「同人誌は死んだ」というタイトルを付けて書き始めたが、それではさすがにあざとすぎるので、「あざとすぎるタイトル」というタイトルに変更して書くのを続行。
だいたい、「同人誌は死んだ」とか「文学は死んだ」とか、口にしたりわめいたりするのは、「神は死んだ」と最初に宣言したあの二流哲学者のものまねに過ぎないのだから、恥ずかしくて口に出せないのが普通だろう。
それらすべて、「死んだ」といえば「死んだ」と言えるし、「死んでいない」といえば「死んでいない」。そういってふざけているのではない。論理は所詮は「あれか、これか」であったり、「あれでもあり、これでもあったりする」一種の鵺にすぎないのだから、そう目くじら立てて「死んだ」か、「生きている」のか、判定したがることもない。
だいたい、何ごとにも白黒決着つけたがるのは、こどもや、自身に自信がないひとほどそうなのであって、ひとかどのおとなは、現実のあれこれも自己自身のあれこれも「白黒」つけられない曖昧模糊状態であることなど、十二分に承知している。
神が死んでいようが生きていようが、文学が死んでいようが生きていようが、同人誌が死んでいようが生きていようが、人生は生きられるべきであり、文学は文学されるべきであり、同人誌は編集発行されるべきであり、そして小説は書かれるべきであり、読まれるべきである。
さもなければ一切空。
ところで、「書き終えていったん作者の手を離れた作品は作者のものではなく、読み手がどう読むのかは自由」とは、耳に胼胝が出来るくらい言われ続けてきたことなのですが、私はこれだけではおかしいと思っています。
書き手が必死に書いた、それが小説作品。
それを読み手は読み手自身の感覚と思考を総動員して読み、そして感想・批評を口にし、あるいは書く。それがプロの読み手ではないアマチュアの書き手や読み手による、口頭であれ、印刷媒体であれ、インターネット上のデジタル媒体であれ、そういう表現媒体の差異や、ただのアマチュアの言であるのか、文學界同人雑誌評やら他のプロ批評家の言であるのかといった差異さえ、問うのは無意味(ナンセンス)である。
プロの作家もつまらない小説を書く。プロの批評かも読み誤って愚言を弄することもある。また皮肉なことに、売れないまでもマチュアが全身で共感してしまう小説を書いたり、アマチュアがプロ作家の駄作を一言で切り捨てることだってありうるのである。
可能性としてすべてはありうる。
なのに、なぜ、プロだアマチュアだのと分け隔てるのですか?
文学に、プロもアマチュアもあるものか!!
生きて、感じて、考えて、そして書いて読んで感想を言って、どこがいけない??
(と開き直ったりして......ああ、いつになく興奮してわめいてしまって、疲れまちたaaa)
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