2008年10月30日木曜日

いっそネガティブの極みへ

 この記事のすべて、E・M・シオラン「生誕の災厄」(1976年、出口裕弘訳、紀伊国屋書店)からの引用であります。

 世には、人間の所業から、重みも効力も剥ぎとってしまうような認識力というようなものがある。この認識力からすれば、みずから以外は一切のものが基底を欠いている。客体を、その観念にいたるまで忌み嫌うほど、この認識力は純一だ。ひとつの行為を敢行するもしないも、所詮は同じことと観ずる極限の知をそれは具現しているのだが、この極限の知にはまた極限の満足感が付随している。つまり、ことあるごとに、人間がいかなる業(わざ)を演じてみせようと、執着に値するものは一つとしてない、なにがしか実質の名残りに恵まれるものはどこにもない、〈実在〉などは狂人の管轄に属するものだといってのける満足感である。こんな認識力は、死後のものだといわれても仕方あるまい。つまりこの認識力の行使者は、生者であると同時に死者でもあり、存在者であると同時に存在者の追憶の影であるかのようなのだ。自分が遂行するあらゆる事柄について、この認識者は行為を遂行している最中から、「それはもう過ぎたことだ」という。だから彼の行為は永久に現在を奪われつづけるのである。
                             (6頁~7頁)


 さらに私は卑怯極まりないことに、自分が小説を書かない(=書けない)理由を、シオランの次のような言葉に演繹してしまうのだ。
 無理をしてまで作品など作る必要はない。ひとりの酔漢、あるいは瀕死の男の耳もとで囁かれるべき、何らかの言葉を発することだけが必要なのだ。
                             (8頁)


 そう、私が発する言葉など、ひとりの酔漢、あるいは瀕死の男=自分に向かって囁いているに過ぎないのかもしれないのだけれど、だけど存在としてなどと大袈裟なことは言わなくても、何らかの言葉を発することは、確かに必要なのだと思う。
 

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