2008年10月14日火曜日

間に合わなかった原稿

 昨日、ソバ刈りを終えて帰宅し、疲れて明るいうちからお風呂に入り、ビールで簡単な慰労会をして、いつもはしない転寝をしたが、その後で、血縁の臨終につき合っているうちに締切日がすぎ、そのまま放置してあった書きかけの小説の一太郎ファイルを開いた。
 ノーベル文学賞発表でル・クレジオの名が一気に喧伝されてしまったので、実は、書きかけの小説の冒頭にエピグラフとしてル・クレジオの「愛する大地」の冒頭の文章を置いてあったのを思い出し、今となっては削除するほかないと思ってファイルを開いたのだった。
 そのエピグラフはこう。
 あなたは本のこのページを開いた。二、三ページめくってみて、表題や、著者の名や、出版社の名をぼんやりと眺め、それから多分、小説の冒頭にたいがいつけてある、あの引用符で囲んだ文句を探しただろうが、そんなものがついているのは、体裁がいいということと、著者が誰か自分より重要な人物を引き合いに出すことで少しは自分を保護できるせいなのだ。今度の場合、こう書いてあったってよかったかも知れない。「私は諸君のうちの一人、一粒の種だ、諸君のうちの一人なのだ......輝き(ブリヤン)......打ち震え(ヴィブラン)......灼熱している種(ブリュラン)だ......ぼくはある日、......
「愛する大地」ル・クレジオ、豊崎光一訳(1969年、新潮社刊)、冒頭より引用


 それに続いて、前回同様に1ではなく0という短章から始められている。

         0

 いや、そうではないのだった。
 この怪しげな叙述の一切は、僕とかおれとか私とわたし、あるいはあたいなどという一人称についての「描写」あるいは「物語」であると同時に、あなたとか君とかおまえとか呼ばれる二人称についての「描写」あるいは「物語」でもあり、また至極当然に、三人称である固有の氏名、さらには彼あるいは彼女という不可解な存在についての「描写」あるいは「物語」であっても不思議はないことを、数少ない読者のひとりである「あなた」にだけは告げておきたい。
 いや、そういう人称の差異を篩にかけて、それでもなお残っているはずの存在の証(あかし)が欲しくてこのように書こうとしているのだ。

 メタ・フィクション? 何を書こうとしているのだか、自分で書いたものながらもチンプンカンプン(汗々)。

 けれども、エピグラフを削除するよりある書きかけの部分が気になって、気がついたら500字近くを加筆していた。
 今回の締め切りには間に合わなかったが、少しずつ書き進めることができたらいいのだけど(さて?)。
 単一の人間を単一の視点で単一の時間の流れで書くという、小説としてごく当たり前の前提につまづいてしまっているので、小説として破綻する可能性の方がずっと高い。
 間に合わなかった原稿って、胎内に宿りながら結局は生まれて来なかった子どもに似ていると思う。たまたま生まれてこの世に姿を現した存在と、たまたま生まれることなく消えてしまった存在の差異は何?



 文〇界が同人雑誌評を閉じる最後に、巻末に「全国同人誌名簿」を掲載するという。
 最新の同人誌データであるからして、これを利用しない手はないので、「文芸同人誌案内」連携ウェブ「デジタル文学館」の宣伝と推薦作依頼状を、デジタルとアナログの両方で製作し、発信・発送しようという戦略を夢想する。
 売れる作品を探さねばならないという商業誌が必ずしも真の文学作品だけを探しあてて掲載する訳ではなく、むしろ売れることをいったん断念してもなお自己の創作理念に忠実になって書かれた同人誌の小説の中にこそ、われわれは文学の光を見出すべきであろう......(青臭!?)。

0 件のコメント:

コメントを投稿