラ、オレステスに復讐、殺害される場面も、『バッコスの信女』で、バッコスを敬うことをしなかった王ペンテウスがキタイロンの山で憑依したバッコスの信女たちにライオンと見まちがわれて殺害される。そのバッコスの信女たちのなかには、ペンテウスの母親であるアガウェもいたのであるが、それもこれもみな舞台では演じられず、使者の口上で伝えられるだけである。
なのに、なぜ、フラナリー・オコナーは小説でひとがひとを殺害する場面を真正面から書くのか?
それは彼女がエッセイ集『秘儀と習俗』で頻繁に用いた「グロテスク」という言葉から類推は出来る。ひとがひとを殺すというのは、人間の行為として二番目くらいにグロテスクな行為であるから、カトリックであったがゆえにオコナーはそれを真正面から描こうとした。
(注:一番目のグロテスクは、武田泰淳の『ひかりごけ』、大岡昇平の『野火』で描かれた殺人よりインモラルな行為)
とはいえ、すべては推論でしかない。
まだ本日の表題に到着出来ませんが、 大分疲れて来ましたので横着してジャンプします。
二十代の初めに読んだアリストテレスの『詩学』(松浦嘉一訳・岩波文庫)があるが(今は松浦訳ではなく新訳のはず)、その十三章の終わり近くにこういう記述がある。
かの一部の人達が第一位に推してゐる筋の趣向、例へば「オデュセイア」の如く、二重の物語を含み、善人と悪人との運命が、各々逆に〔幸福と不幸へ〕移り変つて行く結末を持つ筋は、第二位のものである。この種類の筋は単に観衆の〔純悲劇的緊張に堪へきれない〕気弱さから第一位に推されてゐるに過ぎない。当時から、ここにはまさに古本屋泣かせの鉛筆ならぬ赤ペンで傍線が引いてある。
ギリシア悲劇が舞台上で殺人そのものを演じないのとはまったく別の位相で、フラナリー・オコナーは殺人を真正面から書く。
純悲劇的緊張に堪えきれない気弱さなど微塵も感じさせずに。
他の本を探していて、「季刊文科」18号を発見。探した時には見つからなかったので、当時の版元(市内にあり)に一冊くらいは残っているだろうから借りて来て読もうと思っていたのに、ラッキー。
今日はほかに同人誌掲載作の感想三つ書き、あと二つ書いてしまう予定がこのブログに手こずって明日に回った。仕方ない。
「善人はなかなかいない」について私が理解したことですが。この祖母といい、一家はあまり理性的な人たちではありません。行き当たりばったりに行動する。そして、祖母の不用意な一言のために脱獄囚たちに殺されてしまう。これは、オコナーが、キリストに祖母をなぞらえたのではないかと思います。殺されることがわかっていても男のほうへ手を伸ばして言います。「まあ、あんたは私の赤ちゃんだよ。私の実の子供だよ!」
返信削除磔にされるときのキリストと同じ意味の言動です。そこには、悲痛な赦しがあります。家族を殺された悲しみの中で、祖母はそのときだけ、光り輝きます。
オコナーの作品は、裏側に意味が隠されていて作者の思惑がすぐには掬い取れないので、私は「秘儀と習俗」のほうがずっと分かりやすかったのですが。
キリスト教を知らないと知らずに通り過ぎてしまう言葉がありますね。
返信削除昔、ゲオルク・ビューヒナーの『レンツ』を読んだ時、狂気に陥ったレンツが亡くなった少年の家を訪ねて行って、少年の遺体に向かって「起きて、歩け」(「立って、歩け」と叫ぶ場面がありますが、当時は知らずに通り過ぎてしまいまいした。後になってこの言葉がイエス・キリストの言葉だと知って、なるほどそういうことだったのかと納得いたしました。
オコナーはとりあえずは入手した短編集二冊を読みます。それから全短編に手が延びるか、二冊で止まるか、まだ微妙ではあります。先を見越すと、全短編も入手しておいた方が後悔しないで済むのでしょうが。