2006年11月14日火曜日

美しくないことの意味

 シャルル・プリニエの『BEAUTE DES LAIDES』は始まりと終わりに作者の短い文章があり、そのなかにサビーヌ・サブリエという女性に日記が納められている。形の上では、額縁小説、あるいは薄皮饅頭小説というべきか。(余計なことですが、作者が作品の始まりと結末に現れて御託を並べるというのは、どこかエウリピデスの悲劇に出てくるデウス・エクス・マキーナを思わせ、また似非創造主もどきでしたり顔に解説などされるのはあまり好きではないのですが)。

 サビーヌ・サブリエ。私ははじめ彼女の声に惹かれた。今まで私をこれほど驚かした声はひとつもなかったと信じている。それは、鋭さとか重々しさとかわざとらしい努力を伴った妙な声ではなかった。いや、そういうものではない。ごく自然なメゾ・ソプラノの声であった。声量は稀にみる豊かさだった。しかし、彼女はそれを抑えていた。彼女の声のヴィブラートは鋭敏な弦を思わせたが、決して割れるようなことはなかった。私は人間の《声》という名に、これほどまでにふさわしい声は一つとしてなかったような気がする。
 幾月か後、あるスタジオのなかで、私はこの歌手を見た。彼女はみやびやかな感じをもっていないわけではなかったが、それにしてもなんという貧弱な顔だったろう!
  シャルル・プリニエ、關 義訳『醜女の日記』(新潮文庫・昭和33年1月20日発行)
  なるほど、やはりそうだったか。もっと早くに読んでおけばよかった。
 私自身は、『死海の林檎』という失敗作のなかでこんなことを書いている。
 無駄な脂肪がまったくついていないはるみの背中や腰は、最低でも五歳は若く感じさせた。透き通るような肌の色といい、艶、張りといい、ヴィーナスそのものの腰つきと言っていい。ただし、浴室のドアの手前で振り返らなければの話だ。振り返り、私に向かって微笑する彼女の表情は、首から下の肉体の完璧さを裏切るように均衡を欠いた顔をしていた。目、眉、口、鼻、頬、すべてが途上で造型を断念されてしまったかのように中途半端に終わっていた。そして、もう少し手を加えたら絶世の美女になったであろう、一歩手前の崩れがあるゆえに、その表情は余りに人間的だった。顔面いっぱいの笑みも、涙するまなじりも、怒りにひきつる頬も、醜さを必死にこらえている風に見えてしまうのだ。

 それは、しかし、そうでしかあり得ない彼女が悪いのではなく、そうとしか彼女を見ることが出来ない私自身の見方に問題がある。
 スタイルはモデル並みかそれ以上、いやミロのビーナスよりかっこいいのだが、顔の眼、鼻、口、唇などの配置、バランスが微妙にずれている。そういう設定ではるみという女性を書こうとしたが、男の視点から書いたので見事に失敗した。絶対に、はるみ自身の視点から書くべきであった。顔が美しくない、ただそれだけのことに人生がどのように影響を受けるのか、それを書きたかったのですが……、読むことに徹した方がいいです。

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