台風に直撃されそうなので菜園の見回りに行ったが、目のつけどころがずれている。時期はずれになって二度目に播いたものも、この頃の雨で成長を再開した。
この茎も結構赤いが、理想通りの形質はほんとうに数百、千粒播いて一株あるかないか。来春は300粒×4種類。見込みありそうなのをもっと大量に取り寄せて播種すべきか?(あまりにのめりこみすぎ)
嵐の前の静けさか、妙にしーんとしている。雨の音だけ。外界に人が生きている実感がない。
「りす」といっしょに置いてある「水の家族」を、ついうっかりのぞいてしまった。雑誌連載時にも気になっていた、一行置いては十行以内の文章が続き、また一行置いては文章というスタイルの、その一行が気になって気になって......。たとえば書き出し。
ただならぬ水の気配がする
花冷えがするこんな夜更けに、何者かが川を泳いで渡ろうとしている。異様に張り詰めたその気配は、対岸にある三重連の大水車が休まずに立てる水音をかいくぐりながら、確実にこっちへ近づいている。私は息を殺してそっとペンを置き、尚も心耳を澄ます。どうやらけものの類ではなさそうだ。
人間だ。直接見たわけではないのに、人に間違いないという確信が、私をぐさりと貫く。
八重子ではないか。
激しく押し流されながらも、疲れを知らない見事な抜き手を切って、幅一キロのわすれじ川をぐいぐいと横切る八重子の姿が、はっきりと目に浮かぶ。(略)
丸山健二『水の家族』冒頭
なぜこんな風に一行の前後を空けるのか? すこしあざとすぎるというか、一行が目立ちすぎはしないか?
一行の前はともかく、後ろの一行分は詰めた方が小説としてすっきりするような気がするのだが。多分、そんなつまらないことが気になって、連載当時も単行本を買った当時も最後まで読み通せなかったのだった。今回は読み通せるだろうか。文体は嫌いじゃないのだけど。
「りす」に戻ろう。
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