かつて梶井基次郎は、『檸檬』という短編小説=フィクション=虚構において、丸善書店の平積みの本の上に「一個の檸檬」という仮想の爆弾を置いた。
そう!!
詩であれ、小説であれ、戯曲(ドラマ)であれ、文学は言葉による仮想(虚構)の爆弾であらねばならない。
言葉の爆弾であることを止めた時、文学は文学であることを止め、何千部、何万部売れたかという、単なる資本主義的枠組みに組み込まれてしまうのだ。
気がついてみれば、彼や彼女がプロの作家であるということは、実は、そういう、何円安く出版(=編集印刷製本)出来て、それが何部、何千部、何万部売れたかというような、資本主義的論理に囲い込まれてしまったということの証明に過ぎないのだった。
むしろ、そういう資本主義や社会主義、共産主義の、さらに先に進んでいるらしい大資本主義、大組織主義にエンクロージャーされることなく、プロメテウスのように、あらゆる常識や先入観から解き放たれて、自由自在に言葉の爆弾を仕掛けること。
そのように、現実と刺し違えるくらいの気概を持てずに、何のための文学なのだろう?
規定のレールに乗って走っている方が楽なのは判っている。
けれども。
これでいいのだという「自己肯定のシステム」に、敢えてノンと言い、ちょっと違うんじゃありません? という疑義を唱える、それくらいのことは、プロ(職業作家?)として認められたとか、認められないとか、そういう現実的=功利的思考はエポケー(一時棚上げ)してしまって、三分の虫にも五分の魂、人間てこんなんでいいんでしょうか? この世界ってこんなんでいいんでしょうか? というような素朴な疑問の爆弾を提示しなくって、何の文学でしょう?
うーん、(ーー;)
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