2006年11月19日日曜日

過去へ遡って

 だいぶ前の、ある日の日記。
 ユングによれば、「悪」という概念の入り口になるのが 「影」という概念である。「影」というのは、ユングのい う「元型」の代表的なもののひとつであって、意識によっ て否定されたもの、あるいは生きられなかったものによって構成されているという。(前記『臨床ユング心理学』)より

「意識によって否定されたもの、あるいは生きられなかったもの」とは何のことか? それがどうして「影」であり、「悪」であるのかと考えているうちに、M・エンデの 『モモ』を思い出していた。あの影のことだ。 ひとは生きるために自分のなかのさまざまなものを否定 し、捨て去っている。意識しているといないにかかわらず。 それら生かしてもらえなかったものの逆襲として「悪」が 突然表に出てくることがある。ファシズム、酒鬼薔薇聖斗、 オウム。 彼らだけでなく、ぼく自身がいまこうしてあるために、 どれだけのぼくが捨てられてきたことか。一瞬一瞬、ぼくは別のぼくになろうとするぼくを否定して来た。それだけの可能性もまた。 このことは、小説の可能性の問題と重なって来る。 ひとによって生きられる現実はひとつしかない。だが、 生きられなかったまったく別の人生が、ほんとうは無数に あった。 「ああ、こんなひとといっしょにならなければ、わたしは もっと幸せになれたのに」と倦怠期の奥さんが口走る。そ う、確かに別の人生が無数にあったのに、ひとつを選んだ のだ。 一瞬一瞬選択の連続であり、その一瞬ごとに選ばれずに 捨てられ、否定され、現実化されなかった人生の「影」が 目に見えないけれどある。 それらの、数限りない契機に「影」としてひとによって 生きられなかった別の人生を、文学、小説という言葉の器 の中にありありと再現したい。 それこそが、ぼくが下手な小説を書きつづけている理由 なのだ。 現実ではあり得ないこと、あり得なかったことも、小説という、言語による虚構世界では何でもあり得る。起こり 得る。それを実現してくれるのが想像力だ。それも、自己も他者も同じ人間として見、考えることの出来る正確な想像力だ。そういう普遍的視点を持たない想像は、想像とはいわずに妄想と呼ぶ。


 山川方夫『海岸公園』と日野啓三『天窓のあるガレージ』、これは間違いなく偏愛図書室入り。

 「木曜日」の夜鯉さんがブログで矢田津世子の『茶粥の記・神楽坂』に触れておられた。が、残念ながら未読である。青空文庫で「反逆」と「罠を跳び越える女」を読んで、この程度の小説を書いただけだったのかと思っていたので、『茶粥の記・神楽坂』は是非とも入手、読んでみなくてはなるまい。
 矢田津世子というと坂口安吾を懊悩させた女流作家というイメージしかないが、夜鯉さんに電車を乗り過ごしさせたという「茶粥の記」とはどんな小説か?
 まァ、昭和の初めは文学だけでなく興味深い作家、芸術家が綺羅星のようですが。

1 件のコメント:

  1. 弊ブログに触れていただき恐縮です。またあちらにコメントを頂戴し、ありがとうございます。
    「茶粥の記」はほんとに、なぜあんなに没頭して読めたのか、いまだに不思議なのです。私の体調とか、バイオリズムとか、そんなものも影響していたのかもしれません。自分でよくわかっていないのですよ。読み返してみないといけないな、と思ってます。読み返してみたら、もしかしたら、退屈しちゃうかも・・・。

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