今日はまた、チェックアウト後は都会から来たゲストたちのために松茸小屋に寄って松茸料理。旱魃で9月10日過ぎからぱったりと出が悪くなったらしいので心配していたが、一応松茸料理が出てきた。メインは松茸鍋であったが、ちょっとスライスの仕方が上手で薄過ぎて、これでは歯ごたえ、食感が判らないではありませんか。しかし、不作の今年は仕方ないでしょう。豊作の年にまた行ってみたいものです。
甥の嫁さんがシナノスィートとレッドゴールドというリンゴを買って帰りたいというがレッドゴールドがなかなか見つからない。有名なM農園に行ってみて無かったら諦めるようにと言ってゲスト一行と別れたが、まもなくM農園にありましたというメールが弟から入った。さすが。
レッドゴールドというのは新品種かと思ったがそうではなく、1950年に青森県がアメリカから導入した品種ということです。そのなかの特に色の濃い実が蜜の入りが良く、実の中まで赤味のあるものがあるようです。北海道、青森が主産地で当県ではあまり栽培されていない模様。
生後6ヶ月の赤ちゃんの活発な手足の動きを見ていて、物書きとしての視線を赤ちゃんほどに予見や先入見のない位置に設定しなおさなければと思った。
私の視点は今やあまりに予見や先入見に曇らされていて、多分、そのあたりに書けない理由があるのかもしれない。
私小説といえば、書き手が実際に生きて経験したことをありのままに書いたという、「単なる形式上のクソリアリズム小説」に過ぎないのだが、むしろそれを逆手に取って、人称は一人称だが書き手の人生とは切り離された虚構の物語、そういう小説が書けたらいいのだけど。(ジョイスはそれをやっているよね。モーリーになりきって「ユリシーズ」最終章を見事に書き切っているじゃん)
あるいは、一人称を詐称したメタフィクション!! (アリアドネといっしょに迷宮ダンスを踊っている気分)、あるいはバッハの音楽のようなポリフォニー。
しかし、ポリフォニーの根源は「ひとりの人間の声、生き様」であって、それを客観化したいがために複数の声=ポリフォニーが必要となるのだ。ポリフォニーは人間と世界を客観化するためにこそ必要なのだ。そうでなければ、自己否定するように見せかけながら結局は自己肯定してしまうような、日本的・私小説的・クソリアリズム小説の胡散臭さなど一掃できるのだけど。
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